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2018.09.18

キリスト教的永遠の生命論の研究(1)カテゴリーはなく書く、こと

  

 カテゴリーを、

 特に考えなく書いている。こうしたい、あーしたいという目標はすでに無い。

 ばかりか、表題にした終末の論理だけが、気になる。宗教と絵画とを中心に据えて、生きてきた。ので、ここに至ったのである。カテゴリーがあるといえば、それは全てすぎてしまったものばかり。親は2人(両親のこと)、小学校を三回変わり、中高大は明治学院一校で、就職は二ヶ所、結婚は一回、国籍は一つとこんな単純な人生で。ある。もはや、数少ない友人も身辺からは消えた。語り合える友人は、いない。弟子1人おらず候、と言ったのは、日本の有名な高僧である。名前は忘れた。

 いったい刑死したイエス神の子以外に、友人など人生にいるのだろうか。彼は神を示し、神になり、人を救ったが友人などという、そのような洒落たもの、は1人もいなかった(聖書にイエスの友人など、記録されていない)。そのイエス(神)に従うべしというから従っていると、友人は身辺から消える。いるのはイエスという師と私という弟子のみ。だが、神は創造の時人に、1人の伴侶を与えた。それを生涯友として生きよ、と聖書では教える。私には、それで十二分である。

 ここで、聖書の黙示録二十二章を書いておきたい。聖書最後の部分。本当に聖書はこれで最後なのである。

 黙示録コツコツと、書く、あさ明けぬ  は詩にならないかな

 ヨハネの黙示録第二十二章第1節から第5節まで(書くかどうか、わからないがとりあえず)「天使はまた、神と子羊の座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、また両岸には命の木があって、年に12回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。」で、これ以上は自分で読んでください。

 これによると、どうも天国(死後の)にも病気はあるようで、平凡な日常もあるように、書かれている。ただし、天国の病とは意味のあるもので、本来の人間智のこの世の様も、罪なき世では、かくあるだろうと思われていたもの、と書かれている。病もまた、本来充実の手段だったのである、と知る。智は人間の退屈を遠ざけ、人生を充実させるものだった、ようだ、とこれでわかる。

 だからカテゴリーは、本来人間智の極意、であると知る。人間存在の初期に創造された罪なき世、のカテゴリーこそ人間生活の全てだったのである。聖書のはじめの文章の創世記には、そう記録されている。

 

 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc  






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