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2018.11.24

永遠の生命と「金閣寺」

 

 とは、えらいことになった。

 えらい、とは大変である、という意味である。

 なぜ大変かといえば、三島の文体につい引き込まれて、それを英文で読もうとして、英訳を読むと。なんと、これが、不思議なことにスラスラと、行くから恐ろしい。もちろん、単語に不明なものが多々あるが、それはあまり気にならない。三島の文章を先に読んで、英語を読んでいると、あらかた頭に入っている三島文学の内容が、英文で書かれていることに違和感を、感じない、から不思議である。

 三島が金閣寺を書いたときは31歳。で、私の結婚年齢と同じである。

 私という31歳と、三島のそれとを比較する訳ではない。が、気になることが、若干ある。ここで恥を忍んで書くと。私の新婚旅行は出雲大社、である。それも、神道での結婚式で、これは新婦の要望である。自分は、ただ一つ、日曜日に教会に通わせてくれないか、と条件をつけた。のだ。

 新婦は、この意味など知らないから。と言っても、意地悪で言った訳ではない。私の習慣として定着していたもので、自分で深い意味を言った訳ではない。が、今思うと、それがその後、彼女の大負担になるとは、言い出した私も言われた妻も、思っていない。

 で、出雲に行く前に京都にもより三千院に、行った。そこで、事件が起こる。

 私が、その三千院の佇まいに、難癖をつけて、彼女が泣き出したのである。私にしてみれば、大したことではないが、その三千院は、彼女がぜひみてみたい場所だったのだ。それに難癖をつけた訳だから、彼女も悲しかったであろう。二人で、近くにある小さな小川の脇に腰掛けて、私が慰めたのであるが。彼女は、なかなか泣き止まなかった。

 つまるところ、今からこの歳で考えると。

 日本型の情動と、西洋の情動の圧倒的な相違があるなどとは、当時予想もしなかったのである。まさに、嫌な思い出であるが。これが、三島由紀夫の小説にある、圧倒的な日本型情動が、新妻の中に存在し。それを現在英語で読む、老人の私の、なんともいえない。文化論なのである。

 まさか、こんなにも、同じ情景が訳されながら、ここまで両者の「情動」は、似ている文面と自体との差を、どう埋めるのか、戸惑うのである。文化とは、一体何か。キリスト教は、神学で永遠の生命を構築する。が、日本では、情動で全てが処理をされる。まさに、この違いたるや、天と地ほどの違いなのではないか。

 で、三島氏は永遠の生命に入ったのであるか。これこそ、西洋のキリスト教の、神学なのであるが、今の所わかるわけも、ない。

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