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2018.10.10

永遠の生命におけるエロスとアガペー

 

 永遠の生命の原点は、エロスとアガペーである。

 正確に書こうと思えば、アガペーが先行するのが、正しいと思う。なぜなら、聖書によれば、宇宙はアガペーによってできたからである。

 そうはいっても、それを証明する手段は持っていない。この概念は聖書のものであり、教会で言われてきたことである。聖書の伝統保持(教会)も、容易ではない。なぜなら東洋の日本人である私は、遅れているキリスト教文明の私であって、無教会無集会にならざるを得ない。で、西洋人からいえば、全くの異端であるかもしれない(ブルンナーはやや理解があるようだ・これから研究したい)。

 異端とは、本体から異なるもの、である。その私が、最も伝統的なことを基礎にしている、のはいかにもずうずうしい、のかもしれない。本体(教会)を捨てて、その外皮を捨てて、そのうまい身だけを食おうなどというのは、やはり図々しいと思うのであるが。これが人類の、人間愛(エロス)の限界ではないか。私は、言うまでもなく、日本伝統を背負っている。

 人間に限界があるというのは、当然である。我々はアガペー(神の愛)によって創造された人間にすぎない(創世記によるが)。と、言うべきであろう。

 本体とは伝統なのであり、それは私の場合、日本伝統にキリスト教伝統が加重されている。そのキリスト教伝統が作り上げてきたものが、アガペーとエロスであろう。存在の本質を、この二つに分離したのはなかなか味のあることで。ここで愛を、神規定と人間規定から出発させる伝統は、なかなか良いものと言わねばならない。愛を二つに分ける、という自然的真理は、日本伝統でも明らかである。が、アジアではこの神の愛の概念規定が明確ではない。

 日本の原始宗教で行けば、今でも伝統的な天皇の慈愛(象徴として)は神道的に、また仏的(仏様的)にも象徴される。西洋ではわざわざ、それを人間を超えた神の愛、と規定したのは。やはり愛の普遍という、高い文明の価値を世界的にしたと言えるだろう。これが最も高い、人類の愛の概念規定であると思う。その混沌が、インドである。佐藤貢さんの旅行本(祖父ネットカテゴリー、絵画に書いた人)は、その実態を教えてくれる。

 それは、人間愛がエロスから抜けきれず、エロスによって存在規定される我々の存在だけでは、人間の高さや深さは説明できないない。ばかりか、血的に人間存在の相互性(人類皆兄弟)を説明しても。それはいつも争いでしかない(聖書的説明でもそうなっているが)のが、現実である。

 本当の愛の説明は、それがアガペーと両立するところに、解決がある。と、思う。人文文明では、人間愛を絶対化したが。しかし、現実は、いつも夢破る、である。で、宗教家は架空的本当を言うので軽蔑される。要するに落ちこぼれなのであろう。しかし、いかがか。な。

 ここからさらに、人間存在の永遠規定に入るわけであるが、容易ではない。この愛の説明なくしては、永遠は説明できないのではないか。私たちの愛はアガペー的です、などとキザをいえば子供は生まれない。あくまでも哲学ないし宗教の話である。

 エロスと言う本質は、我々を囲んで悩ましいと言えるだろう。だが、神の愛(アガペー)があって、初めて人間は昇華される。のでは、ないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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