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2019.05.05

永遠の生命とエジプトの至宝、「ツタンカーメン」のディテールの愚

前回を引きずって、ツタンカーメンのWikipediaを読んでがっくりきた。要するに、説明ディテールのバカバカしさだ。誰それの姉妹だの、兄弟だの。病気がどうのこうの、と言った本当の考古学の学者が書いているのであろう。けれど、ツタンカーメンもあそこまで書かれると、全くの無意味である。年代の測定も精密で、それが考古学の真髄であろう、とは思うものの。素人が読むようなものではない。僕らに必要なものは、エジプトの古代ロマンである。あの広大な砂漠を支配した、大帝国(エジプト)の思想史(生きた本当の人間史)こそ、我々と直結することであるのに。三千年前の物体(ミイラ)が、精細に写されていても、それは単なる一人の人間の「死」の様に過ぎない。我々は、今。死ねば燃やされる運命にあるが(法律によって)、骨だけ残りあとは跡形も無くなるのは、誰も同じである。その同じ人間の運命を、ただ単に、虚無的に捉えては、生きている意味は全くない。と、思う人もいるのではないか。

 要するに、紀元前の、1000年2000年であれ、人は皆死ぬのである。その死を如何に捉えて、現在を生きるかが問題である、とすれば思想史しかない、のではないか。物質的な詳細な考古学が細分化され、その精緻な探求が如何に明細になったとしても。人間の死の意味は、一向に明確になるものではない。故にWikipediaも程々にすべし、である。のが、Wikipedia現状だ。で、僕は。小さな「新約聖書」を持って、近くの公園んで寝転がりながら昨日。その冒頭の、マタイ伝一章と二章を読んだ。

 見事なものである。イエスの両親は、夢のお告げでエジプトに逃げる。自分たちが属する国の王に恐怖心が生じ、もう一人の王(イエス)が生まれたという学者の説をもろに信じる王が慌てる様を書く。当時の現実が。権力者が同時期の子供を皆殺しにする、記事は如何にも人間的現実である、と思う。エジプトに難を避けた、イエス一家は。唯物論的宗教論者(ツタンカーメン的)でしかないエジプトに逃げ、そこから観念論的唯心論の神論が発祥する一瞬を、聖書は捉えているのである。イエスは、神の一人子、という想定である。実に見事な、転換と言えよう。その観念論的神論の永遠の生命論(これは今も変わらないが)こそ。西暦元年から今まで、世界を支配した大きな思想なのである、と僕は思っている。それが、実は激しく毀損する時代が(唯物論の復興期)が、ポストモダンと言われる時代の思想の潮流なのである。

 僕は、その潮目に生きたキリスト教の若者で、あるが。それを代表するキリスト教の書物こそ、「H・コックス」というアメリカの神学者が書いた「世俗都市の宗教」Religion in the Secular City なのである、と知ったのは、最近である。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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