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2019.01.10

永遠の生命に戻りたい、のであるが。

 

 日本的な心性を追求することになると、

 西洋的心性を見失うことになり、その逆を探求し始めると、同様に逆が起こる。

 という、日本独特の思想の難しさは、言葉にならない。

 七十七歳になって、このことの言わば高さに、悩んでいるが。若い時は思想のありようが、偶然を含めて、まだまだ浅く、勉強中であるから始末はかえってその方が、良いのである。人生も深くなると、深くなればなるほど、西洋のありようも複雑を極めると知る。から、その複雑の中から、単純を探すのであるが。これは、かなり勉強しなければ、達することはできない。単に、信仰のみ、なのであるが、サンマの頭も信心まで、では。芸がなさすぎる。

 このさんまフレーズは見事なもので、信仰問題の最終を見事に表してはいるが、それで、良いわけではない。

 で、新年早々様々な思いがあって。

 様々な思いが生み出されるにしても、そこには一定の文化的高さが自然と抽出される。のは、タネから油が絞り出される如くである。そういった高い、文化的表象はいうにいとまが、ない。その中から、テキスト(文章)として表出するものが、文学や学術論文なのであろう。聖書は、西洋を代表し、日本はでは、何を持ってその文章の代表とするのであるか、と言われると。

 なかなか、あるものではない。中国は論語、西洋は聖書、日本はといえば、はたと困るのが実態であろう。言わば、混合文化こそ、日本の精華なのではないか。いうまでもないが、イスラムはコーランなのであろう。

 世界は、今、中国とアメリカという大国の経済的覇権争いだという。その深い根にある、思想の対立は、資本主義的唯心的自由経済と、共産主義的無神論的文人統制経済の、対立なのであろう。その大根にあるのが、論語と聖書とコーランであろう。と、判断している。そう思えば、私の受けた、キリスト教的な明治学院教育の中にも、きっちりと論語は入っているから、驚きである。

 これなどは、日本の文部省の、長い伝統の教育指導原理として、当時は日本の教育の中に、築かれていたのであろう。今論語が、教科書としてどのように扱われているのかは、知らないが。私は、決して嫌いない科目ではなく、どちらかというと好きな方の学科であった、というのが。老人の、若い時の思い出にある。その老人が、「夜明け前」「仙境異聞」「創世記」「生田山田両流箏唄全解」(文学博士今井道郎)などを読むのも、仕方のない必然事なのであろう。

 要するに、思うに。明治学院の教育の要諦は、結局。この西洋と東洋特に日本の混合思想の。その背景を明らかにしたいという、敗戦の混乱を受けた戦後教育の、悲願を背負っていた、のであろうと遅まきながら思うのである。その、清算を年相応に、実行しているというのが、祖父ネットなのであろう。と、思う、朝になった。

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