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2018.08.05

杉山勝己と聖書(509)聖書はいかにして、信じられるのか(65)永遠の生命論の研究(十二)日本の文化、西洋の神学文化

 

 西洋神学の高さを、

 ここまで感じるとは思わなかった。

 万民が救済されるとする仏教的神道的観念は、日本の文化である。ヤクザとて、自分の本部に神棚を設け、組の結束や繁栄を願うのは。また、誓うのは。人間としての心がけであろう。イタリアのマフィアさえ、十字架を信じている。自分たちが、悪の集団であろうが、なかろうが、人間には違いがないという論法は、昔の講談によく表現されている。むしろそれを任侠(弱気を助け強気をくじく気性、おとこだて)などと称していたことも 日本の文化であろう。仲間を重視し、裏切りに凄惨な報復をするマフィアにも、宗教心はあるし許されるのは当然である。

 その文化も、いつの間にか強気一本が最高善となって、オリンピックを歪めきっている。昔は、参加することに意義あり、と言っていたものが、敗戦国日本が、戦勝国のおかげで国力の頂点を極めて保守化し、勝つことななら何をやっても許される式の意識が日本に蔓延している。これに、経済効果が伴うから、今からではとても工業国家になれない後進国の経済を、スポーツで少しは溜飲を下げる方法として、後進国でも採用されている。これなども、時代なのであろう。満ちたるは、欠けることの始まり、とは昔から年寄りの繰り言(くどくど言うこと)である。

 昔は最貧国がいっぱいあったアジア地域は、内村の予言通りアジアの時代となって。いまのところ人件費の安さで、先進国を席巻し今は経済の隆盛に湧いて発展。一体これから、世界はどうなるのか。という、ことはいうまでもなく温暖化の方向をゼーブできないことを容認し、成長は当然と公言してはばからない。もはや、こう暑くては、一体どうなるのであるかとは。人類が平等に経験している凶事である。今朝の報道によれば中国は、いよいよプラスチックゴミの処理を「しない」と輸入を止めた。それが、東南アジアにあフレ出して、ますます海は汚染されるとなると。いうまでもなく、考えただけでもゾッとする幻想である。

 その中、少しは救いとなるのがブルンナー神学の、万民救済論である。神は、と書くわけであるが、ブルンナーの活躍した時期の世界の状況は、今とはまた違った困難な時代だった。が、彼はそれを深く理解し、万民救済論の中で、差別化が現実の、西洋社会の先進性を踏まえて、尚。世界の人間は全て神のもとで救われるのだ、という神学を考えていた。とは、よく知らなかったことである。が、要するに、我田引水とも捉えられてもいた、のではないか。宗教で大衆を慰め、自分たち(先進国は)良い生活をする、という影の意図のことである。とも、思われていた節がある。

 が。若い時からブルンナー読みであった私は、かれの神学的論拠については深く理解が届かず。歴史に関わる神、について書く氏の論文には、信仰的な立場からある程度納得はしていた。が、本当の深い神学的論拠は、全く理解不能であった。老年になって、やや死が見通せる年齢となり、なるほど人は全て滅びて行くのであると実感する時間を、毎日送っていると、その神学も少しはわかるようになった。

 神は宇宙の創造者である以上、その中に最も高い位置にある人間を、罪に落ちた全人間を一人残らず救済する、とは、なんとも幸せな気分になる。ただ、その論法はまだまだ現代的な解釈が必要であり、常に再考に再考を重ねる必要がある。のが、この宇宙で最高の理性をもつ人間の義務でろう。

 と、いうことを言えるとは、祖父ネットのあっつい夏も、あながち無駄ではないような気がする。で、少しはまともな人間になったのかなと思いつつある時昨日。やはりブルンナーの古書「人間」(副題は、その現実と真実/昭和三十一年、450円/新教出版社刊)が、着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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