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2019.04.04

杉山かつみ時事放談(2)・日本社会党を返せ

 

 僕が、いつも不愉快なのは、日本社会党があの時。

 なんだか自民党と連合を組んで、自分をそこに寄せていった、思い出である。

 僕だって、自慢できないがあの時は、民社党かの党員で。それなりに、左翼を張っていたのである。小さな会社の経営者なのに、どうしてあなたは民社党なのか、と僕を見て不思議だという人もいた、グライダ。

 

 その理由は、以前にも書いたが、教会の牧師が説教で推奨したからである。 この推薦は当時も今も間違っていたとは思わない。が、社会党がなくなってしまった今は、事態だけが複雑になって。僕は途中で、民社党を辞め、社会党に戻ろうと思って。ある支部が目についたので、訪ねてみたことがある。が、けんもほろろで、全く不愉快な思いをした。

 僕のような善良な小市民を、政党は全く問題にしないのだ。

 自民党なら、一種の町内会だから。喜んで、党費まで立て替えてくれて、どぞどうぞなどといって、その入党を腹の底では疑っているに違いない。どうせ、政党などというものは、狐とタヌキの化かし合いのようなもので、どこの馬の骨やらわからないものを、簡単には信用しなのが常道である、ということは、老人の今の僕の人生経験で、分かることだ。

 

 このように万事純情なのは、僕のキリスト教精神であるが。

 よくここまで、純粋を保持できたと、我ながら笑っている。が、ともあれ、純情は純情で、なかなか上手く生きられるもので。それが、相手に伝わった時点で、信用というものが確立し。その後。僕が、経営者として少々の悪に手を染めても、その純情イメージが、僕を支えてくれる。

 

 が、世間は、むしろそれこそ怪しい、と知っているから。腹の底からは、誰も僕を信用などしていない。のは、キリスト教がわからないからである。だから僕は、図々しくも仮面小説を書いた。つまり、僕の二面性ないし二重性は、あくまでもキリスト教信仰であり。弁証法的な神と人、という超えがたい西洋思想の。西洋人の二元的存在論の中にいる、ということを時事放談を書き始める前に、断っているのである。

 日本人は、どうみても一元論者であるが。それは、いわば神道的仏教的超越者が、どうも無限抱擁的な優しさのもとで。日本人は、思想的にはぬくぬくと島国で生きてきたから、だと解釈している。今更、ユーラシア大陸の厳しい裏切り思想の、多重界的二元思想は、わからない、に違いない。諦めながら、二元思想のもとで、時事放談をする、ということぐらいは、覚えていて読んでもらいのである。それでないと、こんな放談など全くわからないはずだ。

 

 だから、僕のこれは、僕自身が腹を切るような、ものではなく。あくまでも、第三者的な冷めた放談である、ということも知っていてもらいたい大事なことなのだ。ので、わざわざ書いた。

 で、放談であるが、この元号は僕は不愉快極まりない。

 

 ともかく、せっせと迎合する新聞や現代ジャーナリストは、僕から見ると腑抜けに過ぎない。昨日北区で、鳩を大量に毒殺したという、大東文化大学の准教授なる人をテレビで見ていると。本当に日本はどうなるのか。と、言いたくなる。これが、放言第一号であるが、ガルストの墓参りをして、美術館で倉本健夫の絵を一点だけ観て、いい気持ちになっていた僕を直撃した、誠に低脳な事件。で、僕の人生は真っ暗になった。で、今朝、放言を思いついたのである。

 

 日本人は、大丈夫であるか。

 

 もはや、ダメになった、ダメになる民族であるか、などと言いたくなったのであるが。僕はクリスチャンではあるが、日本を愛しているから、これをいっているのである。これも皆、左翼反対党の真の政治結社を、むざむざと潰した。それまで、左席ででかい顔をして生きていた先輩たちの、あのばかさかげんが、僕の本当の非難の的なのである。

 といって、これぐらいにしておこう。

 

Image

 この墓は現在も、青山霊園にあるガルストのものです。撮影は、記事に書いた日です。

 

 

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