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2018.10.30

永遠の生命と中村佳子( nakamura keiko )さん

 

 

 池袋の梟書茶房、で本を二冊買ったのは、妻敦子である。

 その一冊が、「生命誌とは何か」(講談社学術文庫・2014年初版の第3刷)。実は、梟書茶房も初めて、全てが初めてだ。で、中村さんをどうして妻が買ったのか、わからない。この本を買ってから、すでに二週間以上も経過している。が、読んだことがない。のに、今朝なぜか、手に取った。絵を描いていると、書きができない。頭の中が、空っぽで、書きにならなのだ。

 書くという行為は、頭の行為である。頭の中に、書くための感覚感情意味などがないと、かけるものではない。書き方の形式である。一方、描きにはそれが、私の場合は、ない。ひたすら、頭の中は無我である(ゼロではないが)。何の感情も意思も、目的もない。ひたすら、湧き上がる瞬間の感覚で、描く。一種、性の感じに近い。

 やりたいという感覚は、貴重で尊い。若い時は、この感覚にもろに苦しめられるほど、これが切なく常在したが、今はほとんど消えた。このプロセスは、多分人間生存、実在、存在と関係がある。ただ、描くは、この「やりたい」感覚が消えても、かえって描いているうちに蘇ってくる。時間はかかるが、それだけに確実だ。ただ、若い時のように、いやらしく、ない。いわば上品な性の感覚である。

 今は空を飛んでいるような感じ。だ。全然、空間的である。だから、何か行為に入らなければ、行為が出てこない。頭の、行為、と言うより感覚の行為であろう。その空間は純粋で、それこそ透明、である。体自体が、軽いという感じがある。死んだら、多分空を飛ぶ。

 若い時、「透明」という雑誌に小説を書いたことが有る。ほとんど失敗作で、キリシタンを書いて失敗し、未完のまま放棄した。それでも書店には、並んだ同人誌である。で、モノにならないまま、随分と年月だけは経過した。最愛の妻(失いたくない、という深い意味がある)が買ったのもだ。買った理由は、わからない。が私が、永遠の生命を書く書く書いている、としょっちゅう言うからだろう。一緒に梟に行ってコーヒーを飲み、妻はそれを買った。理由はまだ、聞いていない。聞いても答えないだろう。以心伝心にしてそのまま、読んでみたい。

 今それを、はじめのページをざーと読んで、ぴったり。永遠の生命とお見事連動するテーマとは、知らなかった。梟書籍では八百五十八番。出だしをご紹介しよう。no.0858 番「生きるとは、人類とは、あなたとは、何なのか」が、テーマである。

 「人間とはおかしな生き物で、私とは何か、(祖父ネット注、ワープロで、勝手に出る漢字を、本文と意味を違えない限り、面倒なので、そのままにする。)私はどこから来てどこへ行くのか、と言うことが気になります。別の表現をするなら世界観がはっきりしていないと落ち着かないとも言えます。(中略)子供の頃は、好奇心が強くて皆天才のように見えるのに、大人になると平凡になってしまうと言われますが、誰もが共有できる、いわば平凡な世界観がなければ困るわけです。」

 となる。まさに、ここで言う、平凡な目標こそ、私が言いたい「永遠の生命」なのである。

 俄然その本を、読む気になっているので今日はここまで、としたい。長年連れ添ってほぼ(各自夫婦といえど個性がある)、同じ道を歩いた人は、平凡では、ない。黙っていても、何も言わなくても、アダムの気持ちはエバはよく知る。女とは、凄い生き物であると、自分の中のアダムが呟く。アダムは、言うまでもなく人類の思想の始祖、である。女は、彼に「ねーあなた、神はいけないと言うけど、あれは美味しいワよ、きっと」。アダムは、「そうかい」と、言ってそれを食ったのだ。する、ハッと気がつく。と、そこにオンナがいた。で、子供ができた、と言うのが、聖書のメッセージである。

 彼は、欲望するのでる。思想のはじめだ。聖書の創世記に書いてあるが。本当だろう、と思う。だから、絵には描けない、と思う。過剰にエロすぎる。人間の愛はエロス、神の愛はアガペーと表現される。聖書にある、高い知恵である。

  

 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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