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2018.10.31

永遠の生命をいうキリスト教

 

 「弁証法神学序説」という、考えてみると、ずいぶん難しい本を。

 十三円でアマゾンで入手し、その二冊目を改めて読んでいると、少し読んだだけで。西洋思想ないし西洋キリスト教の、決定的にややこしい話なのだ、ということがわかる。

 だがしかし、不幸なことに、真面目にキリスト教の後を追ってきたものにとっては、この高みは結局目もくらむばかり。キリスト教の非伝統のアジア文化を背負ったものとして、ほどほど理解しがたい、ことでしかないということもわかる、のだ。著者ブルンナーは平然と自分たちの伝統の「文化」を、そこで書いている。

 だから、ただ信ずれば良いなどというのは、まことに無責任極まりないが、それが世界の人類の「救い」ですということになれば、そうですかと真面目に聞くことにもなる。それが、明治維新なのであろう。健気な日本人、ないしアジア人である自分は、真面目にそれを明治学院で聞いたのであるが。

 明治学院で、子供の頃から、これに接していたばかりでなく、洗礼まで受けて。その後も、真面目に教会に通っていたし、さらに内村鑑三のような、日本宗教人の超天才の真摯極まりないキリスト教追認も感激して後追いしたから、私はおかしな日本人なのである。が、この歳になって、改めて、ブルンナーが書いた「弁証法神学序説」を読んでいると、それがわかってくる。

 彼が、この本を書いたのは、1921年(序文からわかる)は、大正10年、だから。考えてみればずいぶん古い本だとなるが、キリスト教の場合は、古事記などより古い聖書から考えていくのだから、その古さは、驚くには当たらないのである。が、それでもざっとローマ帝国が出るから、厄介である。とわかるのは、最近である。だいたい、日本人は観光以外のローマ帝国史など、関係ないではないか。

 先日もテレビで、ヴェニスが洪水で。という画像とともに、イタリアも雨が多く強風で大木も倒れ、などというナレーターから、ローマ古代競技場の前とコンスタンティヌスの凱旋門が写っていたから、私が実景としてみているもので。その皇帝がローマ帝国にキリスト教を導入した、その人だとするわかるクリスチャンとしては。観光的、かつ災害を見せたいテレビの意図とはまったく別に。感無量だ。

 複雑なキリスト教のブルンナー の記述が、気になると言う、かなりセミプロ的な宗教狂であれば、と言う具合に、どうもおかしなものなのである。これでは、キリスト教伝統のない日本人には、これを読んでくださいということ自体が、どだい無理な話なのである。立派な新品古書とはいえ、13円であることの意味であろう。まして、書き込みの中に、明らかに訳者である、後藤安雄さんと思われる丁寧な書き込みすらあって、この古書が新品同様に大切されていたものだと、わかるのは、その推定が成立する根拠になろう。後藤さんは、1901年生まれの人だから、明治34年生まれ、言うまでもないが私の父より年上である。今ご存命なら、117歳ということになる。

 ここまで、考えないと、また経験しないと西洋のキリスト教はまた神の救いは、わからないのであるか。と、早朝から嘆いているのである。が、要するに、だから「教会」が必要であり、教会は決して神学などをやるところではないのである。と知るのである。が、教会に毎週通い真面目に献金をするのは、現代生活では至難の技で、それを一生涯やる人も何人も知ってはいるが、異常と言って良いと思う。日本人であれば、自分のうちにある仏壇に、毎朝お線香をあげる方が、よっぽど宗教的に常識的ではないか。とも、思える。実に、経費のかからない、うまい精神生活法である。

 ブルンナーはそこを、世界の近代思想、近代哲学の進捗が、やはり西洋的なキリスト教的な仕組みが、いかに近代思想の前で苦しんでいるかを書くのである。がそれは、彼が、宗教改革国(改革者カルヴァン・フランス人)地元スイスでも、人々のキリスト教離れが起きて、真面目な神学者ブルンナー という若い秀才の脳髄を攻め立てたようだ、と思える記事になっている。

 それを克服し、いつの時代も同じ大衆を相手にする、彼ら本場の神学者の真摯にも正直打たれるが。それは、すべて「神の言葉」(バルト)たる聖書の真理を、いかに主体的個人主義的現代人に伝えていくかという、要は永遠の生命の問題の、問題であるのだ、ということも知るのである。

 第一章 体験としての宗教 (22ページから、適当に改変要約しながら書いてみたい)

 主観主義の宗教の自叙ーー近代の特徴は内面性への方向転換である、から書き始める。

 近代の特徴は、精神生活を外力による拘束(ここでは長い年月である1500年ほどのキリスト教的宗教的拘束、をいう)から解放することである。

 であるが、これがわからないと、近代はわからないと私にも明確に認識できるのは。そのキリスト教的、または一般論的宗教的拘束の古い時代の精神生活の、世界史的歴史的展開を知っていないと、これらの話の理解は、無理だ、と言って話を始める。それが、弁証法的神学に到る道の、イントロとなる。と、知るのである。が、勉強のしがいはあるのではないか。わからない。

 ブルンナー 自身、それを書いたのはたったの32歳。要するに、まだ経験不足の若き秀才の神学者、に過ぎない。が、ただ、主観主義の宗教の自叙、とタイトルにしたのは、そこに全てのテーマが圧縮されて表現され、その後の本物の世界的神学者となり。戦後の我が国にも、多大な影響を与え、明治学院院長の武藤富男を怒鳴りつけ。かつ、我が時代の明治学院の高校の教科書となる、という経緯は知ってもすでに仕方のないことで。

 すべての興味を、永遠の生命に特化することが、大いに人類のすべての人の興味のありどころである、とした方が、私にとっても、精鋭の画家にとっても大いにやりがいがあると思う。のであるが。いかがであろう。 

 

 

 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc 

 

 

 

 

下の写真は、30年ほど前、ローマに行った時に実写したコロシアム。この画面の左側にコンスタンティヌスの凱旋門がある。当時は、その意味を知らなかった。当時のローマ皇帝コンスタンティヌスがコンスタンティンノープル(今のトルコ・イスタンブール・1549年に征服された)という都市を造って、首都をローマから移した。この人が、キリスト教をローマ国家教としたのである。ここから、キリスト教は個人を拘束する宗教となった、とブルンナーは書いた。スイスの若きが宗教学徒は、そう解釈したのである。それが、1000年以上継続し、約500年前の宗教改革まで、個人は国家宗教の前に逼塞したと、解釈している。

 

 

02730038

 

 私にとって、この写真の右下の記録された日時が、前から気になっていて、自分の記憶と大いにずれる、ので。いつも戸惑っている。はっきり未だ旅行の日時が不明である。だが、現役の頃で、かなり前である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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