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2018.08.04

杉山勝己と聖書(508)聖書はいかにして、信じられるのか(64)永遠の生命論の研究(十一)キリスト教万民救済説に達す

 

 信じた私にとって、自分は救済されるのであるが、

 他の人がそうならない、というのは苦しい経験である。それならいっそうのこと、神に救われなくともいい、と言ったような気持ちになることは再三である。子供の時に受けた(高三)洗礼なので、この幼い論点には悩まされたが、今だに解決されていなかった。キリスト教の一般理論として、神は人を救済するためにイエスキリストとして受肉し、地上に神の意志を具体的に示したのだ、という説には賛成する。

 が、信じたものは良し、信じない者は永遠の地獄に落ちる、ないし死の中に生き続けるなどという、そら恐ろしい教えは、宗教者の恫喝であって納得できるわけもない。それに、自分は救われて天国に行き、行けない人がほとんどの日本で、なんで俺だけがみんなと別れ、救われる道に行かねばならないの、という疑問は洗礼の後の社会にで出てからの、もっぱらの疑問であった。

 その上、恵まれていて(親が金を払えて)、当時は社会の進学率の少ない大学など(私は明治学院大学)に、行かせてもらえたので。今度はそこで始まる一般読書の堆積の中で、苦しまねばならないことになった。いくら、教会に同時的に通い、山永武雄の優れた説教を聞いていたとはいえ、マルクスやレーニン毛沢東などの書物を始め、社会主義経済論や、資本論などもかじるから、社会性は当然左寄りになって、いまだ社会心情は左寄りである。

 日本から文字通り純粋な「社会党」が消されたのは、全く不快極まりないことで、日本には本当の民主主義などないと知った。この頃の不快は、日本が単純保守傾向に陥っていることからも、うかがい知ることができるとは、前回書いた。イギリスなどはいまだ、「労働党」というパーティを残している先進性は、その優れた民主主義を支えるキリスト教のおかげである。そんな中、昔から架空大衆主義でしかない、日本のキリスト教に飽き飽きしていたが、やっと本物のの「万民救済説」に出会ったのは、なんとも人生も終わりに近づいたこの頃である。とは、遅きに失するのであるが、人生は素晴らしいと思うのである。

 これで、素直にキリスト教をこのまま継続できるので、やっと安心して私だけは天国に行ける。もっとも、神が私を選んでの話であるが。ブルンナーはそのことを「救われた者は、それがどうしてかわからない」という言葉で証明してくれた。だから、私がいけるとは、もちろんわからないことである。それで、いいのだ、自分は信ずるのみ、でしかない。自分の様々な社会的個人的悪行からすれば、神がお選びくださるとは、とても思えないし。バランスシートは大いなる赤字だ。で、「わからない」は「永遠」という本で彼は書いているが、このブルンナーこそ、私が明治学院高校にいたときの教科書であるということを。さらに一層強調して、今日は終わりたい。

 もちろんこの暑い中、万民救済説を今後真面目に、書いて行くつもりだ。まさに、喜びの暑さだ。し、頭も熱くなるのは、結構本物の神学であるからである。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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