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2019.07.22

永遠の生命論、人間存在の希望の研究(四十六)

で、この話は一層ややこしくなるのは、止むを得ない。書いているテーマが、「永遠」であるからだ。この永遠は、人類普遍のものでなければ意味もなく、価値もないが。キリスト教は、これを普遍といって、イエスの言葉は、神の言葉として、神が人間のために、自らを受肉させ、この世の苦しみを経験して、言葉を与え。その「言葉」(神学的には啓示という)を信じて人間は救われるのである、という聖書に書いてあることを。後に続いた人々が、神学として(言葉としてさらに概念化し)、人類普遍の救済として宣教してきた、というキリスト教史の。基本と接触することになる。から、ややこしいのである。問題は、一地域、一民族、一定時間の問題、ではなく。あらゆる世界の隅々にいる人々にまで、関係する、からややこしい神学となり。当然、人間的欠点は聖書にある通り、人間には数限りない罪(神を裏切ったという原罪を背負い)という、欠点を背負っていると、書かれていて。それが、またよく正確で。呆れるほど当たっているので。あるし、今も相変わらずで、人間のあるところ必ず存在する、罪の現実、として。あまりにも毎日、事件として。あるいは国際紛争として、あるいは身辺的にある貧困や差別や、ミスや怠惰や飲酒や放縦として、日々。我々人類は経験している、と言い続けたキリスト教は。自分の神学においても、同じ神学者が人として、罪を犯しつつ。それを修正し修正し。さらに修正しなければすまない、新たな罪の中を、生きている。と、ブルンナーは解釈しているのである。から話は、明るくない。で、僕は、スイス神学が、これほど我々の近くあり、彼らさえ。いや、彼らこそ。いや彼らも。人間の罪やくるしみ、を、同じ信者の罪苦を苦しみ、その現実をほとほと、嫌になっていたのだ。などと、考えたことは、今まで一度たりともなかったのである。で、僕は明治学院の創業者ヘボンの経歴を読みなをしている。それによると、彼は明確なカルヴァン派(カルヴィニスト)であって、その信仰的肉的信仰継承は、徹底的にカルヴァン派であった、と著者高谷道男さんは書いている、ということに感動した。僕が、高谷さんの本を渡されたのが、明治学院中学生の時で、今も手元にあるが。僕は初めて、高谷さんがこれでわかったのである。僕は、突然。スイスのジュネーヴで、歴史美術館に行った時、見つけた。ヘンリー・ムーアの見事な抽象彫刻を。図らずも、撮影していたことを思い出し。て。僕は、それを自分の撮影したものの中に発見し。あのくどいキリスト教史の中に生きた(イギリス人)芸術家の。人間の肉体を、あそこまでデフォルメする、彼の芸術的スタミナの高さ、真実を追う芸術家精神に、キリスト教のあの深い歴史の傷あとが刻まれているのだと、気づいたのである。スイスは、それを。美術館の前庭に置いて、日々人々の鑑賞に任せ。たとは、とは。キリスト教ヨーロッパは、すごい、ですね。

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 筒井友美作品。

「帰る場所」

m https.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

下の写真が、スイスジュネーヴの美術史美術館の前庭。写真では、左隅にヘンリー・ムーアーが写っている。実物を目の前にしていたが、写真を撮る気が無く、ただこの写真では、木陰がいいフォルムだったので撮影したと思う。もし意識していたら、もっとセンターに寄せたと思う。ただ、この彫刻家には思い出があり、当然若い時。絵を勉強中に見て、本当にショックを受けた。あの頃は日本では岡本太郎で。太郎もすごいと思ったが、とてもムーアーには及ばないと思った。が。その深い意味は、全くわからないまま、その形だけにとらわれていた、に過ぎない。今も、本当に、新鮮だと思えるのは、深い芸術家の感覚は、キリスト教ヨーロッパと切り離せないと、思い至ったからであろう。上にある、日本の画家筒井友美の、あきれるばかりの「帰る場所」と、いい勝負だと、思うのは私ばかりではないと、思う。下の写真は、パソコンの大画面にすると、よく写っていることが、わかる。もちろんムーアーは、Wikipediaにも詳しい世界的彫刻家である。

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