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2018.12.02

永遠の生命と小説「夜明け前」の激突

  

 永遠の生命論は、キリスト教の精華中の精華であると思う。

 封建制の日本の中に生き継がれた人間生命の、いい意味の人間刹那主義も、人間性の精華である。刹那主義といったのは、永遠の生命という、思想ないし観念に対して言ったことで。あるが、この世のこととあの世のこと、と言えばわかりやすいかもしれない。先に発祥した永遠の生命の西洋には、対抗する優れた唯物論が生まれ、科学が発達したが。刹那主義の日本に、科学が理解されるようになるには、少し遅れることになった。

 もちろん言うまでもないが、科学は圧倒的な先行性を西洋に与えわけではないが。我々よりもより早く勃興し、それを我々のアジアに教えてくれた。西洋の永遠の生命には、対抗的にこの世の現世主義(唯物論)が対立し。それが、生まれたものであるが。その中で、今度は永遠の命論が、徐々に時代から後退したのであろう。

 しかし、今やそれが出揃ったのであるから、その激突について考える時代に入った、と言えるだろうと思う。

 などと、書かざるを得ないことになった。老人の、頭の中は厳しい思想の嵐に見舞われ。老人が、かようなことを書く機会が、ブログという現代的手法で、できるという、悲劇を呼び。と、言えるだろう。

 それこそ、昔なら、老人がこのようなことを、考える、とは考えられないことである。これも科学的精華、なのであろう。昨日はNHKが、4kとか8kとかの宣伝を始めた。外界を精緻に一段と、見ることのできるものであるようであるが。それは、ドットの三次元的精華といったら良いであろう。が、具象絵画で、とっくに実現していることである。どれほど、美しく見えても、それには対象があって、その対象の美から卒業しているわけではない。ドットの精美なのであって、微細という科学の成果に過ぎない。

 人間の生命は永遠であるか、それとも有限であるか、という問いであるが。

 いよいよ、ここに達したとは言え、昔からあることなのである。永遠の生命を再び、取り戻せるかの勝負であるが、これは古典という、人間の誠実な営為を訪ねる旅、でおこなう方法しかないのではないか。それが、島崎藤村によって記録された、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤思想の中に見ることができるものなのであろう。日本的精緻であるが、果たして永遠の生命は、そこにあるのであるか。藤村は、答えないであろう。日本思想の現世の精緻はあるが、永遠の生命の、記述には、程遠いのではないか。

 かようなこと(問題)に手を出すから、老人の頭の中がごちゃこちゃになるのである。

 整理して言えば、キリスト教の永遠は、普遍人間主義であり。そこに、人間差別は本質的に存在できない。その実際的実験的社会である西欧に、差別がないというのではない。無差別とは、キリスト教のイデオロギーの中にあるもので、社会の中にあるものではない。神の前に、皆平等であるというイデオロギーである。それを、信仰といっても良いが、大変優れた統一主義である。ことは、西洋社会の呻吟を見れば、現在でも明らかであろう。

 この人間普遍という、絶対的な考えが世界を変え、たのであり。島崎藤村は初めの小説で、まさにそれに、触れたのである。それが「破戒」と命名された小説で。さらに「家」に、書かれることになった。その時、藤村は明治学院でたっぷりと、キリスト教に触れて洗礼まで受ける、のである。が。これが、彼の最大の書くエネルギーであり、原点であると言って良いであろう。明治学院とキリスト教は、不即不離である。ことから、生じたことである。

 そこに書かれていたことは、日本の現世の差別主義なのであり。明治政府は、この差別の日本的実態(封建主義)と、西欧社会から輸入された絶対無差別主義、とに大いに悩んだのはいうまでもない。島崎藤村という血は、もともと差別的封建の血であり、その高度な人間的能力は、閉鎖地域社会にあって村の支配、という封建道徳に支配されていたのである。

 これが、日本の伝統社会に長く引き継がれた、人間現世の刹那的伝統であって。それを支えたのが神道、であることは言を待たない。そこに、漢の心が入り、一層精緻化したのであるが。それが、夜明け前の主人公の父、である主人公の、立場なのである。賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤によって、やっと漢心(漢字に表現された)に制限が加わって、大和心のひらがな人間主義に、一層の日本的神髄が精華されると。考えた藤村の父主人公は、狂喜して村社会の業務に邁進する。が、しかし。日本列島が、東西に激しく揺れ動く幕末日本の社会に、神道の精華は純粋には生き残れなかった、という狂気と悲劇の物語なのである。

 日本は、未だキリスト教国ではなく、堅固な神道封建国家の残滓に生きていて。神道の国として存在している、とキリスト教徒の私などは考えている。なんやかや、といっても、天皇家は健在で、その家は、結局神道の主家なのである。明治維新の時、侵すべからざるものとして設定された天皇家は、激しく動揺してやまない日本の近代史を経て。今でも、日本国民の象徴なのである。それを、日本人として、おろそかにはできないのはいうまでもない。ただ単に、日本人だから、というのとは趣を異にしている、思想伝統の重みなのである。

 島崎藤村は、結局それを、書き残した文学者である。

 ただし、これは、世界の人間の普遍の生としての、人間平等論(キリスト論的)といささか齟齬をきたす。ことも、いうまでもない。が、民主憲法のもとで、それのみで正しく作用するとは、とても思えない。この、悲しい面倒な問題は、世界の民族主義と同じ次元の。アジアの先進大国日本の歴史が、島崎藤村の中に書かれた人間封建主義の、長い歴史によく表現されている、日本の美なのであろう。と、現代老人クリスチャンとしては思うのでる。

 だから、三島由紀夫の「金閣寺」も、読みたくなるのが人情というものであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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