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2018.11.25

永遠の生命と三島由紀夫とクローニン

 

 表題の意識は、唐突のように見えて、

 もちろん関連がある。

 ということを、知る人はここの読者(祖父ネット)であれば、多少は知るにしても。難し過ぎるであろう。クローニンというイギリス人(スコットランド)の「天国の鍵」という小説を読みながら、三島由紀夫に至った祖父ネットの、日本人ぶりはなかなか理解されないであろう。

 クローニンの小説の中にある、多国籍の言語、人種はカトリック僧侶信仰社会の精華、であって。三島由紀夫という作家の日本の小説では得ることのできないものである。日本の精神の成果は、ビーカーの中の純粋水、のように透明で理解しやすい、感覚の高さが特徴である。まして、三島という作家が、私などよりもたかが14年しか、歳上のものでない、などとはおもわず生きてきて。社会的に成功した大作家ぐらいにしか、若い時には考えられない自分史の中で。は、三島の精神は、しかしなんとなく理解できるのも、年が近いからではなく、終戦の時の日本人の精神の、全般の本質を、あらわにしたからだと、最近わかることなのである。

 映画「憂国」は観た。密かに映画館に行き、何か怖いものを見るように、観た、のであるが。印象として残ったものは、三島の隆々たる肉体の印象と性的行為とのエロティシズムで、あるが。その意味は、理解できなかった。のは、私が、すでにかなりのプロテスタントクリスチャンとして、なんともまっすぐな道を歩んでいたからであろう。

 この東西に、わたる精神の彷徨は、なかなか簡単でないのは、言うまでもない。

 今のように、東西が融合している時代は、一体どの辺りまでが西洋で、どこが自分の基盤の東洋であるか、などは、すでにナンセンスなのであろう。朝になって、まさに冬の本格化した朝であるが、どことなくその人間時間にも、身辺の服装や、暖房機などの設営や、顔の洗い方まで変化してくると。どうも冬というものがもたらす、人間の対応生活力も、やはり変化せざるを得ないということで、読書にも画業にもその影響が現れるのは、やむをない。

 で、三島への探求は、これぐらいにしないと。

 三島という日本史の代表的現代人が、まとめて表現した日本人の。伝統文化や、伝統思想の深さへの、探求が始まってしまい、底知れない日本精神の世界が、西洋のキリスト教の、行き止まりの永遠の生命の論理的展開が、時間的に不可能になりかねない。ダンテの神曲のように、高い山に登りながら、地獄をさまようニッサンゴーン氏の罪を、今更ながら再確認するのは、キリスト教の特徴であろうにしても。何か、神の審判でことを決着しなければ、ならない社会的犯罪は、あまりにも一般的なキリスト教のいう、人間罪の深さを罰することしか、できないのではないか、と思うところであって(架空の懲罰としての地獄論)。三島的、日本精神では、とても世界の人間罪の状況には、応じ切ることはできない個人主義であって、と内村鑑三などもそういうに違いない。

 のは、明治維新以来の、日本人の人間罪の原点の問題であると、思うのである。

 で、クローニンが、第3部で書くところの「成功しない助任司祭」、AN  UNSUCCESSFUL CURATE という箇所の、中から。書くと。128ページ「これから自分が入って行こうとするのは、聖人の社会ではなく、時には涙もおさえきれないほどの憐れみを起こさせる、『罪びとの社会』(カッコは祖父ネット)なのである。』と続いていく。のである。

 これが、西洋キリスト教思想の普遍を表現し、三島のどもりの僧の金閣寺放火事件の一般性としての人間論としての性や人生の扱い方とは、かなりの相違がある、とここでは結論し。

 私の、祖父ネット書きは、三島という大切な日本人を離れ、クローニンや永遠の生命や、ダンテの神曲に戻って行きたいの、のである。

 が、日本人である以上、どうなることやら。わからない冬の朝と、なった。

 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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