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2018.12.16

永遠の生命と東京裁判と画家甲斐仁代を、書いていると。

 

 今朝の毎日新聞朝刊に、

 

 中国のキリスト教のややこしい話が、二面にでた。

 せっかく絵画の話題から、東京裁判書きも単純化できたのであるが、現代中国のキリスト教のややこしい話で、一瞬頓挫した。のは、祖父ネットらしいことである。要するに、気になる、のである。一神教であるキリスト教は、実に様々な様相を見せるが、「中国、地下教会を吸収、競合区(祖父ネット注、宣教のための)、バチカン譲歩」などと出ると注目してしまう。

 要するに複雑であるが、こう言った話も結構詳しい。が、一枚の絵画購入は、そんな現代的な問題の、まるで中世的な匂いまでするくだらないキリスト教の問題を、無視して。自分は、信仰的には無教会主義なのであるから、気にしないことに決めた。

 とまで、書かないと前に進めないのは、まことに因果というべきであろう。

 で、複雑など振り切って、画家甲斐仁代の画歴を書くことにした。

 ●明治35年1902年   0歳  11月2日、佐賀県に生まれる。

 

 ●大正05年1916年  14歳  青島に移住、青島女学校に転校。(祖父ネット注、青島に代表される遼東半島史は複雑である。日清戦争後、講和条約の中で日本は、清国に李氏朝鮮に対する宗主権の放棄とその独立を承認させた他、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲され、また巨額の賠償金も獲得した。しかし、講和直後の三国干渉により遼東半島は手放すこととなった。この三国干渉が、日本の大きな問題となる。甲斐が移住した頃の青島には、当時一体どのような歴史があるのであろう)

 ●大正08年1919年  17歳  同校卒業、女子美術学校洋画科高等科(現在の女子美術大学で、当時男子校で女性の入学を認めていなかった東京美術学校(通称美校)・現在の芸大に対峙して創設された学校)入学。岡田三郎助に師事。(岡田 三郎助 1869年、明治2  1939年、昭和14年、佐賀県出身、洋画家。女性像を得意とした、東京美術学校(現・東京藝術大学)教授。第1回文化勲章受章を受賞した 

 ●大正11年1922年  20歳  同校卒業。卒業制作の自画像(美校、現芸大もこれを描くことを伝統とした)を描くが、すでに個性の顕著な作品である。他に「眼帯をした人」なども描き、青島に帰郷。名作と言われる「ロシア 婦人の像」を描く。

 ●大正12年1923年  21歳  二科会に出品、初入選を果たす。作品は前年に描いた「ロシア夫人の像」で、二科会では女流画家の入選は初めてだった。それが引き金になったのか、驚天動地関東大震災となり、二科会は開催されずに終わった。ここから、女流画家甲斐の厳しい画道が、予告されたようであったという。

 ●大正13年1924年  22歳  実業の日本社、婦人洋画展で金賞。青島で個展。以後二科で活躍。

 ●昭和12年1937年  35歳  一水会出品。以後昭和37年まで同展に出品。(注、1941年昭和16年太平洋戦争勃発)

 ●昭和22年1947年  45歳  一水会会員。(注、1945年昭和20年太平洋戦争終結)

 ●昭和30年1955年  53歳  一水会金賞受賞。

 ●昭和32年1957年  55歳  日展出品。以後昭和37年まで出品。女流画家協会会員。

 ●昭和38年1963年  61歳  7月29日永眠

 特に画集もないのであるが、今も残る作品は千点に及ぶとされる。ただし、その下地はキャンバスではなく、いわばダンボール。それも概ね牛乳パックの長手の大きさのも、である。もって瞑すべし。 

 

 なぜ甲斐は青島(島の名前ではない)に、移住したのであるか。帰国はいつかなど、不明な点が多い。のが、甲斐の魅力であるが、今後じっくりと調べてみたい。ひょっとすると、東京裁判とも関係するかもしれない。

 以上

 

 

 

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