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2019.08.17

永遠の生命論と、人間存在の希望の研究(104)

スマホという読書空間の拡散は、書斎という観念を破壊してしまった。書斎には、一定の限界があって、その書斎の主には、一定の自分の尊厳が、その限界内で構築されている。その空間は尊重され、一見しただけで。その人が、なんとなくわかり、わかるのは。その本の、種類から類推された、と思う。そこで、偉い人だとか、その内容に深いのだとか、内容の弁別は容易だったと思う。が、今はその限界が消えた。拡散している情報は、一瞬に「そこ」(スマホ)に集まり、別にその集中作業は、安易なものである。書斎は、そこにあって、何も書斎に行かなくても、誰にでも手に入る情報になって、ことさら一定ということはなくなった。無限という言葉は当たっていないだろうが、無限に近いものとして、それは価値を相対的に下げてしまった。希少価値がない。昔から書斎の、希少という価値観を初めから無視している人もいた。本は、捨てるのです。と言っていた人がいて、印象に残ったが。その時僕は、残留に意味を感じていたから、不愉快だった。で、僕は今も書斎派なのである。彼が、本を捨てると言ったのは、いつでも手に取ることのできる情報として、捨てると言ったのでは無い。読んだものを書斎として持たない人は、所詮その考えはわかったので、それを捨てて、省みないということであると、思う。僕はそれができず、古い話(キリスト教)を続けて、いつか書斎化(要塞化)してしまった。で、それでもかなり捨てているから、なんとも言えないが。本から得た観念なり知識を、読書で一気に取得する、あとは捨てる。という考えには、僕は賛成できない。のは、観念化した、あるいは記憶した、ないし自己のものにした、などの。読書の意味は。僕はそう簡単には行かなかった。聖書は、その点。一番の難物で、昔から多くの人を悩まし、今も悩まし続けている。一度読んで、わかった。という人が、それを捨てて。わかったということ自体、僕にはわからない。それは、読むこと、わかることとは別だ。まして、読むことにより、その影響があるとなれば、捨てるわけには行かない。分かるという事は、容易なことでは無い。商売のように、その相場で儲かった損をした、という問題では無い。人生の深い、存在論的な面倒な問題は、人生にはある。そんな面倒なことをしていては、生活が成り立たないから、それは分かったこととして。わかり、すぐ商売に戻る、という意味が捨てるというのが、捨てる意味であろう。しかし、僕は明治学院の高校の頃読んだ、「キリスト教綱要」が、世界にこれほどの影響のある本だとは知らず。自分の思想の、あるいは心の支えとしてしまったがゆえに、今回も、またカルヴァン思想の批判書を読みに、国会図書館に行く。のは、結局。人生の永遠の問題を、なんとか解決したいと思っているからに他ならない。もし人生が、死で終わるのなら、全ての本を捨てて。いや、本ばかりでなくまさに自分の肉体も。いや、まさにすべてに別れを告げて、この世のチリに帰る日であるとするなら。人間の考えは、オール唯物論に過ぎないでは無いか。人間が、少なくとも。その思い出とともに、どこか別の世界に行くのだとすれば、僕はできれば書斎をこの世に持って、大切な本を捨てず。考え続けたいのもだと、思っている、のであるが。

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 筒井友美作品。

「帰る場所」

 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

で、ポピー畑の実写にしたい。まるで、印象派の絵のようで、僕はこの美しさが、好きなのである。

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