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2019.01.06

永遠の生命と、平田篤胤の作意

 

 結局のところ、

 創世記と仙境異聞を、比較している自分に気づくことになった。

 聖書の中の創世記は、いたって古い書物であるが、仙境異聞は1800年代(江戸期)であるから。その時間差は、2000年あたりにあるのかもしれない。ともあれ、比較することを自然としてしまうのであるが、古いからといって尊い、などといっているのではない。比較する意識というのは、その書かれた現象の不思議さにある。

 創世記も不思議物語。であり、仙境異聞に至ってはまさに、不思議そのものという物語である。アラジンの不思議なランプ、の話に近い。ツボに入って仙境に至る童子は、語る。初めは面白い、と思って読んでいたが最近白け始めた。どうも、創作くさい。平田篤胤という学問の人を信じて、その人のインタビューだから、と思って真面目に読んでいたのである。

 だが、Wikipediaなどによると、平田の原本は失われているようだ。いろいろ事情があるようであるが、それでもかなりの書籍が残っているとされる。それを読むほどの時間は、私にはすでにないが。創作意識を感じさせる事情は、そんなところにあるのではないか。で、聖書にも勿論問題がある。

 ただし、聖書は創作である、と初めからわかる。

 インタビユーではない。神にインタビューしたわけではない。この辺りは徹底していて、すべて想像の域を出ない。むしろ向こうさまから(神から)言ってくる。それでも、なぜか知らないが一生懸命書いている。この書き方は独特で、まさに傑作であろう。一種の純粋さがある。創作ではあるが、純粋である。それは透徹している、と言えるだろう。これが、歴史的世界的な書物として、今も我々に支持される所以だと思う。

 仙境異聞に、クリスチャンの私が白け始めるのも、その純粋さに疑問を抱くからである。つまり、「意図」である。

 それも思想的意図を強く感じる。その中心部は、仏教批判である。それが、中心部の構造をしっかりと支える。結局藤村の「夜明け前」も、これがテーマである。と、言わざるを得ない。ただ、藤村は明治学院で学び、キリスト教を知ったため、ことは複雑になる。

 この複雑さは、簡単には説明できない。のは、言うまでもない。近代社会は、個人主義を発見することで、社会の理解が複雑化する。その問題に苦しむ現代人が、今の人たちである。頑張ってもらいたいものだ。と、老人は、いうのみ。

 

 

 

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