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2018.12.01

永遠の生命と小説「夜明け前」の封建制とキリスト教

 

 小説夜明け前に出てくる、封建制記述の明治文学の、成果としての封建制の記述は、何を物語るのであろう。

 人間差別論とその実態のようなものが、実態として本質的に存在し。その差別的封建制の中にある、人間差をさらなる差別的言動として本質的に表現した、ドキュメント「夜明け前」は。藤村があの時、当時の現実の、夜明け前の封建的差別の実態に、深くメスを入れた時にこそ。封建制という堅固な肉体から、どっと真っ赤な液が流れ出た。のである。

 それは、時を越えて今の、非封建制の読者を、その封建制なるものに誘うのであるが、誘われてみるとその恐ろしさは、いうに言葉がない。16代にわたる藤村らの三浦半島から流れる出る武士の血は、結局農民としてそこに、長く、その地方の責任を負う家族となって、二家が結びついていく物語なのである。藤村の父母は、そういった地方有力者の中にある、長い血の深い暗い人間性として表現されていく。

 それが、結局小説家藤村の、姪駒子との肉体関係という、現実の深い罪悪の結果になって。それが、藤村の日本の近代小説家としての出発点に、初めからある本質部分で。信州小諸付近で、隔絶した人間差別の実態として書かれ始めた、藤村の差別私小説の。それを知ることは結局、長い恐ろしい日本の近代悲劇の始まりとして、総価値としての絶対化した個人(世界性を持った) 、と激突する瞬間なのであろう。と、考えると、キリスト教の人間無差別主義がもたらした、要するに創造者たるキリスト教の神の愛が、エゴイズムとしての人間愛と激突する瞬間、なのではないか。

 つまり、人間愛たるエロスと、神の愛たるアガペーの激突なので、はないか。と、考え始めた朝であった。

 つまり、藤村の封建記述は、あまりにも素晴らしくほとんど隙間なく、封建社会のリアリティが表現されている。表現された封建主義は、果たして今にも通じる、小説の過去ばかりとは、言えない。ことが。現代人間社会の、人間本質のエロスの現実であり。神のアガペーとの、差異による人間救済の宗教としてのキリスト教の、世界史的精華との差異として。それが存在するのは、一体どのような理由によるものなのであろう。

 などと、考えながら。島崎藤村の秀逸な封建表現を、さらに読み続けたい。が、一体二千年前の、イエスの言動(アガペーとしての愛)が、果たしてこの凝り固まったアジアの封建制を打ち砕いていく力量、であったのかどうか。

 という疑問に、答えることは、実際容易なことではないと、思うのである。 

 

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