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2018.10.16

永遠の生命は時と関係している、のであるか

 

 永遠の生命を考えていると、

 どうしても、時間という観念が頭に登ってくる。永遠は、実は、この概念、時間概念ではない、のではないか。などとも考える。

 つまり、永遠という概念には二つあって、円環と直行がある、となる。直行は方位三百六十度。どの方向に行くのかということは、その人の運命を決定する。それに比べ、円環概念は大小に過ぎない。大なる輪、か、小なる輪であって、それが微小であるか、極大であるかの違いであるに過ぎない。

 となれば、円環には時間があるのか。何周、という概念は時間概念か。それに比べ、直行には時間がない。それは、直行は、基本的に戻れないと思われるからである。だが、起点からは何時間経過した、となればやはり時間か。しかし、それは記録(歴史)でしかなく、一体どこまで直行するのであるか、となる。と、円環概念の方が考えやすい。で、アジア宗教ということに、なるのではないか。アジア人たる私は、子供の頃から別に抵抗もなく、父と墓参りをしていた(日蓮宗・日暮里)。つまり、円環で成長したのである。

 ただしそう簡単にはいかないのは、言うまでもない。小学校三年で、直行型宗教「教会」と出会う。

 円環は、スパイラルになれば、上にか、下に、動的である。これは宇宙が円錐形をしているという仮説を生み出す。が、実際のところわからない。で、西洋では永遠であるが、これらは単なる観念の遊びに過ぎないのか。どうか。まさに、万物の物質化と円環の偶然的かつ意思的宿命論、であるか。どうか、誰も、答えられない。

 で、西洋では、具体的に、イエスである。つまり、神の子、概念に達する。が、これが実際にはアジア人には難しい。が、西洋には、神学者バルトがいる。この人の名著「ローマ書講解・上下」は、キリスト教系では今でも現売している。が、平凡社では絶版である。だが、私には、ブルンナー に並ぶ、重要書である。西洋キリスト教神学は、ここまで来たのである、で紹介してみたい。

 上巻、第六章は「恵み」である。内容は、復活。であるから永遠かどうかは別にして、人間の復活を書く。名著だ。

 祖父ネットは、77歳にして、またここに戻った。この復活は、永遠より、はるかにリアリティー、がある。当初、バルトを私は明治学院高校生の時、読んだ。別に教科書ではなかった。まさに全く歯が立たなかったので、一生付き合った。本、となった。かなりの線引きがある。いよいよ、またここに至った。が、ともかく難解で。一生付き合っただけに、最近やっと面白い、というところまできた。

 実は、復活はあまりにリアリティーが高く、信じがたい概念。永遠概念は逆で、この方が一般的で、なんとなく考えやすいのは、日常性につながる願望であるからだと、思う。

 ともあれ長い旅である。当然であるが。まだまだ至らない。絵画もこれに似ている。なかなか、至らないのは当然であるという、具体性が絵画であると、思う。

 少し、バルトの一部を書いてみよう。上巻378ページから。

 われわれは神の不可視的な御心において鍵がまわされ、扉が開かれ、入口を越えて中に入る歩みがなされる時、認識の永遠の瞬間に対するもっとも強力な指示として、「堕落があふれ出たところには、恵が満ち溢れた」(ローマの信徒への手紙第五章二十節)という危険な命題をあえて提出した。

 と、なるので、今日はこれまで。まさに、危険極まりない。これが、西欧キリスト教である。日本人にはなじまないのではないか。最近は、日本も危険であるが。つまり、ますます人間の本質が、露わになる、のであるか。心配する老人である私も、日本人であるが。クワバラ、クワバラ。 

 

 写真は2002年のウィーン(キリスト教ヨーロッパ中世史の本物の中心地)の実写 

 

 

Photo

遠くに見えるのは、シュテファン教会の塔、ウィーンの代表的な教会。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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