« 永遠の生命をあくまでも書く(2) | トップページ | 永遠の生命をあくまでも書く(3) »

2018.10.02

父杉山広吉の生涯を書く

 

 (キリスト教永遠の生命から転用し、杉山広吉カテゴリーで同じ文書を掲載しています。)

 先日、西郷隆盛を書いたとき、

 祖父のことを書いた。祖父は彰義隊の人で、と祖母(父の母)が言っていたと書いた。

 明治学院中学生の私は、なんとなく嘘っぽく感じた、とも書いた。NHKの前回は彰義隊である。寛永寺に隠棲する慶喜は、「あのとき」京阪を去らず、フランスから最新の武器を提供されれば、戦は、勝つに決まっていたが、それはできなかった。そうなれが向こうには(薩摩)には、イギリスがつき。今風に言えば、ヨーロッパの宗教改革以来の戦乱の歴史を、再現することになる。とは、慶喜は言わなかった。が、それが想像できる実態である。この時点で、アメリカはいったん手を引く。アメリカとは、ヨーロッパの政治から武力で独立を勝ち取った国である。

 内乱ともなれば、焦土と化したくさんの日本人が死んでのち、フランスかイギリスの領地になるということは、目に見えた話である。徳川幕府には、長年にわたり入っていたキリシタンの精緻なヨーロッパ情報は、幕末には、相当深く集積していたのである。その記録を毎日のように読んで、実態を知った将軍慶喜は、国家を預かるものとして、それだけは「できなかった」と告白する。将軍職は断ると、何度も言っているのに、彼はその役目を負わされる。

 だから、将軍職に着いたとき、彼は日夜蓄積された「徳川記録」を真剣に読んだ。

 彰義隊の、またその後の北方の戦いは、いわば意地でしかないとしても、あっぱれというべきであろう。五稜郭の函館から密航した新島襄は帰国して同志社を創り、会津で戦った明治学院の二代総理井深梶之助や、安中の破れ藩士の息子内村鑑三も、皆クリスチャンになった。勝海舟の縁辺もそれが、多い。

 皆、世界を見つめていたのである。

 彰義隊の末裔の我が祖父は、明治4年10月26日生まれだから彰義隊の隊士ではない。多分、彰義隊で戦った人の遺児であろう。それを黒鍬組(幕府の影の、戦闘用土木職人集団)の左官業の杉山半次郎が養子にし、嫁(我が祖母)をもらい、我が父が明治41年に生まれたのであろう。全て、戦争で伝統話はぶち壊れてしまったが、推定はつく。

 千代田区には、面白い話が詰まっているのは、当然である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

|

« 永遠の生命をあくまでも書く(2) | トップページ | 永遠の生命をあくまでも書く(3) »