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2018.11.07

永遠の生命と地獄論の発見

 

 なんでも新発見には、驚きがつきまとう。

 が、こういう発見をした日は、その日自体が異常な日となる。なった。

 平常から滑落した自分は、混乱したが、その医学的原因の発見も、考えてみればおかしなものである。偶然が偶然を呼んで、健康診断を待っていた時、飲んでいたコーヒーショップアンデンドウで、表題の件を発見した。書いた人は言うまでもなくブルンナーである。読んでいた本は「我らの信仰」(著者が書いたのは、1935年、昭和10年、私の持っている本は昭和33年、1958年)で、ぴったり高校二年生、の頃出版され。明治学院の教科書として、私が読んだもの。である。

 で、ブルンナーは地獄論を次のように言う。

 「第20章・信仰と絶望しないこと」から。私たちがこの一番恐ろしいものに、「地獄」と言う名前を与えるか与えないかは少しも重要なことではありません。その名前は問題ではありません。要は、その思想がどんな場合にも一番「絶望的」であることであります。そうして、たれか(だ、でなく、た、となっている)この思想にかつて思い至らないものがありましょう(このはてなマークは、赤しかこのワープロでは、でない。)

 と、なって発見された。

 私がこのプロテスタント的地獄論を発見できなかったのは、キリスト教のプロテスタント界では、極度の絶望を地獄と呼ばなかったからであろう。しかし、ここで、ブルンナーが言うことは、正しくない。このカトリック的印象の深い言葉を、あえて使わないのは卑怯というべきである。

 いくら使わなくとも、この人間自体を表象するものは、キリスト教の真髄であり。この絶望的「地獄」から人を救うのがキリスト教である、というべきではないか。この地獄論こそ、明確で絶望的で、徹底的で、完全であり。かつ現実的な思想、など他にあるのだろうか。要は徹底した人間現実論であると、思う。

 このおそるべき現実論を逃れるために、ニーチェは、無神論を人々のために構築したヒューマニストではなかったのか、とも思える。と、思ったのほどである。この現実的な論理は、同時にいたって単純である。単純である以上、明確である。それは、人間は皆。死ぬ、というところから論理は出発する。要は、絶望論である。

 これなくして、キリスト教も仏教も神道も含め、様々な宗教など、存在するわけもないのである。この説明に使用されたものが、果たして「人間は死ねるのであるか」。で。あるが、死を考え、そこに救いを求める人(自殺)は、いうまでもなく多い。が、しかし、その死は、本当の死であるのか、自殺して本当に死ねるのであるか、という設問に、変化していく。

 この恐ろしさが、地獄論である。

 検診を受けた結果、血圧が高かったのであるが。それは、コーヒーショップアンデンドウで、検診前に食べたたった一個の塩クロワッサンが、災いしたとわかったのは、夜寝る直前のことである。が、この地獄論こそ、血圧上昇の原因である。と、思える。自殺しても、人は、本当の死に至らないとすれば、人間は本当の絶望に至らざるを。得ない。

 本当の絶望は、地獄論であったとは、今まで知らなかった。上野、西洋美術館にある、ロダンの地獄門、の西洋的深さ(ロダン的深さ)とは、まさにここに、あったのである。

 考えれば、解決するのだろうか。ロダンは、考えたのであろう。

 筒井友美個展 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 下の地獄門(ロダン作)は実写。かなり前であるが、今も変わらないであろう。西洋美術館の目玉作品である。絶望の地獄門、とでもいうべきであろう。その意味は、すでに書いた。が、わかってから観ると、そら恐ろしい。逆転の発想は、あるのであるか。

 

 

 

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 これはネットから転写。

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