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2018.09.15

キリスト教的永遠の生命論の研究(1)特に、なぜ一神教になるのであるか(その十四)黙示録から工学院大学へ

 

 急に工学院大学に行くことになった。

 目指すは新宿本館28階。

 久しぶりに高層ビルに登ったが、足元がなんだか揺らいだような気になるから、面白い。超高層に登ったのは、本当に久しぶりで、滅多に最近は行かない。28階は同大学の同窓会本部のあるところ。だ。

 経緯は面倒で、いたって複雑であるから書かない。ただ、そこで茅原健箸「工手学校・旧幕臣たちの技術者教育」を頂いて帰って来た。私の実務生活の90パーセントは、建築設計業である。もちろん明治学院大学文学部出身の、その業界では変わり者だから技術者ではない。事務屋である。が、これでこの業で数えると、三代目である。会社は今も存続している。が、もちろん私はこの通り、キリスト教のブロガー宣教師兼画家である。これも変わっているが。

 本の始めの頃、タイトルを設けて「木村熊二の明治女学校」が出る(偶然であるが)。

 少し引用してみよう。「工手学校(杉山注、工学院大学の前身)が開校する三年前の明治18年(1885年)、キリスト教による自由主義的教育を実践する女学校が、東京麹町に創立されている。明治女学校である。

 設立者は木村熊二とその妻鐙子(杉山注、とう、と読む。馬のあぶみ、のこと)。木村は幕臣として彰義隊に参加して敗者となった怨念を持った人物で、この明治女学校は、戊辰戦争で敗れた幕臣たちが、新時代の女子教育を目指して創立した学校である。

 木村の妻鐙子は田口卯吉の異父姉で、ともに新政府による幕臣追討のとき辛酸を舐めた。田口卯吉はもちろんのこと、ほかにも幕臣に連なる植村正久(杉山注、明治学院教授、白金教会実質創立者、明治基督教界の重鎮)、島田三郎、勝海舟などが明治女学校創立に関与した。

 明治女学校の教壇に立った者のなかに、島崎藤村(杉山注、明治学院卒、明治女学校教師、後の文豪)、北村透谷(杉山注、近代日本の前衛的開明的思想家)らがいる。」

 と、書いてまだ続くのであるが、重要かつ縁のありすぎる事柄が続いて行く。が、実をいえばこれは読み始めに過ぎない。

 し、昨日は、実はここまでも読んでいない。今朝これを書くために、この書きのきっかけとなる、工手学校という名称から。工学院という名称になるときの経緯で、「院」という名称はあまりにもミッションスクールとか宗教的だと、反対する人がいる、という部分を少し読んでいただけ。なのに。

 で、面白いのでそれを書いてみたいと思いながら、ほんの導入部を読んでいて思いつていたので、書き始めたばかりで。「木村熊二」タイトルの部分を読み始めたところ。上述の文章に出会い、書いているので、あまりにショックが重く、これ以上は、書けない。ので。

 次回とする。

 要するに、私の父、神田の左官業の次男である父が、工手学校の卒業生で一級建築士、であった縁で全て私の人生があったキリスト教すらあった、ということを知る朝は。なんとも、足元が揺れるようなショックなのである。いうまでもなく、黙示録を書く私は、明治キリスト教のあらかたぐらいには精通している。

 28階の足元が、帰路のエレベータ待ちで揺らいだような気がしたのは。錯覚であって、あまりの奇跡の大きさに私独特の勘が冴えきっていたのである、と今は思っている。が、当日は知らぬが仏、で世界堂文房具部の前に出て新宿駅まであるき、久しぶりに山手線に乗って池袋にでて帰って来た、次第。

 すべては、次回に明らかになるだろう。

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 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

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