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2019.06.05

永遠の生命と、ブルンナーの人間論の、自然主義神学の中の非自然主義

 熊沢英昭が自分の息子を殺したのは、自分の息子が他人の子供たちを襲うと言う、横浜の例に倣った行動をするのを恐れての凶行であると、報道された時、僕はブルンナーのような。西洋の神学者が言う自然主義神学がわかった、ような気がした。西洋では自然と神は、実は対立する概念である、か、それとも親和性のある概念であるかは、西洋思想の論争の真髄である。誰も簡単には、論理化できなかったのだと、七十七歳になってやっと理解できた。今まで若い時からキリスト教の神学らしきものに触れてきた明治学院の、僕と言う秀才は。やっと自然主義神学が読めた。のである。昔から自然主義神学とは、何かと思っていた。まさか、こうも明確に対立するものだと、は思ってもいなかったのは。僕が純粋なアジア人で、日本人であるからであろう。日本人の文化的伝統に従えば、自然は人間と対立する概念ではない。言うまでもなく日本の伝統的な宗教は、自然的である。それを自然の中で、自然に会得する我々には、わからないことと言って自然と神が不一致で、まさか対立するものなどとは、思っても見ない夢物語である。神は自然を創造したとは、聖書にある通りだが、まさかその深いところで絶対対立がある、と言う概念を神学が生み出していたとは、まさかもまさか、である。これは、日本人がキリスト教をやって一番わからないことであろう。要するに伝統である。その例として、フランスなどの整然とした都市計画では。日本などよりも自然を大切にする。それは一定の区画や確然とした差別的地域の隔離された部分(絶対対立)、として、いわば自然を「飼っている」ような感覚である、と言うことがわかった。僕は、スイスの自然が好きであるが、その圧倒的な自然の力量を制御するのが、スイスの神学者ブルンナーたちの、スイス人らしい人間意識、概念のもたらすところだとは、知らなかった。彼らは自然と対立しつつ、それを制御したのである。それが、今のスイスの観光資源となっている。それに比べ、日本のそれは、人間といつも一体的で、制御というより親和的でつましく、決して制御しない、されないものなのだ。僕は、西洋の技術文明が明らかに明確な意識のもとで、横浜から新橋に鉄道を引いた時、非難した日本人の一人と言って良いと思う。日本の広重のモチーフをぶっ壊す親和性のない鉄道は、今は言うまでもなくますますその技術パワーを発揮して、広重をぶっ壊し続けているのであるが。僕はこれが西洋文明の特に、キリスト教の自然神学の真髄であるとは、気がつかなかった。明らかに、キリスト教では、人間意識と神の意識の対立や、もっとも自然的な人間の意識を自然と対立させて、明確にして。神と人間を裂く。で、神の創造になる人間の現実を見事に書き出し。神の絶対性を基礎に、人間の原罪性を明確にするのがブルンナー神学なのだ、と知った。まさに、僕は熊沢英昭が日本人として行った、そこに人間的な行為を自然的人間と解釈する、日本人の矛盾を見た思いがした。のは、昭和31年に出版された、ブルンナーが1937年にすでに書いていた「人間」を読んで。僕はスイス人の彼の。キリスト教の考え方が、わかったと思った。のは、明治学院で、僕もカルヴァンという宗教改革者の書物「カルヴァンの人間論」(トーランス著・昭和32年・教文館)も、高校の時に読んでいたからだと、自分を知った。話が難しくなったのは、いわば自然と人間人格との唯物論的対立が、日本の今の世の中で。一段と深くなった、日本の現状を憂うからである、と言っておこう。今日も僕は、絵を描く。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

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上の写真は全部僕が現場で撮影した。カルヴァンの家やその教会正面、とスイスの湖に突き出た城。それこそ山のようにあるが、さらにその一部も掲載したい。

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