« 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(九十二) | トップページ | 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(九十四) »

2019.08.10

永遠の生命論、人間存在の希望の研究(九十三)

ローマ帝国がキリスト教を公認するのが、313年、国教化するのが392年と他愛もない話である。早いなー、という印象である。これで、キリスト教が、一気に政治化する。のであるが、ここからは悲劇のキリスト教である。政治に取り込まれたキリストイエスの言葉は、神学者によってかろうじて保たれながら、キリスト教とは名ばかりの。非キリストイエス化ばかりが、目に着くのが、その後のローマ史(いわば世界史)である。し、キリスト教史である。戦争がその例で、枚挙にいとまなく。世界史の代表であるキリスト教文明史は、まさに戦争史なのである。が、それは、神学史でカバーされる、が、所詮戦争を合理化したりする神学も、あるから。要するに、人間の罪の歴史は、とめどなく深くなるばかり。今の文化が、核兵器を制御できない人類の悲劇は。結局、破壊的消滅に、至るとしても。それはそれで、当然考えられる人類史である、ということを老人がいうから。暑い夏の朝は、気分が悪いのである。それは。老人として消えゆく自分史を、キリスト教史に重ねるのであるが、同時に、そこに永遠の生命論が。神学的に初めから、キリストイエスにあって(ローマの国教化以前に)、それは神の言葉(啓示)として。信仰の初めに存在している、ことが。イエスをキリスト救い主、神の子、とする神学の。あるいは信仰の、原点なのである。イエスの史実は、歴史学的には存在しない。ただ、聖書に、言葉として残っているだけで(聖書の歴史学はある)、ローマの歴史書のなかに記録が「ある」訳ではない。つまり、聖書としての言葉が。キリスト教の信仰の原点で。この言葉を巡って、神学者は信仰を。人間生命の永遠化にターゲットしたのである。それは、いたって早く政治的になり、ますますその効果は絶大であるが。それは当面、日本には全く関係のない、話である。日本の歴史に、本格的な基督教の政治化は。戦国時代に少しかすった程度。の問題で。日本にはキリスト教は定着し増殖はしない、と、思って間違いのないことである。日本のキリスト教は、政治化していたヨーロッパキリスト教の流れを、汲んでいるだけで。今後、日本の政治が、キリスト教を国教化することなど、あるわけもない。キリスト教の歴史上の、世界征服のエネルギーは、政治的キリスト教であり、神学的キリスト教ではない。だから、日本にキリスト教はないかといえば、全く的外れ。政治的でないからこそ、ある意味では。べったりと個人化(無教会化)し、そこに厳然と鎮座してしまうキリスト教が、日本のキリスト教である。結局、西洋文明の受容とは。政治化して巨大化した、キリスト教の受容に他ならず。この現実は呆れるばかり。日本は、キリスト教化したモダンジャパンであると、少し見回せば明らかなことなのであると、僕は。今更、銀座でコーヒーなど飲む気もしないが。銀座のドトールや、ベローチェで安いコーヒーを飲んでも。僕の昔の、銀座気分が蘇るとはいえない。と、皮肉って。僕は近くの、アンテンドゥで「白鳥泥棒」を読む。

ーーーーー〜ーー

 筒井友美作品。

「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

これが、僕の銀座。僕の絵や、ライカで撮影した銀座や、僕の個展の画廊など。並べてみた。

Aa

Photo_20190810092401

Photo_20190810092301

L1150307

393

L1110391

 

 

 

|

« 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(九十二) | トップページ | 永遠の生命論、人間存在の希望の研究(九十四) »