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2018.10.18

永遠の生命と人格と個性

 

 キリスト教の論理(神学)などを、読んでいると。

 結局のところ、個性が無視されていることがわかる。個性とは、まさに自分であるが。神学者のやらんとすることは、結局個性を超えたところにある、人間性の普遍としてのキリスト教なのである。

 神を信じる場合に神学が問題とするのは、普遍であり、個性であらんとする人文主義、と激突する。神学は教会を構成し、キリスト教界を作らんとした歴史に過ぎない。国家であれ、個人であれ、それを十把一絡げにし、一つのものにまとめあげようとするように、見える。ジッパヒトカラゲ(じゅっぱ、でなくジッパ、というらしい)、という考えを広辞苑で引くと。どれもこれもあまり価値のないものとして、多数をひとまとめに扱うこと、また、何もかも一緒くたにして扱うこと。と、でる。

 神学は、人間をこのように扱っているのではないか、と思える時がある。しかし、近代社会は、その十把一絡げを脱して、なんとか個性を主張し始める。それが、いつも、ヨーロッパではキリスト教という壁にぶつかり、後退しては、批判され。政治的には押し返されて、教会という普遍のローラーに、押しつぶされる歴史だった。

 バルトなどを読んでいても、彼がいくらヒトラーのナチス思想に反抗した、と言っても。彼が、牧師ないし神学者として、スイスの思想を牽引したとしても。また、ブルンナーと対立しまた、そのブルンナーのもつ個性を押しつぶさんとして、自分の神学を構成する。で、ブルンナーはどちらかというと、個性的で、あまり普遍的ではない、のではないかと感じることがある。彼は、優しいところがあって、個性的である。

 絵を描く私は、個性を尊ぶからキリスト教徒でありながら、絵を描くためにこの普遍と、戦い詰であった。その中で、老人になって今更ながら、永遠問題に首を突っ込んでみると、恐ろしいことに十把一絡げの永遠の道に引き込まれるばかりである。死という普遍は、個性である生を圧迫してくる。

 死には個性がある、と言えるのだろうか。死は個性を許すだろうか(死に方の様ではない)。永遠の生命には、個性があるのであるか。など、絵描きの癖として、くどい質問をバルト神学にしたくなる。

 この問題には、神学者は辟易している。人文主義は、人間主義あるいは極端に無神論などと呼ばれるが、その人間主義がオーストリアのクリムトである。あのエロチシズムは、中世カトリックの中心地、ウィーンの個性を主張する手段だったのではないか。政治はもちろん個性を圧迫する。もちろんキリスト教も圧迫する。人間は死の前に弱いから、個性であるよりも永遠の命を与えられるなら、魂になって皆と一緒に、天国で生きたいなどと思うのであろう。天国で個性は生かされるのであるか。

 

 などと考えていると、個性を尊ぶ人文主義は基督教の敵であることがわかる。その人文主義のいたるところが唯物主義である。個人を唯物論で語ると、わかりやすい。因子は、個性に違いない。同じ因子は、生物界には存在しない。それは、生物が雌雄の結合物だからである。その結合こそ複雑な個性であって、その貴重さ重さは計り知れない。もし、この結合を個性として尊ばないというのなら、この世は闇に過ぎない。

 

 何にせよ。個性とは、個別因子の全存在なのであって、その代替えの効かない人間存在こそ、個性であり価値なのである。つまり、人格であるが、その人格を十把一絡げにする現代弁証法神学は、やはり過去のものになったというべきであろう。で、無教会であるが、神は、個性たる私の味方である、という聖書の聖言こそ、信ずるにたる私たちの、存在の真実を表すのではないか。神は、私たちを個性として尊重する、最大の絶対者、なのではないか。

 その個性を持って、では永遠の生命はいかなる形をとるのであるか。考えがつかず、今日はこれまで。 

 

 

 

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スイス旅行の祖父ネット。ただし、すでに20年弱の時間が経過している。次の写真もその時の実写です。

 

 

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