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2018.09.02

人間社会の相互認知における存在の意味について

 

 パソコンが吹っ飛んで、泡を食って近くの病院(PC デポ・株式会社ビシーデポコーポレーション)に駆け込み治療を受けた。

 予想の治療費は、はるかに高く参ったが、それでも素人にはどうにもならない。仕方なしに、前払いしてしのぎ、その後も色々あったにしても、面白い勉強になることは、実に多かった。支払った以上のお釣りがくるほどの、思考の高みが待っていた。それが、このタイトルである。

 ツイッター(やらないが)にしても、アマゾンにしても、ソフネットにしても、ニフティーにしても、なかなかやるね。と、素直になれた。

 データーが一式ぶっ壊れたにしても、残っているものも、外付きのハードディスクにあった様だ。まさにどうしてなのか全くわからない話であるが、意外にこれが面白い。昔自分が書いた祖父ネットの文章などが、出ると、へーと思うのである。自分ながら関心もするが、要は、古本屋さんの安物本と、全く同じの誰にも買われないのに、棚にあるもの、と一致する。それが嫌で、本を出したことがない。

 な、と思った。文章も読まれる時が新鮮一発、それでおしまいである。それが、その人の中で、どの様に人生に資するのかは、誰にもわからない。まず、再読はないものと思って、いる方が人間存在の流れの中では、重要である。再読されるもの、再読するもの、とは何か。つまり時間の中に残るものは、どのような意味を持つか。過去の、あの瞬間のあの人との大切な思い出とは、何か。貴重で、再びない、絶対に過去の時間から、人間は果たして。貴重な宝石を保持できるものなのか。で、あれば、肉身の情ほど高い近いものであるはずが、そうでもない時間の過ぎ去ったやり取りの、あのグッと来る瞬間の、忘れられない、老体のコロ(愛犬)を、虐待した自分を、急に思い出して、自己嫌悪に陥る自分を発見する。

 その点、まさに「父なる神」という概念は、最高である、ということを書けば、元に戻れるかも知れない。父なる神よ、我に永遠の生命を、祖父ネットに再び書かせたたまえ、と祈って、今日はやめたい。神はいつもこんな私にも答えてくださる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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