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2019.05.09

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(2)

 

 などと書いて、古い非現実的な歴史をかくと、いけないだろうか。

 人の歴史の中で、キリスト教が果たした役割は大きいのであるが、僕は、それを。

 

 武藤冨男さんが編纂した「峠で会った人」で、見ることができる。聖書は誠に古い話に違いないが、その中にある新しい話は、依然として人の救いとは何かを表していないだろうか。武藤さんが、装丁の貧しい地味な本をキリスト新聞社から出版したのは、昭和42年で1967年。僕が二十歳代のことである。この本を古書で買って、キンコーズでしっかりと製本したのが、七十七歳の最近で。僕は、島田清次郎という忘れられた天才的小説家の今勉強中の、僕の先輩の小説家をこの歳で研究していて、今更ながら。これらの二冊の本が連動するので、えらく感心しているのである。

 

 昨日、近くの原っぱで絵も描きながら、島田清次郎の「地上」をさらに読んで、この人は本当の天才である、と思うのである。

 五月の太陽と、心地よい青葉のきらめきは僕を、遠くの時空に彷徨わせるのであるが、僕の描く草はらの新緑の草ぐさたちは、初夏の暖かい風を受け流しながら、絵を描く僕に微笑んでくるのである。草はらに、携帯用の僕の妹がイギリスから買ってきてくれた絵画用の折りたたみ椅子は、僕が今まであまり使わないで、もっぱら部屋に置いていたのは。油絵では、どうも外部の写生が大げさになって僕らの現代生活にはふさわしくないことになるからで。ルノワールを羨ましいというのではない。印象派の画家が一生懸命自然の中で買いた時代は、その制作物が、適当に売れるという経済的背景があったからにすぎない。椅子は、その時代を象徴している。

 しかし、今の社会では、そういった画家の穏やかな感性を実現する、自然の陽光を一生懸命描くには、ほとんど一生の時間帯をその描きに捧げなければ、とてもできるものではない。要するに、そういった印象派の時代は絵画では去っているのである。が、これは、工芸がますます後退し、それが機械文明に置き換わってしまった現在の状況をよく表している。

 だから一生をかけて一つの作品を作る古代社会の3000年前のツタンカーメンのような作品は、もはや絶対に人類には不可能なこととなっているのである。とは、知っているが。僕は、そこら中で愛らしく咲いたり伸びたりしている草花やくさぐさを愛するから、僕はシュミンケという最高の水彩絵の具を使って、フランス製の水彩紙の上に、実に何の苦もなくやすやすと、その美しい小さな生命を初夏の風に頬をなぜられながら、広い原っぱの木陰の下で絵を描き。また島田清次郎を読みながら、実にうまい天才的な書き方をする、僕の先輩が大正7年二十歳で書いたという小説を読んでいたのである。

 しかし久遠の陽光であるが、人の生命はいかにも儚く、とっくの昔に失われた遊郭の話であり、そこで生きる女性たちの深い会話は、いかにも人間の美しい姿なので。あり、その内面であり、状況デリ、匂いなのであり、色香、なのであり。決して、幸福な境遇を書いているのではないのである。今は、まだ小説も前半であるが、約二十人の役人が、その妓楼に押し寄せ、その色香を持って、ある汚職が行われるのであるが、それには20人もの相手をする女性はほぼ五人ほどで、そこのおかみさんが頭を痛める場面が、本当にどうなっていくのだろう、と思わせる先輩の書きぶりなのである。

 

 初夏の本当の暑苦しい季節はもはや、まじかなのであるが、僕は、そこいらで店じまいをして家に帰る支度に取り掛かった。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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