« 永遠の生命と、郷司浩平とああ、レ・ミレザブル(その三) | トップページ | 永遠の生命、と言うキリスト教信仰を信じること »

2019.07.02

永遠の生命と、病院と過去の人たち

 病院を出てから約一週間。外来で久しぶりに病院に行った。経過観察で、先生がいかが、となって、まーということで。しっかりと血液と尿の検査が終わり、数値が先生のところに集まって、まー、で一ヶ月後の予約をして、帰ってきた。で、過去の話など、すっかり僕の頭から消え、二冊偶然に集まった郷司さんが戦中に書いた「決戦経済体制論」の、二冊目の古書代を途中の郵便局で振り込んで。一切の過去から卒業することとした。過去の、特に広い意味の第二次世界大戦に臨む、経済人の論文から読み取れるのは、まさに冷静な戦時経済対策の高い実態、である。が、ここではそれを書いたとしても何の意味もない。読みたい人は、今は。国会図書館でデジタル化されて、家のパソコンで読めるので、自分で読んで「感心」すると良いと思う。ともかく、表面で見えた戦争とは別の、冷静に対応した経済人郷司浩平牧師の、姿を見ることができる。しかし、僕が彼をどれほどよく知っていても、それは過去に過ぎない。今、最も必要で、僕にとっても緊急なことは、自分の命、のことに過ぎない。で、僕は、それをのみを書くことにしたい。それは、やはり人間の永遠の生命のことであり、自分の宗教的救済のことである。これは、ブルンナーさんの神学によりながら、それを書くしか僕には。方法もなく、それは同じように古いにも関わらず、全く新しい僕らの大切な命の問題として、意味があること。であると、病院の帰り道つくづく考えたのである。病院にいると、人間は皆同じで、ボソボソと地獄の一丁目を歩いているに過ぎない。確かに、病院は人を治療するところであるが、それが病院として。見かけ、どれほど立派でも。人間の永遠の生命に、答えられるわけもなく、それが使命でもない。のだから、病人は、自分の限界生命の中で、せいぜい、少しは、良くなる程度の。日常の生き方のために、病院は真摯に取り組んでいる、と僕は悟って。食堂で、冷やしラーメンを食べたいのだが、少し昼飯時には早いので、近くの最寄り駅まで。せっせと歩き、いつも行く駅前のコーヒーショップのパン屋さん(アンテンドゥー)により、一休みして帰ってきた。一切の、日常の硬い、激しい、セコセコした。相変わらずの人間臭が、僕の眼前に表出したのは、やはり夢ごごちの内部に痛みとなって、外部に向かわない自分の。病気が少し良くなって。駅前の交番や、ガラス越しに見える自転車置き場で、タバコを吸って。無駄な金を使う立派な体格の青年を見て。いいねなどと、言ってのけた自分の、外的に平凡な意味を。考えながら、電車に乗って帰ってきた。喫茶店を出るとき、トイレによって、いつもりより多く出血したおしっこを見て。やはり、動くと、傷口は少し開くのだろう。と、思いながら、次の検査は一ヶ月後のことであると。家で静養しながら、過去から卒業し、積極的に永遠の生命を書こうと、くどく考えなら。帰ってきて、今これを書いている。

 ーーーーーーーーー

 筒井友美作品。

 「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

ウィーンの旅のテーブル、実写。

Photo_20190705085201

|

« 永遠の生命と、郷司浩平とああ、レ・ミレザブル(その三) | トップページ | 永遠の生命、と言うキリスト教信仰を信じること »