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2018.11.28

永遠の生命と小説「夜明け前」は、語り出す

 

 なんども、その小説の同じ出だし部を読み、さらに飛ばして後半部も読むと(岩波文庫版第1部、上、全4冊)。

 不思議な気持ちになる。これを、英語で、読む。と、思うと気になる部分が、幾つも出てくる。昔の幾重にも続く、木曽路の深い山のようにますます、奥深くなる暗い山奥。まだ、英語版が手に入ったわけではない。が、読めると、思っただけで、嬉しい。が、藤村がこの複雑な問題を、どう処理したか。

 

 例えば、404ページあたり。終日静坐、とあって。

 仙台公が京都の方面から、下って来た通行の場合がそれだ。あの時の仙台の同勢(祖父ネット注、一団のこと)は、、、と続いていく。中津川泊まりで、中通しの人足二百八十人、馬百八十疋(ひき)という触れ込みだった。継立ての、混雑、請負のものの心配なぞは、言葉にも尽くせなかった。

 を、英訳すると、いかにも機械的になるのではないか、と予想している。英語の表現に従えば、この場面は、単に荷物を運ぶ情景に過ぎない表現に、なるはずだ。これを、藤村が書いた、幕末の馬篭の情景に見せるには、どうすれば良い英語になるのか、と思って見ても。英語で、表現できるものではないの、ではないか。と、予想している。

 英語圏の景色と、日本の景色は全く違うはずである。日本の、箱庭的風。それが、日本の近代小説として結晶し始める頃、の藤村の文章である。維新前に来日し、藤村を学生として迎えた宣教医師ヘボンは、その秀才を持って日本語辞書を作り、それで日本語聖書を翻訳する。現代日本語聖書の初めである。

  こういった、言語のやりとりに、果たして。正確な宗教の情景が、正しく反映できるのか。私は、ヘボンの創業した明治学院で、10年間聖書に接し。この歳になって、つくずく複雑な気持ちになる。これはかなり難しい問題を、多く含んでいると思う。日本の精神の仕切りは、あの時期から本格的に西洋の仕切りと激突。呻吟しつつ、現代的なものとなったのであろう。

 小説の中で、藤村が目ざとく説明した本居宣長が。せっかく漢意(漢式を排除して、日本精神を抽出したと言われる)を整理したのに、今度は西洋式なのか、の嘆きも十分に込められた小説である。

 要するに、日本の精神の西洋化について、散々苦労せざるを得ないその後の日本人の原点を、書いたのだ。それは、今の日本人に深く入り込んだ、日本的でない漢語感情(漢意)や、横文字感情が、我々の心性の根っこのところとどう関わるのであるか、と言う教養の問題である。で、現代社会のネット化は、さらに。世界的規模で、またぶっ壊すから。今も、価値観の様々な社会現象(大量家族殺人事件など)まで引き起こしている、のではないか。この問題は、難しすぎる。心理学的に、学的高さで普遍化するしか、ないのであるか、もしれないが。我が及ぶところではない。

 と、テレビの事件ニュースを見ながら、古き日本人としてこれを書いている。これでも、少しはまだ役に立ちたいが。キリストのイエスの救いをそのままに、キリストを非日本化せずに日本をキリスト教化する、ないし。ローマ化した歴史的キリスト的救済論を非政治化し、日本のキリスト教的イエス教(内村鑑三が目指したもの、無教会的な)とすることができないか、と言う遠大な計画である。ただ、これは個人化という難題を解決しなければ、ならない。

 要は、神の子キリストの、普遍の真理を手中に収めながら、人間生命永遠論に至りたい、などと。無謀で無茶な、日本型キリスト論的永遠の生命論を、日本に存在させることはできないか。と、考えているのである。

 少し血圧が高くなり、弱い降圧系の薬を飲むことになったのも、こんな面倒なことを真面目に考えているからであろう。と、諦めて、老人の虚しい探訪の旅は、続くの、であるか。

 

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