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2018.12.07

「永遠の生命」と聖書と自然主義文学

 

 という、ややこしい話に、ことは、進んだ。

 のは、あきれたものである。

 明治学院の高校の頃、国語の時間に習った日本文学が、蘇った訳である。国木田独歩、田山花袋、島崎藤村。といった自然主義文学が、藤村の「夜明け前」とともに、どっと侵入してきた、が。

 77歳にもなって、自然主義文学とは、何とも奇妙であるが。私の自然主義文学の本当のターゲットは、国木田独歩だったとは、気がつかなかった。肉体派の田山花袋も読んだが、「蒲団」という性的な匂いのする小説は、読んだことは読んでいたが、どうしても馴染めなかった。のは、やはりキリスト教のせいであろう。

 一方で、聖書を勉強し、一方で日本の自然主義文学の高みを歩くなどとは、とてもできるものではない。まさに、矛盾した状況を、高校の授業で経験したのである。ここまで、不自然であると、この関係は。恐ろしいもので、キリスト教的規制概念が、強く影響すると同時に、高校時代の性への興味とが輻輳して、まさに地獄である。

 しかしこれが、人間精神にとって必要であったことも、今ならわかることである。

 キリスト教に関係のない、一般校であれば、先生はそのあたりをさっさと、切り上げて。そこをパスして、ホッとして国語授業を進行させるのであろう。だが、明治学院では、そうはいかない。いや、いかなかったのではないか。何しろ、島崎藤村であるから、自然と自然主義文学に至ると同時に。一方でキリスト教的倫理にも、至る、という宿命である。

 と、今頃わかるのは、秀才ではないからである。

 その私が、いま藤村の、夜明け前が妙に面白い。国木田独歩に、性があるかないかわからないが、大自然が好きな私は、独歩と藤村や花袋が、同じ自然主義文学次元で語られることは、到底理解できない。が、ともかく。文学史上は、そうであるらしいので。仕方がない。ともあれ、田山花袋の「蒲団」のエロチシズムを青ぞあら文庫で、少し読んでみて。これは、よく書いたものであると、思ったのである。

 青空文庫のパソコンで見るより、実際の本で見るべきものだと、思う。何とか、文庫を買って読んでみるつもりだが。高校時代以来、読んだことはない。本当のエロチシズムを知る今だからこそ、藤村の男としての悩みや苦しみも、わかる、から。夜明け前が、当時の明治学院の宗教教育と、藤村の英語好きと、聖書読みとが、輻輳するくどい話は。まだ自然主義文学が生まれる前の話で、それを生み出す人の苦労は、並大抵ではないのであろう。

 私たちの時代にもあった苦労とはいえ。ともかく、今やっと整理できたことは、慶賀と言うべき。人間もここまで古くなると、少しは解脱できるもので、あるな。と、楽しくエロを楽しんで、いる。

 

 

 

 

 

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