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2019.08.24

永遠の生命論と、人間存在の希望の研究(116)

フトした加減で、韓国との破棄された条約は2年程度経過したものらしい、と知った。なんだ、たいした時間を共有したわけではない。と、あっさりと興味の対象から外した。それより何より、古い話。2000年前の聖書の話が、新しいのはなぜか。このあたりの方が、建設的だ。それもフト、バルトがわかったからである。バルトは、明治学院高校の時に読んだ。ブルンナーが教科書の時、自分から自習して読んだ。それは、「ロマ書講解」で、現売している。カールバルトがなくなったのは、1968年(昭和43年)、生まれたのが1886年(明治19年)だから82歳まで生きた。僕が77歳で、あと5年後に僕も、アウトかな。ここらあたりの面白さは。人間時間軸と神的時間軸の、大いなる違いであるが。私は急に、昨日、バルトがわかった。バルトは難解である、と思っていたし。ただ、不思議なことに。この難解本が、今も現売されていると、言うのが前から不思議で。多分実用書として、牧師になる人や、カトリックの司祭などが密かに、読んでいるのであろう。素人が読むとは思えないが、あるポイントを乗り越えてから、読むと。いたって明快な本である。ことに、気づいた。だから、キリスト教を、商売にする人の秘伝の書、だということがわかる。のは。バルトは、全く徹底的に、聖書やその神を信じている人、という位置付けである。欧米では、当然。我々非キリスト教国のクリスチャンと違い、キリスト教の凋落は深刻である。キリスト教というのは、結局人間によって傷つけられ、おとしめらてきた歴史にすぎない。聖書的に言えば、人間史は、全く聖書的ではない。その上、欧米では、キリスト教が主流であるから。その結果その核心たる教会に、人が来ないというのは。欧米文化や社会構造から言っても、危機として、それは捉えられる。ヨーロッパは、何度も危機を迎えている。自分たちの文化は、世界で一番高い文化として、腹の底から信じている、欧米人は。それが、耐えられない。しかし、キリスト教の実態、教会の実情は、明らかに非聖書的である。それを一気に解決したのが、日本人の内村鑑三の、無教会主義であるが。そのあまりのすごさに、欧米人はびっくりして、手もつけないのが実情でる。彼らは、そう言われるのが、怖い。社会が壊れるのではないかと、恐れる(異端主義として)。だが、実態的に人間的に、聖書的でないことを繰り返した欧米文化は、第二次世界大戦で最頂点を迎える。イタリアドイツは、日本と組んで。あらゆる悪を行なった。これは、いたって聖書に反することで。その問題の根は、宗教改革の時に遡ることができる。何と言っても、宗教改革は。世界の近代社会、を生み出したのである。が、実態は、戦乱と虐殺に過ぎない。この非聖書的日常に、呆れ果てた、ドイツ人の改革発端者ルターも、しまいには。宗教改革自体に呆れている。時、今度は、若いフランス人のカルヴァンが、その英才を発揮する。彼が、スイスバーゼルで生み出したのが、「キリスト教綱要」だった。だが、それを基盤にする、バーゼル生まれのバルトは。ドイツヒトラーのファシズムに、明確な反旗を翻した。それは、一方で、ヒトラーに明確に賛成した、ドイツ国家キリスト教があったからで。今もそれは、ドイツキリスト教の、明確な、消せないドイツ汚点史なのである。こういった仕組みのなかで、ロマ書は書かれた、のを知らず。私は、生意気に高校生で、それを読んだから。全くわからないまま、キリスト教の神を受容した。そこから、祖父ネットの旅は、始まった。と、書くと懐古的になるが、懐古しているわけではない。2000年前に戻るバルトの神学を、理解しただけのことで。聖書主義なるものは、そういった。さんざんのキリスト教史を背負った。ヨーロッパの信仰を、立て直すために。バルトが、一生をかけて神学した、ということが分かったと書いて。今日は終わりたい。バルトは、単純に聖書の愛の神を信じ、それを書いたのであって。それは、難しい書物では決してない。むしろ、優しく明確な、信仰の書である。彼は、神は存在はするかなど、と書いたのではない。聖書は、すでに2000年前に、そこにあり今もある世界で最も、信じるにたる神の言葉の書、である、と書いたのである。

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 筒井友美作品

「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

だから、日本的風景。上高地の実写。

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ここが、長野から来ると上高地に行く終点駅、なんとかシマシマ。ここからはバス。

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河童橋すぐの宿の食堂から。

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これが、宿。

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これは、美術館構内。ネットを直接コピー。近代彫刻家荻原碌山(守衛)の個人美術館。碌山は東穂高村(旧穂高町内、現・安曇野市穂高)出身で、「東洋ロダン」として知られる。当館はその作品と資料の蒐集、保存および公開を目的として、1958年4月に開館した。 また碌山と関係の深い芸術家たち、高村光太郎戸張孤雁中原悌二郎らの作品も併せて展示している。

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ついでにバーゼルも貼り付けたくなりました。バーゼルという名称は、374年にバジリア(BasiliaまたはBasilea)としてはじめて史料上に現れたが、現在のバーゼル大聖堂付近には、古代ローマによるライン川流域支配が確立した1世紀以前からケルト人の集落が存在した。740年頃に近隣のアウグスタ・ラウリカドイツ語版英語版ラテン語: Augusta Rauricorum)から移転して司教座となった後、1032年には帝国直属(ReichsfreiheitまたはReichsunmittelbarkeit)の司教領となった。1100年に石の市壁で全周を囲んだ[2]。 13世紀にはライン都市同盟に参加。1356年バーゼル地震で街は壊滅的被害を受けた。1501年にスイスの原初同盟(Alte EidgenossenschaftまたはOld Swiss Confederacy)に加盟し、1528年には宗教改革の流れの中で司教を追放し、プロテスタント勢力の一員となった。1833年、3年間の内戦を経て周辺の農村地域がバーゼル=ラント準州として独立し、現在に至る。

 

 

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