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2019.05.10

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(3)

キリスト教がここまで、人々の興味から遠くなったのは、最近のことであるが。どうも、日本(アジア的文化)の高さが、世界の人々を惹きつけるに及んで、ますますキリスト教は後退を続けるように思う。要するに、西高東低の時代は終わったのである。この西高東低の文化現象が終わるだろう、東洋の時代がくるといったのは内村鑑三である。彼は私が尊敬する人で、明治の日本人の代表である。と、思っている。が、その人も遠くなったというものの、果たしてそれが遠くなったのは、明治が遠くなったからか。それは違うだろう。むしろ、日本人は日本人的基本(歴史)に帰っている。

 

 人々は自分が生きるということを誰であれ、自分の目的として生きているから、自分が問題なのであって。その自分を考える時、なんであれ、自分探しの中でますます、現代的不明が出現する中で、僕は。人々が、生きることへの生きることをどうやって実現するかといった問題は、結局金の問題であるか。なにせ、金がなければますますまづい世のなかで、ATMに並びながら、一生懸命自分の残高を探るように、毎日を生きているのは、なんともいつの時代でも、変わらない人間の姿なのであろう。残高が、自分なのであり、残高がないといかにも心細いし。金がないのは、首がないのと一緒だと思うのであるが。小説家島田清次郎は、見事に。金を獲得する。それは、二十歳で世に出した自分の小説が、図らずもベストセラーになったからである。彼は、かなりの金を獲得するが、今度はその処理に困りはてる。頭のいい人であるから、少しずるがしこく立ち回れば済むことであるが、それは彼にはできない。

 当たった小説は、見事なもので、あのような描写(小説的)ができるということは、金ができても、それを維持したり、増やしたりという野心を抱けるような考え方が持てるような人ではない。もし、そういった考え方ができれば、小説はたちまち書けなくなり、もちろん売れなくなり、元の貧乏に苦しむ人になるほかはない。が、もちろんそうできない以上、そうならないのが必然である。のに、彼は、巣鴨の養護院の精神病室の一室で、なんと結核で死ぬのである。三十歳の短い命だったとされる。彼が、失敗したとすれば、金ができたために身分もわきまえず当時の、お嬢様に手を出してしまったことである。彼の小説「地上」を読んでいるが、なんとも凄まじい場面を書いている。描いている、という絵を描いているという風に表現しても、いい場面である。彼は、その場面を書きながら、「それからどういうことが起きたかはしるすに忍びない。」と書いている(104ページ・季節社・2002年)。この場面は、僕も記するに忍びないのであるから、僕も書かない。もし彼が、この場面を書いたとし、画家として描いたとしたら、とても見ることなどとてもできる場面ではないことは言うまでもない。画家としても描けるものではない。

 

 僕は広っぱの緑の初夏の風が吹く、爽やかに日に。近くの公園の広っぱで、水彩絵の具で一気に、素晴らしく生きている草ぐさを描いて、何も自分の作為を交えず、何も考えないで、今までの絵画の修養をベースに、一気に。描いてみた。小さな箱状の、水彩用のコンパクトな水入れも用意してあるから、それから世界堂で買った水彩用の筆を使って、一気に。書き上げてみた。自分の意思や判断はない。ただ自然の、風に揺れるそこらの雑草を描いて。僕は、一気に気分が良くなり。何も作為しない自分の絵が、なんでここまで美しいのか、これならネットで売れると判断した。要するに、僕なりのベストセラーなのだ。まだ売れてないが。僕は、美しい自分の絵に満足して、店じまいをし。家に帰った。島田清次郎のあの場面を、読んだのは、店じまいをして近くの椅子に腰掛けて読んだ島田清次郎の「地上」の一節で。中身は、詳しく僕も書けない。ほど、醜い(みにくい)こと、むごいことである。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

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