« 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(三十八) | トップページ | 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(四十) »

2019.07.20

永遠の生命論、人間存在の希望の研究(三十九)

 諸君。おはようございます。いよいよ、教授の登場です、静かにしてください。講堂は一瞬、凍りついたように、なった。外には春風が吹いて、いた。何も変わらない春の風景は、この武蔵野原に明らかに世界を変える人が来ても。いつも泰然として、影響を受けなかった。教授は、登壇した。ブルンナーは、その日。ICU(国際基督教大学)と名付けられた、できたてのこの大学で、初めて学生と顔を合わせる。考えてみれば、戦後直後の交通事情は複雑で。連合国のすべての交通機関が、ここに立つ彼の便宜を図ってくれたのだ。第一次世界大戦以後設計された、彼の故郷チューリッヒ空港は、当時から国際スパイ合戦の舞台だった。し、深い霧にいつも閉じ込められているのは、スイス空港の特徴だった。不便こそ、スイスの狙いどこである。国際的にはジュネーヴが有名だが。ジュネーヴ空港は国際空港ではない。ここは、フランスに近接し、いつも歴史の中で、際どい役割をになっている。そこをうっかり、国際空港として利用するには問題が、ありすぎる。あそこは危ない。国際化できない、とは、スイス連邦会議の常識同意である。そこは、ヨーロッパの逃亡者が、いつもいつも安全の確保をするために存在した、都市なのだ。だから、そこに金が集まるのは常識。それが、スイスの狙いだ。フランスのヴィーシー政権に、図らずも関係した三谷隆信(戦後の侍従長)も、ほうほうの体でジュネーヴに避難していた。彼は、ナチスの傀儡であった、フランスヴィーシー政権に心ならず、協力しなければならない立場にあったのは。彼が、日本のフランス大使、だったからである。彼の兄三谷隆正は、明治学院から第一高等学校に進み、帝国大学を卒業、母校第一高等学校の教師をするといった、地味で有名な禁欲家で。有名なクリスチャンであった。その彼が戦中に結核で死んだことは、敗戦直近のフランスで、隆信は聞いた。が、どうにも身動きができず、ヒトラーの自殺と同時に、あっけなく消えた政権の終わりを見届け。日本政府の命令で、フランスからスイスに逃避したのである。彼は、日本に帰る準備をスイスでしながら、密かに。ジュネーヴのブルンナーを訪問した。彼は、戦後の日本再建は、ブルンナーにこそある、と、説得したのである。

ーーーーーーーーー

 筒井友美作品。

「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

成田からチューリッヒ空港に着いた僕らは、何が何やらさっぱりわからなかったが、ともかく飛行機を降りて、自分が乗らなければならない送迎バスを探した。あの頃は結構、スイス観光の日本人もいたが、みんななぜか迎えの人がいて、結局僕らはポツンと取り残された。それで、ざんざん苦労してこのバスを見つけ、どこに行くのやらもわからずに、このバスに乗った。このバスのローマ字を読んでもらえば、チューリッヒと読める文字が見えるでしょう。で、僕らはこれで都市であるチューリッヒに行くのかと思って、このバスに乗った。が、着いたところは、なんだか名前もわからない場所(オリコンとかいったように覚えているが)で、ということになる。そこが、スイスの第一夜である。それが、白夜とは、知らなかった。なにせ、日が暮れないのである。日を間違えたのではないかと、思ったものだ。

11

Photo_20190720063501

0007_20190720063601

008_20190720063701

0012_20190720063901

Photo_20190720063901

013_20190720064001

024_20190720064201

023_20190720064301

この下の実写の写真がベルンの駅前。この辺りから、富士フイルムをカラーに変えている。カメラは、コンタックス。チューリッヒをほうほうの体で出発し、初めてスイスの首都ベルンに着いた。僕はいうまでもなくジュネーヴこそ、首都と思っていたから、ここが首都だとわかって唖然とした。要するに、スイス史の複雑性は、帰国後に調べてみたが、いまだにわからない国である。その政治機構、選挙、なぜ中立国なのか、なぜカルヴァンは、フランス人のくせに、ここで宗教改革者になったのか、とか。ルソーとは、何者か。など。きりがないが、僕は明治学院で、高校生の時にブルンナーが教科書だったから、こんな人間に、成り果てたのである。

0030_20190720064401

 

 

|

« 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(三十八) | トップページ | 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(四十) »