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2019.05.12

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(6)と東洋英和女学院・院長解任事件その2

で、聖書のマタイ伝第一章を掲げる。マタイ伝(マタイによる福音書)で、十八節には次のように書かれている。「イエスキリストの誕生の次第は次のようであった。」これが、キリスト教のすべてである。神学などではありえない箇所。教会でもないのである。この言葉なくして、キリスト教はない。のである。どういうことかといえば、これが「神」が人になって出現したという唯一の証である、ということである。つまり日本語でいえば「如来」の出現に過ぎない。昔、明治学院を創りあげた宣教師たち、その代表はいろいろあるにしても私にとってはヘボンという人が、和英語林集成というローマ字和英辞書を作った時に、神と訳さず如来と、訳せば済んだ話で。如来をいろいろ東洋的漢字的日本語的に考えてみれば、神とは如来、すなはち出現したき時に、思うが如く出現自由に、出現する存在は、すでに日本文化の中にもあったのである。だから、特に深くは考えず素直に「如来するもの」が神と訳されたのである。で、ヘボン以来キリスト教の神は如来と訳さず、「神」と訳されることになった。

 中国語では神は「天帝」などとも訳されるから、その訳語そのものは、大した問題ではない。問題は、その概念であって、人間にとってともあれ如来していただきたい、救世主の問題である。人間は、有史以来知恵が増し、そのような存在をいつも希求せざるを得なかった。で、如来にとどまらずイエスキリストの優れているところは、如来だろうが神だろうが、その存在が人間としてわかりやすく、目に明らかな身近な存在として、神ないし如来が出現した、というストーリーにあるのである。ここに神学などあるわけはない。もちろん、科学もない。だからニーチェの肯定も否定も無意味であると思うのが、僕の立場である。

 このイエスキリストを神学化するのも人間で、素晴らしい人智であるが。その始めが聖書のもう一人の中心人物パウロ、の考え方の中に実在したのである。どちらにしても人間は、死の淵より救われたいのは、いうまでもなく。古代人とて、それに飛びついたのであるが、それで。ただそれだけで、人間社会の代表であったローマ大帝国は、それを国教としたのである。そこから、全ての人間らしい虚偽の歴史は始まる。いわば、西洋では如来をイエスキリストとして人間化したのであり、人間化したからこそ、そこに虚偽が生じたのであるが、その虚偽の宣教者が昨日の新聞の神学大学を卒業した人の、東洋英和の院長さんであると、いうことになる人間的、ああ人間的フライイング現象なのである、と言えるだろう。僕も若い時、東洋英和の女学生と仲間だったこともあり、残念であるが。今は普通の主婦ばあーさんとして、平穏に生きているに違いないと思っているが。多分彼女も、今更ながら、神(如来)が人になった、ということを信じているかどうか、疑っている。もちろん、いうまでもなく僕は今朝も聖書のその箇所を読んで、つくづくありがたいことであると思う自分をありがたいと、と思っている。ありがたい、とは漢字で書くと「有難い」、と書くが、本来ありがたい、こと。すなはちあることが、難しいこと、奇跡、が起こったので、ありがとうございます。と、人は答えるのであると、子供の僕に教えてくれたのは、クリスチャンの母なのだ。今更ながらえらい母だと思う。

 多分フライングした東洋英和の彼は、頭脳的にのみ神(如来)を考えたのであろう、それが神学なのかもしれないが。絵描きの僕なぞは、一本の草の中にも如来(神)を見るぐらいな歳であるから、何をか言わんや、であるが、今日も晴れているので、原っぱで絵を描きにいくつもりにしている。

 痩せがえる 負けるな 一茶 ここにあり と奥信濃の俳人は詠んだと思う。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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