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2018.09.09

キリスト教的永遠の生命論の研究(1)特に、なぜ一神教になるのであるか(その八)祈りの文章化で思うこと

 

 絵画がいいと思うのは、

 言葉がないからである。

 言葉のうちで、一番高い位置にいるのが、詩。その詩の中で、さらに一番の精華だと思うのが、祈りである。が、前回で書いたのが、初めて。なんとなく、白けるところがある。この白けた部分に存在する、神の存在への疑問、などがちらりとみえる。言葉だけの、自分の祈りでは感じないものだ。言葉は空気空間に溶け込んで、何も残るわけではない。から、書かれない祈りは、自由な祈りとなる。祈りは、神に向かうから神の中にしか痕跡が残らない、と、思う。神が記憶してくれる。と、言うことか。

 人は、時に恨みも言うし、感謝もするから、書かれない実際の祈りは率直である。それを、書きとは別に、いいとこ取りして形式化したものが「教会」である。儀式と一緒になり、独特の雰囲気を醸し出す。それは、世界の宗教施設のどこにでもある人間「風景」。であって、それが経済的効果や民族的効果、個人的効果、果ては都市までを創造的に作り出す。が、今は昔ほどではない。

 それをほとんど壊したのが、唯物論。科学時代のこの時代にあって、仕方のない時代の流れであろう。

 だがしかし、ここで一考し。経験的思想史論を書いて見たい。先ほど友人からの貴重な電話から、フト思いついた。電話で、自分に言い切れないものが残り、友人に対し特にここに書いておきたい。祈りを、書くようなものである。うまくかけるかな。

 ここで書いている「神学者ブルンナー」が、終戦当時、日本の思想的混乱を自由主義的に誘導するために、連合軍(英米)から選ばれた思想家であると言う認識は、かなり深刻な問題である。ブルンナーは当時、共産主義的唯物論に反対が鮮明であった、ことは有名である。ただ、ソヴィエトと英米はともに連合軍の同志、としてドイツとの戦争を戦い勝利した仲間として。いわば、思想的相違は同床異夢の状態にあった。

 この辺りが、思想史上わかりにくい現実社会であるが。大戦勝利後に、この矛盾した思想問題が、後の大問題になると、当時のイギリス首相チャーチル氏が考えていた。つまり彼は、戦後の冷戦構造の見通しを立てていた。その、チャーチルの予想通りのことが起こったのは言うまでもない。

 ただ、その後の時間の経過は、世界史にもう一つのショックを与える。大国、ソヴィエトの崩壊である。これが、現在の社会の状況に深く影響していると言うことは、言うまでもない。冷戦構造の崩壊をひきづる現代社会は、それで安定しているかといえば、そうとはいえないのが現実であろう。

 この単純な問題を、現代的に国際政治思想史で見れば。自由主義陣営は言うまでもないが、唯物論的陣営には中国、北朝鮮などの大物が顔を揃えている。北朝鮮を大物扱いにするのは、正しくない。とは思うが、開発した核兵器をちらつかせ始末がわるい。ので、こう呼ばざるを得ない。つまり、思想史上の問題として単純化していえば、唯神論対唯物論の戦いが、現代世界の深層に横たわっている。

 私が若い頃、聞きかじっていたマルクス経済学によれば。発展し矛盾を深めた資本主義的社会は、プロレタリア的共有財産的社会に、置き換えられていくとされていた。しかし、現実社会を見ると、唯物論的社会たる中国の位置は長い間、後進国扱い。それがたちまち、先進国的雰囲気を持って(マルクス経済学的に)、国際政治上で対等にアメリカと対立している。のをみると、やはり。マルクスの思想の正しさが、あるか、などと考える人もいる。

 しかしこれは、資本主義的機械生産と言う枠組みが、いつの間にか。個人主義的コンピューターに置き換えれれて産業化すると言う、思想史上のマルクス的判断基準が通じない現象を起こしている、に過ぎないこと。だと、言い得るだろう。で、中国は果たして、プロレタリア的共有財産社会、な、の、か、と言う疑問が出る。が、唯物論的社会であることには、違いがない。

 この事態は、思想史を難しくする。

 要するにIT産業は、過去の思想史上の論理要素には入っていなかった、と知るのである。この技術変化を予想した思想家は皆無で、いわば昔から見れば、予想不可能な事態だったと言えるだろう。

 従来から思想史では、思想的重大要素の中に産業革命を数えてはいる。が、思想的な意味では、深くは捉えていないのではないか。その世界思想史上の解釈伝統が踏襲され、技術が先行する今の社会を理解できなかったのであろう。

 しかし、先行した技術社会も、落ち着いて観察すれば、所詮「思想」なのである。技術はやはり脇役である、ことに変わりがない。あまり、技術が思想を凌駕して重要視されると、社会を見誤ると思う。あらぬ方向に、人類を導く。今の世界の傾向は、まさにそれで、もっと思想史的考察を吟味する時期に来ている。と、若い思想芸術秀才の出番だと、言いたいのである。

 と少し、長くなりすぎた。電話では、言い切れないと知ったことであるが。が、読む方は、たまらないね。勘弁勘弁。ではあるが、いかがか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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