« 永遠の生命論と、人間存在の希望の研究(160) | トップページ | 永遠の生命と、人間存在の希望の研究(347)5月24日、日曜日(千日祈願) »

2019.09.24

永遠の生命論と、人間存在の希望の研究(165)

僕も、現代人であるから、文化と人間の深い闇が見える。のは、日常で年金暮らしをしていると、金に追われない生活であるものの、思想に追われる生活になる。からであろう。思想が、少々わかりすぎて、僕の思想が追いつかない思いがある。ここ祖父ネットで、頼りにしている神学者は、バルトとブルンナーである。昨日は、少し嵐のような風を気にしならがら、いつものようにアンテンドゥで読書をした。本は、ブルンナーの「基督教のつまづき」(日本基督教団出版部)である。久しぶりで、彼のこの本に接し。以前読んだ時と違い、かなりブルンナーに近づけたと思う。彼のような、スイスの神学者(バルトも同じ)は、やはり本場の人であるだけに、基督教そのものに悩む深刻度は異常に高い。ということがわかる。彼が死んだのは77歳で、今の僕と、同じ年齢だ。この年齢になって、やっと僕が。ブルンナーを分かり始めた(明治学院高校の教科書から始まって)、というのも(そう思うのも)当然なのだと思う。彼がその本を書くときは、1946年(昭和21年)で、57歳。壮年期である。人生の一番特に学者にとって、充実期の初めの頃。そこで、彼は。戦後の日本に来たとき。その本が、日本で出版されるとき(それは昭和30年1955年、本には本自体の序がある)以前に、日本にいた彼は、わざわざ日本との決別の辞を書く。本自体は、欧米人に向かって書かれたもの。1946年の彼の講演をまとめたもので。その本が、日本で出版されるので、決別の辞を書いた。その場所は、国際基督教大学となっていて彼は程なく、スイスに帰って行く。その決別の序文の中で、おそらく日本は。キリスト教化されない、あるいはされる、と書いて。日本と基督教の関係を必ずしも、明確には予想していない。その彼の意識を、僕なりに解釈すると。要するに、基督教にある「普遍」としての世界思想(意識)に、彼が引っかかっていると感じる。そこで、彼は。それを回避するために。日本は「基督教」に関わりすぎて、「イエスキリスト」を語らなすぎると、喝破する。その彼の意識は。長年のヨーロッパキリスト教の、あまりにも複雑に積み重ねられた鬱陶しいキリスト教史に。こだわらないで、という意味であろうと推察する。それよりも何より、イエスその人を見つめて行こうよ、という、常にフレッシュな意識を強調したのだと思う。第二次世界大戦は、ヨーロッパの矛盾を、一気に解決せんとして始まったもので。結果は、いうまでもなく悲惨だ。その本質は、人間の腐敗から生じたものだと、彼はキリスト教的に思想していると思える。で、彼は、それに巻き込まれた日本は、戦後のこととは言え(日本に居る、彼の意識の現在性として)、日本はキリスト教の歴史が少ないのだから、イエスキリストその人に注目して。あまりキリスト教(具体的にはキリスト教史)にこだわらないでください、と言ったのだと。この歳になって、解釈する僕であると、我ながら感心している。と、今日は書いて終わりたい。少し、時系列の流れが、ややこしいので、理解できないと推定する。

ーーーーー~ーー

 筒井友美作品

「帰る場所」

  https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

難しいことをいつもより深く書いたので、今日のカットは優しくややこしくなくポピーで。実写。

986

 

 

 

|

« 永遠の生命論と、人間存在の希望の研究(160) | トップページ | 永遠の生命と、人間存在の希望の研究(347)5月24日、日曜日(千日祈願) »