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2018.09.04

キリスト教的永遠の生命論の研究(1)特に、なぜ一神教になるのであるか(その二)

 

 大きな風の強い嵐が、来るぞと予報は神経質に告げている。

 朝、何。秋がきて、残暑はあるものの、冬の到来を予想して、様々な家の工夫を、少しづつ変えなさいという自然界のサイン、でもあり。ありがたいことであると、思うことも一方で必要な気分ではないか。川が溢れる、人が死ぬ、家が壊れる、山が崩れると、言っても。悪くはないが、一方で酷暑を克服した自分に感謝し、神の加護をお願いしつつ、冬に備えるというのも決して、悪いことではない。大風は汚れた大気を一掃してくれるし、秋は実りの秋なのであるし、昔なら馬肥ゆる時期でもあった。

 その情動を、忘れきって、nhkの天気予報は、危険だ危険だ、危険だと秋のまた冬の、情動を失っている。のは、残念この上ない。天気予報はそうであっても報道とは、世界の各所にある、冬ごもりの風景を、それを世界歳時記という優雅、に取り戻して。公園の秋の、恋人たちのキスのシーンなどを、落ち葉のひきつめられた奥深い公園の大きなにれの木の下の、欲望にも。目を向けてくれないだろうか。情動の秋は、世界中にあってこそ秋であって。冬であって、待ち遠しい変化ななのである。太陽は、人間の騒ぎとは関係なく、別に何も自分の法則を何一つ変化させているわけではない、と、思う。

 中、一神教の発生を書かねばならない、と思いつつ、つい前段の書きが長くなった。

 今、ブルンナーさんの死んだ時期を確認しようと、持っている本から記録を調べたが、自分のメモが見つからないのには、ビックりした。何年に生まれ、何年に死んだ、ということは、単純の様で意外に大切なことで、ある。これでは、ここで書けないから、書かないことにするが、私が若いときに亡くなられたと思う。その彼が、教義学の冒頭で言ったことは、印象的である。

 十二章「神の名」の項の冒頭。「どのように偏見のない人にとっても〈神論〉」という表現はどこか異様であると思う、と書き出している。のは、いかにもある時期世界の精神界のリーダーともなった神学者の常識を彷彿とさせて好ましい。

 と、ブルンナー氏が決しておかしな人ではない、と書いて今日はこれで。秋だね。うまいものでも食べに、行くかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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