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2024.02.24

昭和レトロ・幻想の武藤富男

昭和レトロ・幻想の武藤富男

(これは書籍なので、常に編集します)

杉山勝己著

1941年生まれ

明治学院大学文学部卒

日活、創元設計勤務の後

現在ブロガー

 

2024/04/16・火曜日

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ウィーンで実写

僕もいよいよ、「イデオロギーの時代」かと思うようになった。

 

理由は簡単で、今までは、明治学院のクリスチャンの僕に、厳密な意味のイデオロギーはなく、キリスト教信仰があっただけである。

 

ところで、イデオロギーとは何であるか、早速wikiすると次のように出る。イデオロギー(: Ideologie, : ideology)とは、観念 (idea) と思想 (logos) を組み合わせた言葉であり[1]観念形態である。思想形態とも呼ばれる。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。意味内容の詳細については定義と特徴を参照。

通常は政治宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。

  • 世界観のような物事に対する包括的な観念。
  • 日常生活における哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
  • 主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。

 

で、結構な定義である。

 

まーこんなところであろう。大学は文学部で、散々聞かされた言葉、分かったようなよくはわからなかった概念だった、で当たっているようだ。今は八十二歳の落ち葉掃きの老人に過ぎないが、このイデオロギーが気になり始めた。

 

僕は文学部であるが学科は社会学科で、なかなか難しい学科だったと今頃理解している。その僕が一生、キリスト教研究で過ごしてしまった。特に無教会の研究に達していたが、今のキリスト教的立場は、無教会的教会派だと言っていいだろう。教会を否定しているわけではない。

 

この辺りがイデオロギーなのかと今朝思って、マンションの外の落ち葉を掃いた。

 

 

2024/04/15

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僕の時代の学院長

今日はのっけから小説家長谷川伸関係のwiki。

僕は10年間、小説家長谷川伸の自宅を見続けて明治学院に通学していた。というのが、理由。正門の道を隔てた向こう側の崖の上にある家が、長谷川の自宅だった。

 


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



『瞼の母』(まぶたのはは)は、長谷川伸戯曲1930年騒人』3・4月号掲載。

あらすじ

〔序幕〕
嘉永元年の春、若き博徒、金町の半次郎は下総の飯岡の親分を襲撃したあと母と妹のいる武蔵国南葛飾郡の実家に逃れていた。そこへ飯岡の子分、突き膝の喜八と宮の七五郎が敵討ちにやってくる。
半次郎を気にかけ、後を追ってきた旅の博徒番場の忠太郎が二人を斬り倒す。常陸の叔父のもとへ旅立つ半次郎に忠太郎は堅気になれと見送り、自身は生き別れた母を捜しに江戸へ向かう。
江戸では息子と生き別れたという三味線弾きの老婆と出会うが人違いだった。忠太郎は母親を背負って歩く男とすれ違い、うらやましく思う。
〔大詰〕
嘉永二年の秋、柳橋の料理茶屋「水熊」の前では無頼漢、素盲の金五郎が後家のおかみの婿に入って「水熊」を乗っ取ろうとたくらんでいた。店から元夜鷹の老婆おとらが叩きだされるのを見た忠太郎は声をかけ、店のおかみが江州に子を置いてきたと聞き出す。
「水熊」のおかみおはまの居間では娘のお登世が着物を着替え客の前に出て行くところ。店のおかみに会いたがる男と板前が喧嘩している声がおはまの耳に入る。強情な男を追い出してやろうとおはまは男を部屋に入れる。
おはまと対面した忠太郎は、江州阪田郡醒が井磨針峠(すりはりとうげ)の宿場番場のおきなが屋忠兵衛という旅籠屋について尋ねる。おはまはそこへ嫁いでいたこと、息子の忠太郎が五つの時に家を出たことを認めるが、息子は九つで死んだと言ってきかない。
金目当てだと疑うおはまに、忠太郎はもし母親が困窮していた時のために貯めていたという金百両を胴巻から出すが、おはまの冷たい態度は変わらない。忠太郎は落胆して店を去る。
すれ違いにおはまの元へ戻ってきたお登世はおはまを説得、おはまは娘可愛さに邪険にしたことを後悔して泣き出す。素盲の金五郎が恩を売るため浪人の鳥羽田要助と忠太郎を追ったと聞いたおはまとお登世は駕籠で追いかける。
夜明けの荒川堤、忠太郎は鳥羽田に襲撃されるが斬り倒す。おはまとお登世が忠太郎の名を呼び探すが忠太郎は返事をしない。二人があきらめて去ったあと忠太郎は反対方向に歩き出す。「俺あ、こう上下の瞼を合せ、じいッと考えてりゃあ、逢わねえ昔のおッかさんのおもかげが出てくるんだ――それでいいんだ。逢いたくなったら俺あ、眼をつぶろうよ。」忍び寄ってきた金五郎を斬り倒し、忠太郎は再び旅に出る。

登場人物

番場の忠太郎(ばんばのちゅうたろう)
旅姿の博徒。30歳すぎ。番場の旅籠屋「おきなが屋忠兵衛」に生まれるが5歳で母のおはまと別れ、12歳で父も死去。以後やくざの世界に生きるが、母恋しさにばくちで貯めた百両を懐に江戸へ行く。
おはま
料理茶屋「水熊」の女主人。52歳だが年より若く見える。忠太郎とお登世の母。
お登世(おとせ)
おはまの娘。18,9歳。
素盲の金五郎(すめくらのきんごろう)
30代の無頼漢。
鳥羽田要助(とばたようすけ)
武芸の心得はあるが、酒毒で顔に赤い斑がある浪人
おとら
50過ぎの老婆。若いころはおはまと仲がよかったが、今は邪魔者扱いされている。
金町の半次郎
若い博徒。忠太郎の助太刀でやくざから足を洗う。

出版書誌

演劇

映像化作品

映画

テレビドラマ

漫画化作品

楽曲化作品

浪曲

歌謡曲

銅像等

滋賀県米原市番場の国道21号沿いには主人公の「番場の忠太郎」の銅像(高さ1.75m、幅70cm)があった[1]。飲食店「忠太郎食堂」経営者が設置したもので、閉店後行方不明になっていたが、2022年3月に長浜市で発見され、番場史蹟顕彰会により番場のシンボルとして現地に戻される計画である[1]

また、米原市の蓮華寺には長谷川伸と地元住民らにより1958年に建立された「忠太郎地蔵尊」がある[1]。蓮華寺では夏に「忠太郎地蔵まつり」が開催されている[1]

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僕の学校・明治学院礼拝堂

2024/04/13

諸君は所詮「内村祐之」などという人物を知らない。

 

みすず書房から1968年に初めて出版され、僕が結婚した1971年では、第五版である本の著者、その第五版を僕は持っている。

 

この本は、僕の本読み人生では全く珍しく、今僕が持つその本は鉛筆線引きがしっかりしていて、全部隅から隅まで読んだ、という証になっている。

 

その線を毎日消しゴムで消しながら、よく読んだものだと、我ながら感心している。人生で、実務的にも難しい時期であり、僕はこの本で、社会の荒波を必死で泳いでいたとわかる。

今の、八十二歳の僕の人生の本だったと、今更ながら思うので、wikiの内村祐之を転載したい。

実に、素晴らしい人だと推薦できる。一言で言えば優秀な精神科医で、日本のプロ野球を作った人である。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

内村祐之(1934年)

内村 祐之(うちむら ゆうし、1897年11月12日 - 1980年9月17日)は、日本医学者精神科医。専攻は臨床精神医学神経病理学東京大学名誉教授日本学士院会員。プロ野球コミッショナー

来歴・人物

初期

1897年(明治30年)11月に、キリスト教思想家として著名な内村鑑三を父、内村の4度目の妻内村静子を母として、東京府に誕生する。

 

祖父宜之と父鑑三と共に、7歳(1905年1月)の時の記念撮影

12歳頃(1910年頃)の内村と家族

学生時代

獨逸学協会学校中等部から第一高等学校東京帝国大学に進む。学生野球界では特に一高時代に、早稲田慶應義塾を久しぶりに撃破するなど名だたる左腕投手として名を馳せた。1918年には15年ぶりの全国制覇を果たした。藤本定義は自分が見た中で五指に入る左腕投手として、谷口五郎小川正太郎金田正一江夏豊と共に内村を挙げている[1]

1919年4月初めの、一高と三高の試合はマスコミに派手に取り上げられた[2]

1921年4月7日に東京帝国大学3年生の時に東京ステーションホテル久須美美代子と婚約をする。仲人は父鑑三の先輩伊藤一隆だった。内村はスター選手だったので、マスコミに取り上げられて波紋を呼んだ[3]

1923年春に、東京帝国大学を卒業、精神科を志望して東大医局に入局した。しかし、約一ヵ月後に、呉教授に申し出て、東京府立松沢病院の医員になった。父の鑑三は祐之にヴァルター・シュピールマイヤー英語版)の『精神系の組織病理学』を卒業記念に贈った[4]。 それと平行して、学生野球の指導も行っていた。

 

 

結婚直後の27歳の内村と妻美代子と父鑑三と母静子、1924年12月

1924年11月29日伊藤一隆の媒介と大島正健の司式の元で、東京ステーションホテルで久須美美代子と結婚式を挙げる。

その後、北海道大学から招聘があったが、北海道大学には精神科講座の準備が整っていなかったので、1925年から文部省の海外研究員として2年間ドイツのミュンヘンに留学する。カイゼル・ウィルヘルム研究所(マックスプランク研究所)でシュピールマイヤーに師事する[5]。 その際クレペリンクレッチマーなどとも交流をもった。内村の留学中の1926年妻・美代子は長女・正子を出産する。

大学教授・病院長時代

1927年にドイツ留学から帰国し、同年9月に北海道に渡る。1928年に北海道帝国大学教授に就任。 1928年7月13日に次女・桂子が生まれる。その直後7月27日に内村鑑三夫妻が札幌に来る。札幌独立教会の牧会を行う。 1930年3月には、父の危篤に際し一家で上京し、父の臨終についての詳細な記録を記した。それらは「父の臨終の記」として残されている[6]。 また、3月28日に父内村鑑三が死去すると、内村の希望で東大医学部で偉業を達成した人物の脳の研究のため鑑三の解剖を行う。

その後1936年に東京帝国大学医学部教授(1949年まで東京都立松沢病院院長兼任、学部長も務める)となる。

東大在職中に財団法人神経研究所を設立。偉業を達成した人物の脳の研究や双生児の研究で多くの業績を残した。定年退官後は国立精神衛生研究所長などを務める。

戦争中には軍部の要請でソロモン群島に派遣され、戦地の精神医療体制についてアドバイスを与えた。また、空襲で松沢病院が焼失して、患者にも犠牲者を出す。1945年終戦の年に母静子が亡くなる。

その一方1939年から1943年までは東大野球部長、1943年六大学野球連盟理事長として戦時下の学生野球の対応に尽力する。

戦後

戦後は、東京裁判A級戦犯になった大川周明の精神鑑定と治療を行う。内村は大川を梅毒性精神障害と診断した[7]。 また、帝銀事件平沢貞通や、婦女連続殺人事件の小平義雄などの精神鑑定を行った[8]

1949年に法律改正により東京大学教授と松沢病院院長を兼任できなくなったので、松沢病院を退職し1951年に晴和病院を開設した。さらに、1958年に東京大学教授を退職した後、神経研究所の創設に努力した。

野球人生

一方野球では、混乱の続くプロ野球界で最高委員を務めるなど、野球界にも多大な影響を与え、いわゆるV9巨人黄金時代の川上哲治監督に大きな影響を与えたといわれるアル・キャンパニスの『ドジャースの戦法』を翻訳したのも内村である。

1962年5月、日米の野球に精通した人物として内村は日本野球機構第3代コミッショナーに就任。サンフランシスコ・ジャイアンツへ野球留学中にメジャー出場した南海ホークス村上雅則の保有権を南海・ジャイアンツ両球団が争った際には1965年シーズン終了を以て南海に復帰させるという妥協案を提示して解決された。第1期の任期満了間近の1965年4月、内村は札束競争にまみれてプロ野球界に入ってくる新人選手をうれい、新人研修制度を行おうと提案したが、オーナー陣の激しい抵抗にあい、自らコミッショナーの職を降りた。おおむねコミッショナーはオーナー側寄りであると批判されている中、オーナー側と対立してコミッショナー職を辞したのは内村1人である。このとき、「どんな医者でも完治の見込みがなければ患者を見放すものだよ」とコメントし、自分を推薦しておきながらその提案を飲まないオーナー陣を痛烈に批判した。

後にコミッショナーを務めた下田武三によると、コミッショナーの職を辞した後は一度たりとも球場に足を踏み入れず、存命中は特別表彰による殿堂入りも拒否したという。

このように、コミッショナーとしては思うように手腕を発揮できなかったが、日米の野球に精通した知識人として日本の野球の近代化に貢献した点が評価され、没後3年を経過した1983年、特別表彰として野球殿堂入りした。墓所は多磨霊園

家族・親族

内村家

義父・内村鑑三の弟子で、鑑三の英文著作『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』の邦訳(角川文庫)や、鑑三選集の編纂、また『晩年の父内村鑑三』(教文館)の著作がある。

著書

  • 『時局性アンモン角変化の病因に就て』 1929 - 東京帝国大学が受理した学位論文 [10]
  • 『主要精神疾患の原因と臨床』(南山堂書店) 1948
  • 『世界最強チームアメリカ野球物語』(羽田書店) 1949
  • 『精神医学者の摘想』(同盟出版社) 1950、のち中公文庫 1984
  • 『精神鑑定』(創元社) 1952
  • 『天才と狂気』(創元社) 1952
  • 『わが歩みし精神医学の道』(みすず書房) 1968
  • 『精神医学の基本問題』(医学書院) 1972、のち創造出版 2009
  • 『鑑三・野球・精神医学』(日本経済新聞社) 1973
  • 『アメリカ野球物語』(ベースボール・マガジン社) 1978

共著・編著

  • 『内村鑑三追憶文集』(編、聖書研究社) 1931
  • 『傑出人脳の研究』(長与又郎, 西丸四方共著、岩波書店) 1939
  • 『双生児の研究 : 双生児研究班報告』全3集(編、日本学術振興会) 1954 - 1962
  • 『精神医学最近の進歩』(島崎敏樹, 笠松章共編、医歯薬出版) 1957
  • 『日本の精神鑑定』(監修、みすず書房) 1973、新版 2018

翻訳

  • 『天才人』(エルンスト・クレッチュメル、岩波書店) 1932
  • 『天才の心理學』(エルンスト・クレッチュマー、岩波書店) 1953
  • 『天才の心理学』(エルンスト・クレッチマー、岩波文庫) 1982
  • 『精神病理学総論』上・中・下(カルル・ヤスペルス、西丸四方, 島崎敏樹, 岡田敬蔵共訳、岩波書店) 1952 - 1956

メジャーリーグ関連

  • ドジャースの戦法』(アル・キャンパニスベースボール・マガジン社) 1957、新版 1990
  • 『高校生のためのウイニングベースボール』(ジェームス・スミルゴフ、ベースボール・マガジン社) 1961、新版 1981
  • 『大リーグのバッティングの秘訣』(ハアヴェイ・キューン, ジェームス・スミルゴフ共著、ベースボール・マガジン社) 1962、新版 1981
  • 『野球王タイ・カップ自伝』(タイ・カップ、ベースボール・マガジン社) 1963、新版 1977
  • 『個人プレーとティーム・プレー』(ジョン・W・クームス、ベースボール・マガジン社) 1964
  • 『最新野球戦術』(ポール・リチャーズ、ベースボール・マガジン社) 1976
  • 『大リーグ生活66年 - コニー・マック自伝』(コニー・マック、ベースボール・マガジン社) 1978
  • ヤンキースのバット・ボーイ』(ジョー・カリアリ, サンダー・ホランダー共著、ベースボール・マガジン社) 1978
  • スタン・ミュージアル伝 大リーグ最高のプレーヤー』(ジーン・スコアー、ベースボール・マガジン社) 1978
  • ジョー・ディマジオ自伝 ヤンキースの華』(ベースボール・マガジン社) 1978
  • 『ボブ・フェラーのピッチング』(ボブ・フェラー、ベースボール・マガジン社) 1981

 

 

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ここに出てくる熱海城(あくまでも小説の中の城の、僕の推定に過ぎないが)

は、父の設計だといつも思っている。

2024年4月10日(水)

 

大野武男氏は1942年生まれ、僕より一つ歳下だ。

 

経歴は、上智大学文学部出身で、その後、ドイツの僕などが名も知らぬ大学院を出て、立派に博士になった人だ。いまだドイツに住んでいるらしい。

 

氏をWikiで見て、氏の本で僕の持っている「ユダヤ人とローマ帝国」(講談社現代新書1572・2001年)を読んでいると、つくづくいい学者だと思う。

 

現在もご健在と、wikiで推定できるものの、僕らの年代になるといささかそれも怪しくなる年齢である。氏が、さらに長生きをして、一段といい本を書いてもらいたいと期待している。

それにしても、こんなことを書くのは、いうまでももなく本のテーマである紛争地帯で、今も相変わらずイスラエルが戦争状態にあるとは、あきれたもので、世界のお荷物だ。

いつもこの紛争が世界に拡大する。

特に、これが近代世界史のパターンで、僕などがいうと、つい人間の罪が原因なのであろうと言いたくなる。

 

このざっとした、二千年ぐらいの歴史や人間問題は、僕らのようなプロテスタントでも、よくわからない。これを、神学的考察と副題をつけたパネンベルク(ドイツ人)の、「人間学」(教文館・佐々木勝彦訳・2008年)で読み、人間論的紛争の治らない世界の中心地を、毎日ハラハラしながら見ているのは、辛いものだ。

ともかく、困ったのである。

 

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僕の銀座個展

2024年4月9日(火)

2008年佐々木勝彦氏が訳した、「人間学・神学的考察」(教文館・人間とは何か)を、少し読めるようになったと今朝思った。

 

ともかく超難しい本。

 

書いた人はパネンベルグという人である。

ここで僕がいくら書いても全然理解されないだろうから、wikiを少し転載してお茶を濁すことにする。

 

ヴォルフハルト・パネンベルク(ドイツ語: Wolfhart Pannenberg, 1928年10月2日 - 2014年9月5日)は、ドイツ神学者ルター派出身で、エーバーハルト・ユンゲルユルゲン・モルトマンとともに、カール・バルトルドルフ・カール・ブルトマン以後の世代を代表する。希望の神学の流れを汲みつつ、独自の歴史神学を展開した。

 

で、興味のある人はさらにwikiをご覧ください。

 

僕は、もっぱら、この人の描いた人間学を読むが。、すごく難しい。しかし、「人間」というものが、そんな簡単にわかるものではないとも僕は思っている。

 

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僕の水彩画

2024年4月8日(月)

「イエス・キリストは実在したか❓」レザー・アスラン、白須英子訳、文春文庫を読みながら、下記の記事を読む朝は、ホッとする。そんな僕は、八十二歳のクリスチャンに過ぎない。ただし、今や教会に行って献金を出すほどの金は持っていない、稼いでいないからである。

 

【エルサレム時事】イスラエル軍報道官は7日、イスラム組織ハマスとの戦闘が続くパレスチナ自治区ガザの南部から地上部隊を撤収したと明らかにした。

【ひと目でわかる】イスラエル軍の作戦エリアと侵入したとされるエリア

ロイター通信が伝えた。ガザを南北に分断する回廊の安全確保を担う1個旅団だけが残るという。イスラエルはハマス壊滅を目的に、ガザ最南部ラファへの地上侵攻の準備を進めてきたが、作戦計画に変更があった可能性もある。カービー米大統領補佐官は7日の米ABCテレビで、「部隊の休養と修復であり、次の作戦を示しているわけではない」と語った。地元紙ハーレツ(電子版)によると、軍当局者は「ガザ南部で積極的に活動している部隊はいない」と説明。南部ハンユニスでハマス掃討の戦果を挙げ「できることは達成した。必要ならいつでも作戦を行うが、とどまる必要はない」と強調した。

ーーー

お前はメシアかと、イエスが直接質問を受ける場面は、新約聖書の圧巻である。「メシア」をwikiで調べると、以下wikiから、メシアの到来を信ずることはユダヤ各時代にメシアを称した者(保守派や、大多数の者からは「偽メシア」ということになる)は、当然ユダヤ教内部でも解釈が分かれ、分派を形成した。

また、これに賛同したキリスト教徒・イスラム教徒もいた。

また、こちらも当然ながらユダヤ教からは、イエスは偽メシアとして見られている。メシアのギリシャ語訳がクリストス(Χριστός)で、「キリスト」はその日本語的表記である。キリスト教徒ナザレのイエスがそのメシアであると考えている。

 

と、僕は若い時から読んでいて、これを信じているのやら、いないのやら、毎朝の祈りや、寝る前の祈りは欠かしたことがない。が、本当に信じているのやら、いないのやら。こんな程度の僕なのであると、驚いてはいない。要するに、日本人の普通の信者は、こんな程度であるよ。世界でも、普通の信者もこんな程度が限界、別に驚くに当たらない。

 

要するに、明確には神はとらえれれない、これで十分だと思っている。

 

 

 

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カルヴァンの教会・実写

2024/4月7日(日)

今朝の毎日新聞トップは「オカルト」である。

 

それも本場英国を書いている。

僕はクリスチャンで今の教会席は聖公会、いわば英国流のキリスト教である。が、もともと僕は明治学院だから、長老派のプロテスタント、いわばアメリカ流だ、などと描くとは思わなかった。八十二歳の僕にはどうでもいいが、今読む本は、「イエス・キリストは実在したのか❓」である。

 

実に面白い。

自分でこんなことを書いている暇があるなら、それを読んでいる方が、時間に無駄がないと思うほどの入れ込み。

題名は日本風に訳されたもので、実際の英語の題名は「ZEALOT」。意味はイマイチわからないが、英語の副題がthe life and times of jesus of nazareth でいわば歴史ものである。決して、日本語の表題通りではない。

書いた人はアメリカに亡命した、イラン人のレザー・アスランという人、宗教学者と認められている。決して、日本語表題通りだけの問題を扱ってはいない。

 

なかなかよく書けている。イラン人の書いた本は初め読むが、何人であろうと、きっちりした学者の書いたものは読み応えがある。

アメリカではベストセラーだったようだ。

そんな中の毎日新聞オカルト記事。

 

あまり気にしない方がいいが、世界の今の戦争状態は、人々に不安を与える。

世界の超紛争地帯が、またまた紛争になってしまった。今の、発達した明確映像で毎日見る映像は、まさに「絶望的光景」に過ぎない。

 

要は、人間が相変わらずsexに興味を持ち、かつ戦争もするという、人間パターンに過ぎないが、これから人生を送らんとする人たちには、絶望的に映るであろう。とはいえ、かつての日本(大日本帝国)も戦争をして、原爆をかっくらってへたりこんだ経験の歴史を持つ。

人が傷つけあって歴史を作る人類史は、いつも同じことが起こる。

 

ただ、人を傷つけて、いい社会は作れないということだけは、僕は八十二歳で経験的によくわかっている。しかし、人が戦争を避けられないという現実も、人間関係の個人的レベルを超える戦争の恐ろしさで、僕は僕なりに、第二次世界大戦で多少共経験した。

 

悲劇は幸福の裏地であるということを知って、自分をつねって、いかに痛いかを知るのはいいことであるが、自分を傷みつけても平然と嘘をつくのも人間であると思う。解決法として、結局法律を整備し、社会を保持することが大切であるという、平凡な結論としたい。

 

国際警察や国際平和軍隊は、僕の明治学院青年時代の理想だったが、もはや機能しないことも人生で学んだ。

 

これを、ストレスの多い社会というのであろう。

僕はクリスチャンだが、今や、教会に行かないクリスチャン。こんなクリスチャンも日本にはいるが、少数派のさらに希少派クリスチャンで、もはやクリスチャンともいえないかもしれない。

僕は武藤富男が先生、彼は明治学院院長と満州国高官のという意味の超秀才クリスチャンである。今や歴史上の人物となった、「岸信介」が満州での上司だった。

 

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僕の抽象画

                              

2024/04/06

「夜と霧」の彼方へ

「夜と霧・ドイツ強制収容所の体験記録」(フランクル著・霜山徳爾訳・みすず書房・1961年初版)は僕が明治学院大学一年の時に出版された本。

 

今も書店に並んでいると、僕は思っている。

 

今日の毎日新聞朝刊一面第一主題記事「イスラエル支援変更警告、米、ガザ人道対応要求・北部検問所開放へ」とは、僕の中で一気にある本と緊結された。

 

ドイツの「ユダヤ人迫害」という、世界史の事実は覆い隠せない。が、どこで誰が再び、それをやりかねない政治情勢は深刻である。理性の国ドイツに起こった恐るべき人道破壊は、いまだに歴史の謎である。

プロテスタント発祥の地、ルターのドイツに起こったあの世界的事件は、ミッションスクール大学一年の僕の若い脳天を打って、僕の読書人生は出発した。

 

僕は、今もその本を大切に持っているが、その本にみすず書房は、次のように書いた。「評する言葉もないほどの感動・と絶賛(朝日新聞)された史上最大の地獄の体験の報告。人間の偉大と悲惨を静かに描く。」が、再び起こらないと誰が保証するのであるか。

 

僕はこの本を何度も読んだが、すでに八十二歳。そうはこの世に長くはいない。みなさん、決して油断してはいけません。

しっかり人間の世界史を見つめてゆくことが大切だと、余計なことを書いてしまった。なお今では、当時の僕の明治学院院長、武藤富男氏もこの本を読んだと想像している。

 

この本は、彼が深く関わった「満州国」の経験と合わせて、彼の著述に大きな影響を与えたに違いない、と今頃僕は推定している。

 

 

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僕の田舎・信州・戦後すぐ

2024/04/05

 

僕が「概念」の不正確を持って、一生を誤った概念に「ポピュリスト」という概念がある。

 

これほど厳く間違って覚えた概念も珍しく、それを今のwikiであらためて確認すると下記のように出る。

 

Will Brettがポピュリズムを「乱用と誤用によって形が崩れた、引き伸ばされた概念の典型的な例」と表現したように、「ポピュリズムという概念には明断な定義が存在しない」と批判されることが多い。政治シリーズ記事からの派生ウォール街を占拠せよ運動で掲げられた「1%」(エリート)に対する「99%」(人々)という意味の看板(所謂We are the 99%の主張)。ポピュリズム(: populism)とは、政治変革を目指す勢力が、既成の権力構造やエリート層を批判し、人民に訴えて、その主張の実現を目指す運動である。日本では、「固定的な支持基盤を超え、幅広く国民に直接訴える政治スタイル」という意味で使用されることが多い。

有権者へ政治への参加を促したり、政治の大きな変動をもたらすこともあり、民主主義にとって有益な一面もある[4]。一方で、大衆の利益を安易に追求することで社会的弱者の人権が侵されたり、社会的分断を招く危険性がある。

アメリカなどでは肯定的に使われる一方、日本、欧州では否定的な意味で用いられることが多い。

また、同様の思想を持つとされる人物や集団をポピュリスト(: populist)と言う。

 

 

2024/04/04

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僕が今朝一番に読む本は、高井有一著「この国の空」新潮文庫・平成27年だ。

 

この本は、僕の特段のもので、要するに第二次世界大戦での、東京の空襲を書いている。僕は、この本が手放せない。

 

いつも持って、その小さな本が、どこかに行かないように(僕はものすごく本を持っているので)常に警戒をしている。

 

僕らの家が空襲で焼ける。

空から下を見れば(米軍のB29爆撃機)、僕の家など米粒の大きさもないだろう。

 

そこえ、パラパラと小気味よく、弾倉から爆弾を落としながら、ジミーは鼻歌を歌っていた、と僕は想像できる。

それが何が悪いと今の僕は思うが、当時は僕の頭の中は防空壕に逃げるのに一生懸命で、親の言うことを聞いて僕は、薄っくらい酢得た匂いのする防空壕に入る。すると僕は、夢のように何もない時間を過ごし、何が何やら、どうもB29は去っていったらしいと、大人が言っていて、僕らはゾロゾロと防空壕をでるのである。

 

周りを見回すと美しい野原がひろがり、千曲川が見える。

キラキラと、どこかに流れているらしい美しい姿は、僕の憧れとなる。近所で、蜂を追っていると、夜中に襲われて耳の中に入られ、寝ている僕に、ものすごい恐怖が僕を襲った。それでも僕は、学校に行かねばならず、僕の妄想は終わるのだ。

 

母が、隣の家の牛小屋の火事で、必死に家財道具を出すのを僕は、手伝いもせず、母も手伝ってという時間を惜しんで、火事から家財を守っていた。

 

 

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2024/04/03

僕は、いささか目が衰えて、メガネは結局四、五本、ないし個(メガネの数え方はこれでいいのか、わからない)持っているが、ともかく苦労しながら、僕は今、レザー・アスランを読んでいる。

 

出版したのが「文藝春秋社」なので、僕が父の代から、また僕の学生時代から信頼し愛読している、菊池寛創設の出版社のもので、書いた人がなんと1972年生まれのイラン人。

 

馴染みのない人で、イラン人の本を買ったのは初めてで、ともかくいまいち、キリスト教的信頼関係が僕にも成り立っていないが、ともかく買ったのはかなり前。それを今の僕の目が、若い時のようにしゃっきとしていない82の僕が、読み始めた。

 

本の題名は長く、「人類はなぜ神を生み出したのか❓」である。

出版は2020年で僕はすぐ買って読んだ。

 

ところが、これが難解で、クリスチャンの僕は心が乱れ、うまく読書処理できなかった。それを最近ふと本箱整理で、もう一度挑戦ということになり、たちまち虜になった。訳した方は、白須英子さん。

引っ掛かりの少ない見事な名訳である。

 

難しいのは本の初めの出だしだ。

その時は、論法が普通ではないと思った。以前は、それに引っ掛かり撤退していたが、最近は目が悪いので適当に飛ばし読みしている。すると、だんだんその真髄が、ただならない論法で形成されていると分かり始めた。

 

どちらにしても、出版社が文芸春秋社という、僕の絶対信頼する出版社なので、中央公論が廃刊した今、たった一つ、僕に残った月刊誌「文芸春秋」は僕のアイドルである。

これで、人生最後の楽しみを獲得し、人生を終わりたいと決心した。

僕は、さすが「文芸春秋社」だなと思った本であると、今朝は書いて嬉しい朝となったが、これは文芸春秋社のひっかけ広告ではないと、強調しておく。

 

僕も明治学院文学部出身なので、大いにプライドがあり、そんなせこいことはしない。まして八十二歳も本当である。

 

2024/04/01

僕がごく最近気づいたことは、思想的な意味の、自然主義と非自然主義である。

 

昨日、僕の学校明治学院の、ある地域の同窓会があった。

周辺は、遅くなっている桜がちらほらの公園で、集合者は20名弱か。僕は同窓会副会長ともっぱら話をして過ごし、飲み慣れない晴天の公園ビールで、いい気になりベラベラ喋り、副会長に迷惑をかけた。

僕は早々家に帰り、そこでこそ、先輩の島崎藤村やその友人の北村透谷を考えて、自然主義対非自然主義の本質的な問題に達し得たと感謝している。

あの頃の日本人は、いわば本物の自然主義者でまだ「江戸の人」なのである。神道も仏教も真正な自然主義宗教で、僕ら明治学院のキリスト教は反自然主義宗教である、という認識が僕に初めてできた。

 

この問題は意外に大きな問題で、未だ変わらない日本人の自然主義的風景が展開されている公園で、思いついたわけだ。この、思想的発想は明治学院同窓会のおかげである。要するにキリスト教ぐらい不自然な宗教はなく、いかにも人工的で凄まじいものであると僕は思う。

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この凄まじさは、僕が子供の頃から日曜学校に通い、その上明治学院にも10年通ったし、母がクリスチャンだったから、僕はそこにある西洋的な不自然主義に、長い間気づかなかったのである。

 

要は、僕は日本人でありながら、キリスト教徒的不自然主義者だったのである。それは僕が、わからないキリスト教の研究を、一生かけてやって、僕の一生だったと初めてわかった。

昨日の公園の同窓会花見で気がついたわけであるが僕は、同窓生には申し訳ないが、挨拶もせず途中でただただ家に帰り、いまさらながら、つくづく、キリスト教の「反自然主義」に驚き、藤村や透谷を偲んでいる。

 

2024/03/30

 


島田 清次郎


誕生


1899年2月26日

石川県石川郡美川町(現白山市


死没


1930年4月29日(31歳没)

東京都豊島区巣鴨にあった精神病院で死亡


墓地


美川墓地公苑(石川県白山市)


職業


小説家

   
   

最終学歴


野町小学校尋常科卒業

金沢第二中学校中退

明治学院普通部中退

金沢商業学校本科中退

   

代表作


『地上』


デビュー作


『死を超ゆる』

(青空文庫6章のごく一部を転載)

「しかし、これは学校ばかりではない。この人生、この地球がまた大きい一つの古臭いいじけた陰険な、啀み合いの絶えない球塊で あるのではないか? 自分もまた無数の生まれては死に生まれては死んだ人間のように自分の一生をこうした啀み合いをして終らな くてはならないのだろうか。そうだとは信じられない。どうしたって信じられない。せめては自分一人でもがこの人生を生き生きし た美しい悦びに充ちた人生であるようにしようとの意思を抱いてはならないのであろうか? それは出来ないことかも知れない。し かし出来ないことだとは言えまい。出来ることかも知れないではないか? そうです、出来ることです。きっと自分がやってみせま す。死んでもやってみせます――ああ」と彼は深碧の大空を仰いで、「やらして下さい」と何かに祈るように跪いた。「使命」の感 が彼に燃えたのである。 

ーーーーー

彼がこれを書き上げた時は、大正8年で二十歳の1919年、死ぬ前の10年前である。

これだけでは、いうまでもないが「島田清次郎」は理解できないのは言うまでもない。ただ、このごろ僕は、島田先輩を研究したいのである。

 

明治学院の100年史にも、かなり詳しく書かれているが、難しい人でその人生もただならない。

 

しかし、僕の経験から言って、若くしてあのような文章を書けると言うことは、一体何か興味が湧く。要するに才能のある古い日本人が、モロにキリスト教と出会う物語だと思う。小説としてでなく、一種の精神的記録本なのではないか。小説となってはいるが、フィクッションではないノンフィクッションであると僕は思う。

 

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意外なことが起こった。

 

突然、今朝僕は「藤原義江」の本を棚から取り出して読み出した。

「歌に生き恋に生き」(文藝春秋・藤原義江著・昭和42年・1967年)で、かなり前から持っている。

 

「藤原義江」などという人を、今の人が知るわけもないが、この人は女(おんな)名であるが立派な男で、有名なオペラ歌手である。

 

僕は明治学院のキャンバスで、学生の頃見かけたことがある。

学園祭の時で、誰か知らないが、この有名人を先輩としてご招待したのであろう。当時彼は、帝国ホテルを常宿にしていた。

ちらりと僕と目があったが、大した印象は残っていない。有名人の割に別に迫力がある人ではない、という印象である。

僕が最近書いている「武藤富男」も学院長だったので、会ったことがある。しかし、彼もその著書から感じる、凄まじい人生を感じなかった。彼の人生を今も「私と満州国」で読むが、その強烈な人生は本物の人物の感じとは全く乖離している。

藤原義江もそんな人で、特に世間の評判ほど強烈ではない。

 

そういう点で、書物とは恐ろしいもので、読む人や時代にによって、全然印象が違うというのが書物の実態であろう。

 

しかし当人(著者)と会ったことがあるというのは、独特の印象が形成され、その本を一段と面白くする。特に第二次世界大戦の戦争中の物語は、凄まじいとしか言いようのない日本人の、経験談として、非常に歴史的であるのはいうまでもない。

 

僕は、昨日ある人とコーヒー雑談をしたが、彼の父上が大日本帝国陸軍の最後の軍人で、彼の父上こそが士官学校の最後の人なのである。

彼とコーヒーを飲んで昔話をしていて、その影響で僕は、悲劇のテナー歌手、僕の先輩の「藤原義江」を読むことになった。

 

 


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今朝の毎日新聞朝刊一面。

その広告欄には「キリスト教思想史の諸時代」が出ていた。

 

いよいよ、金子晴勇氏著作集が大成し出版されたようだ。そこで氏をウィキする。僕より十歳も上で、すごい人である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金子 晴勇(かねこ はるお、1932年2月26日 - )は、日本倫理学者岡山大学聖学院大学名誉教授。専門はキリスト教思想史。

静岡県出身。京都大学文学部卒。1962年同大学院博士課程修了。立教大学助教授国立音楽大学音楽部、岡山大学文学部教授、75年「ルターの人間学」で京都大学より文学博士の学位を取得、76年同書で日本学士院賞受賞。1990年静岡大学教授。96年定年退官、聖学院大学教授。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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 僕の絵

 

しかし僕は、ほとほとキリスト教に疲れ果てている八十二歳。

 

購買心は動くが、いまさら先生の本を買う気はさらさらない。

先生は京都大学文学部の出身、僕が明治学院文学部の出身。比較にならないが、僕は学者ではない。ただのブログ物書きに過ぎない僕は、いまさらながら、同じ明治学院の法律学科出身の作家、松井浩章(HIROAKI)を読んで、感心している。

 

先日も電話をかけて嫌がられたが、彼の住んでいる熊本の家をネットで見ることができるので、それをのぞいて。彼の家を見て、そこがいかにも田舎らしい場所であると、分かった。

松井氏もきっと、僕の東京の住所を知っているから、僕の今の洒落たマンションの玄関入り口を見たことだろう。

どうも今は、こんなことができることが、実に鬱陶しい。

 

要するに外形にこだわる時代だ。

見えるので仕方がないが、外形がなんであるか。

 

僕は信州で10年過ごした幼児期を持っていて、そこは佐久市の中でも田舎だ。ただただ、懐かしい。

 

松井氏が進呈してくれた「極北の革命兵士」(2024年・熊日出版)の副題は「大逆事件と連合赤軍」で、氏の本から、連合赤軍が蜂起しようとしたのが実は佐久市だった知った時は、僕もびっくり、さもあらん。あそこは浅間の見える、一種の左翼農村地帯である。

 

僕は60年代安保に参加はしたが、過激派ではない。

しかし、外形はすごかったのか、その過激の沈めに現れたのが超天才と僕が呼ぶ、武藤富男。本来なら戦後、岸信介とともに混乱の日本民主政治を担ったはずの、旧帝大出の満州国高官の一人。岸と一緒に活躍した人である。

 

彼が院長として現れてのちは、僕は文学部だったのですっかり本読み青春に入り、せっせと教会に通い、主に「島崎藤村の研究」をしていた。

 

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北村透谷を「武藤富男」が読んだ、という痕跡の文献はない。

 

透谷が歩んだ道は、僕らの想像が及ばないほどキリスト教的で、透明で遮るものがない。それに比べ僕もキリスト教徒であるが、戦後、藤村の学校(明治学院)で10年も学んだくせに、長い間透谷を理解するにはいたらなかった。

 

透谷はその名の通り、有楽町の、美しい今なき川のほとりに生きた人で、渓谷美が彼の名の由来なのである。藤村がそこに寄り添い、彼と共に、青春の苦悩と肉欲との葛藤に生きたことは、いまだ僕らの実存の形式と変わるものではない。

 

もはや渓谷(けいこく)は消えて透谷が残り、彼の本(全集・岩波書店・昭和39年)三冊が僕の右にある。

 

僕はこれらの本を古本で買い、あまりにも高い精神にいささか食傷気味だ。

僕などは昭和16年生まれ、その年日本は戦争を本格的に始め、大日本帝国は塗炭の苦しみを国民にもたらした。空襲は、名作「君の名は」を世に送り出し、あの時の二人の恋が、敗戦で立ち尽くしなす術を全て失った僕ら日本人を元気づけた。

 

それが今の「有楽町」、透谷の生まれ育った場所、僕の藤村のいわば兄貴分が北村透谷である。

 

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武藤富男が政治家を諦める場面が、「私と満州国」(武藤富男著・文藝春秋・1988年)に描かれている。

 

相手は岸信介、いうまでもないが戦後最大の政治家との会話である。

 

別に岸が武藤を諦めさせたわけではない。岸が政治には金がかかるが、その金はしっかり浄化されたものでなければならない、と訓示した。武藤は推定すると、それはできないのではないか。少なくともそれはクリスチャンの自分には「できない」と、理論的にも直感的にも悟ったのであろう。

悟った場所は満州国政治中枢機関での話である。

 

戦後、岸が武藤に一緒に政治をやろうと誘った時、彼はそれを断り、敗戦日本でまず英会話学校を作り、教文館を建て直し、明治学院の院長になったのである、と知った。僕が明治学院大学の学生の頃の武藤は、そんな人物だというまでもないが、僕は全く知らなかった。

 

 

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我々(人類)が文字通り「呪縛」から自由であるなら、僕らはいたって平和に暮らせるだろう。

 

しかし、古代から続く呪縛は、人間知の発達以来いまだに我々を苦しめている。近代の知識の合理性は、我々からそれをカットしたと、近代社会に生きる我々も一時は錯覚したが、古代から続く呪縛が、僕は老人となり、それが人間の実態の中にしっかり根を下ろしていると思われるので、その呪縛の原始性は、そう簡単に我々から去ってはくれないのであろう。

 

至って不合理な部分がある人間の生命は(知識はその一部に過ぎない)、その不合理故に、いまだ戦争状態が世界に続き、言うまでもなくウクライナロシア間には戦争が起こり、相変わらずアラブ民族とイスラエル民族は、悲惨な殺し合いを「合理的」な説明でカバーしながら、戦闘を継続している。

 

せっかくの汗の結晶である、多くの高層マンションは無惨に破壊され、その無様な爆撃後の姿は、僕などが若い時に考えさせられた第二次世界大戦の惨禍(核爆発)の結論と、たいしてかわるものではない。

あの時子供だった僕は今八十二歳、1941年生まれたが、生まれて1ヶ月後に、大日本帝国はアメリカに宣戦布告もせずに、真珠湾を攻撃したらしい、と後で知った。

その戦争理解は、どうも戦勝国アメリカの捏造が大きく作用したらしいが、敗戦国の日本に、その歴史的事実の異論がそう簡単には許されなかった、のではないかと僕は最近思っている。

太平洋戦争という歴史的事件の原因が重層階に重なって、簡単には解き明かせるものではないが、ただしその根本理由は、人間の不合理性にあると僕はこの頃思っている。不合理性(合理的説明が不可能なもの)をこのように合理化するだけでは当然済むものではないが、年齢を重ねると少し頭が緩くなるので、こうなるのかもしれないのは、やはり人間には引退が必要なのであろう。

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生と死は、生物万般の運命であるが、人間のそれだけは一番厄介な世界の大問題なのであろう。僕もやっと今朝から、マックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫・1989年改訳第1刷・大塚久雄訳)に立ち返り、それを読み直している。

 

 

ところで、「生と死」の運命のもとにある我々に、果たして自己主権は存在するのだろうか、という命題が僕を襲った。僕らの自己主権は実は「生」にのみあるもので、「死」にあるものではないのではないか。こういった考えは、最近僕に出てきたもので、自己主権とは生の主権であって、自己の死には及ぶものではない、と感じ始めた。この生と死という全く次元の違うものを、並べていかにも重要なものと扱うのは、僕らの間違いではないかと思うのである。要するに死と生は全く別物で、同一次元で語ってはいけないのではないかと思ったのである。いうまでもなく生は死ではない。これは状態の問題であるが、しかし生物は死を含む、あるいは死を予定された生き物で、生である時にも、実は死を持って生きていると解釈する必要があるので、あるかと僕は不安になった。しかし、死ぬことはわかっていても死んでいるわけではない。しかし、死ぬことは予定されている、とすれば、死は予定にすぎないのではないか。僕らは友達と気楽に約束をする。どこで会うとか、どこでコーヒーでも飲もうや、とか約束は生的である。死は考えられていない。が、死が内在する人間性は、約束がその死によって、破られる可能性があることも確かである。

こういった考えは、僕が八十二歳の老人であるから、至って平凡な考えであり、常識の域をでない論理なのであるが、これを哲学に置き換えると、そう簡単でないのはいうまでもない。

 

 

 

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全面講和をなし、最も理想的に言えば「永世中立」をか ちとり、そうでなくとも、「中立」をかちとるべきでしたと書いたのは、武藤富男で、僕の明治学院大学の院長である。

この旧制帝大法学部の天才が、明治学院に現れたのは1960年であると思う。僕が安保反対闘争に参加した後の話で、学生の僕はそれほどの意味は感じなかった。

僕は明治学院に中学から入り、高校も明治学院、いわば10年を通した学生なのである。明治学院は別に10年学校ではないが、10年その学校に居続けるのは容易ではない、月謝が高いからである。よく僕の親も頑張ったもので、その上弟も中学高校とやらしてもらい、日大の理工学部に抜けていった。

 

これからの文章は全て、武藤の文章のほんの一部で、「再軍備を憤る」から転載している、ぜひ読んでもらいたい。

 

彼がいかに戦後、勝利者としての連合軍と全面講和を望んでいたかがわかるもので、「天才」と彼のことを言うのは、「八十二歳の僕」がここにこそ、彼の天才的先見性を感じるからだと強く思うからである。

 

全面講和を主張するため、占領が二年や三年のびても、日本の頑張りが原因をなして米ソ両國の歩みよりによって世界平和が成立すれば、 それこそ日本のためばかりでなく、全世界のためにどんなに仕合せかわかりません。 地上だけでなく、天にての喜びは大いなりです。

 

しかし何年待つても全面講和が出来ない時はどうなるでし よう。

それは第三次大戦が始まることを意味します 。

ポツダム宣言によって連 合軍が日本を占領中に米ツが戦争を始めたらどうなるでしよう 。 その時は極東委員会も対日理事会もなくなり連合軍総司令官は存在しなく なりますから、日本の主権は従属する相手がなくなり 、自動的に回復し、 日本は完全な自主独立となるのです 。 そして完全な主権をもつ国として旧交戦国と講和をなし得るのです。

 

こういうことを言うのは既に手おくれかも知れませんが、最善と信ず ることをトコトンまで考えつめて言ってしまうことは、日本民族の將末のためになると思いますから、私の考えを述べさせて頂いたわけです 。もし今度の條約調印の間違いが政治家にも大衆にもよくわかり 、 それが批准に対する「 ノ ー 」となつて現われれば幸です 。 しかし不幸にして二つの僚約が今のまんの状態に於て批准さ、、(以下次回)

 

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僕が「武藤富男」や「三島由紀夫」を書いていると、自分までおかしくなるが、幸いに僕は非才、武藤や三島とは比べ物にならないから、腹まで切るような度胸はない。

 

それでだけでなく、僕は無教会主義のクリスチャン。今や「教会」を放棄しているが、他意はなく、ただ日曜日ごとに面倒なクリスチャンの真似事をする気はない。

 

洗礼を受けたのは明治学院高校のころ。

今もクリスチャンだと自分では思っているが、教会に行かないクリスチャンだ。日曜日、10時ごろから毎週教会に行くほど、僕はお人よしではない。教会に行かなくなってからすでに二、三十年は経っている。

 

それまでは明治学院中、高、大学文学部から日活など経て、建築設計事務所を卒業し、年金積み時代のかなりの後半で、教会を離れられた。今日の毎日新聞川柳「ノアがまた 方舟作って いるらしい」は、作者は僕のこのブログを読んでいる人ではないかと疑っている。

 

別にいいのであるが、あまりキリスト教などは書かない方がいいのではないか。

 

で、武藤富男は明治学院の僕の学生時代の院長で、かつて満州国で高官をしていた人。三島と同じ旧帝国大学法学部の出身だ。直に少し口を聞いたこともある。

 

ところで、このあたりをアカデミックに書いたのが、中島耕二さん、「近代日本の外交と宣教師」2012年刊行・吉川弘文館出版という権威ある本である。

中島さんは1947年生まれ、僕より若い人だが、ともに明治学院大学の出身で、一度お目にかかりたいものである。

ともかくいい本であると絶賛したい。

 

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(再び・ネットからコピー)

古代ローマのタシタスは、その 時代の八十数年間に渡る現代史を書いた。そして、史学に新生面を開いた。「 満 洲 史 」 は 、 生 き た 国 家 の 興 亡 史 で あ る 。 満 洲 史 は 小 説 以 上 の ロ マ ン ス で も あ る。 個 人 心 理 と 民 族 心理、経済機構と侵略主義、智課と野心、情然と聖済が織りまじり、日本の滅亡の大事な中幕と成った。

私は、この生きた歴史の側面をよく知っている友人武藤富 男氏に促して、彼の記憶のまだ生々しい間に、善いことも悪いことも悉く気の附くままに書き残しておいて欲 しいと要求した。そして彼は多忙な、時間の無いその中を、彼の劇的な観察 で、満洲史の断面を画き出してくれた。彼は正直に、世界史 的 視 野 に 立 ち 、 日 本 の 敗北 史 の 一 断 面 を 画 き 出 す 意 味 に 於 て 、 満 洲 史 の 一 側 面 を 画 い て く れ た 。この生きた歴史を喜ぶ人もあろうが彼 と共に悲しむ人もあろう。だが、既に下った神の審判の前に、私 は襟を正 してこの書を再読静思するものである。私は旧約聖書の歴代史略の続備と、新約黙示録の現代版を一緒に読む気持で、この書を赤々しくおし頂く ものである。一九五六・七・二八・賀川豊彦(満州国の断面・武藤富男著・序文から転載)

 

次は、「再軍備を憤る」武藤富男著・昭和26年、の一部のコピーです。武藤富男は、僕の明治学院の学生時代の院長で、旧制東京帝国大学法学部出身の天才で、小説家三島由紀夫の先輩です。

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(以下本文一部著者訂正推敲)

結成問題で時の商工大臣岸信介は私に向つて「裸にすれば東條は橋欣(人名の省略)以下さ」と言つた言葉を、私は今でも覚えています。

 

岸信介の評徴によれば、東條英機は能力や知性に於て橋本欣五郎以下だったようです。 私は橋本欣五郎とは二 度しか話したことがないので 、 残念ながらこの両者を比較する資格がありません。

しかし私は、東條の絞首刑を向う側から見ずに、こちら側から見て來ま した 。みんなが向う側にいて、縛られた東條に鞭を加え、死刑とな って散らされてしまつた彼の屍をはずかしめている時 、 私はジッとこちら側から見ていたのです。

そしてこちら側から見た後、一段高いところに立つてもう一度、絞首刑の意味を考えてみたのです。それを皆さんに語りたいと思います。しかし順序として私は東條とどの程度開係があつたかを先ず告白しま しょう 。

 

昭和十二 年の春でした。私(私の明治学院時代の院長武藤富男)が、満洲國政府の法制局参事官であつた時、私は人を介して東條勝子夫人から国防婦入会の歌を作ることを頼まれました。

 

 或る夕方その歌のことで彼の官邸(満州の) で、 私が夫人と話 して いた時 、和服を着た彼は孫を抱いて現れ、私が立つて挨拶するや、にとッと微笑して私に会釈しました。それが彼との初對面で した 。彼が第一次近衛内閣の陸軍次官となつて新京を発つ時、私も日満官僚の後から、、、、(以下略)。

 

 

「辻政信政がえがいた波紋」を書き始める、明治学院院長武藤富男は僕の学生時代の院長で、僕も少し話したことがある。

 

その彼が、「満州国の断面・甘粕正彦の生涯」を描いたのは、昭和31年1956年だから、僕が明治学院高校の頃だと思う。その本の「大達茂雄関東軍と衝突す ること」の中の、「甘粕正彦 協和会に現われること」のごく一部をご紹介しよう。

 

「 人殺しが 、 満洲国の政治に関係するとは何といういやなことであ ろう」と私は思った。

(時は)満州暦康徳四年 (昭和十二年)四月、甘粕正彦が満洲帝国協和 会の総務部長として乗りこんで来たというニュースが伝わったのである。その時分、私(武藤富男)は、国務院法制処(法制局)の参事官をしていた。

 

話は前にもどるが、 前の年の十二月十日の午後 、 新建築が出来上っ たばかりの国務院庁舎の三階廊下を、企画処に向って歩いていると、総務庁長(総務長官)大達茂雄 が、ズボンのポケットに両手を入れて、 にこにこしながら反対側からやって来た。 何処へ行くかというから企 画処の会議へと答えると 、

「会議はさぼってしまいなさい、官邸に行って碁を打とう」と言う。そこで大達に連れられて長官官邸に行った。

 

官邸は落成が済んだばかりで、結構調度は豪勢なものであった。引越して間もない大達は私を案内して各部屋を示し、「どうです、立派なものでしょう。こういうところに入りたいとあなたは思いませんか、、、。(こここそ、満州国のどまん真ん中の、東京帝大での天才日本人官僚だと思って、もう一度読むと、ぐっと興が湧きます。きっと満州が好きになるでしょう。)

 

Wikiで「辻政信」をサービスで転載しておきます。

辻 政信(つじ まさのぶ、1902年明治35年)10月11日 - 1961年昭和36年)以降消息不明)は、日本陸軍軍人政治家陸士36期首席・陸大43期恩賜。軍人としての最終階級陸軍大佐ノモンハン事件太平洋戦争中のマレー作戦ポートモレスビー作戦ガダルカナル島の戦いなどを参謀として指導した。 軍事作戦指導では「作戦の神様」「軍の神様」と讃えられた。その一方で、非人道的残虐事件を巻き起こした指揮系統を無視した現場での独善的な指導[5]、部下への責任押し付け、自決の強要、戦後の戦犯追及からの逃亡などについて批判がある[。敗戦後は数年間を国内外で潜伏したのち戦記を上梓し、ベストセラーとなった。反共、反米、自衛独立を唱える政治団体の自衛同盟を結成後に、政治家に転身し衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任した。参議院議員在任中の1961年(昭和36年)4月に視察先のラオスジャール平原で行方不明となり、1968年(昭和43年)7月20日に死亡宣告がなされた。

 

 

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以下、僕の学生時代の、明治学院院長武藤富男の本の序文の部分を転載している。

 

古代ローマのタシタスは、その 時代の八十数年間に渡る現代史を書いた。そして、史学に新生面を開いた。「 満 洲 史 」 は 、 生 き た 国 家 の 興 亡 史 で あ る 。 満 洲 史 は 小 説 以 上 の ロ マ ン ス で も あ る。 個 人 心 理 と 民 族 心理、経済機構と侵略主義、知謀と野心、情然と聖済が織りまじり、日本の滅亡の大事な中幕と成った。私は、この生きた歴史の側面をよく知っている友人武藤富 男氏に促して、彼の記憶のまだ生々しい間に、善いことも悪いことも悉く気の附くままに書き残しておいて欲 しいと要求した。そして彼は多忙な、時間の無いその中を、彼の劇的な観察 で、満洲史の断面を画き出してくれた。彼は正直に、世界史 的 視 野 に 立 ち 、 日 本 の 敗北 史 の 一 断 面 を 画 き 出 す 意 味 に 於 て 、 満 洲 史 の 一 側 面 を 画 い て く れ た 。この生きた歴史を喜ぶ人もあろうが彼 と共に悲しむ人もあろう。だが、既に下った神の審判の前に、私 は襟を正 してこの書を再読静思するものである。私は旧約聖書の歴代史略の続備と、新約黙示録の現代版を一緒に読む気持で、この書を赤々しくおし頂く ものである。

一九五六・七・二八

 

そこで僕は、三島由紀夫の小説「鏡子の家」新潮文庫・昭和39年初版を読み始めた。そこには、同じような時期の「1954年」の風景がある。

書き出されたその頃の月島は、まだ勝鬨橋が上がるもので、いうまでもないが今は上がらずの勝鬨橋、バンザイのない時代である。

 

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僕と同じ歳の英才を紹介したい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石浜 みかる(いしはまみかる、女性、1941年- )は、日本のノンフィクション作家翻訳家神奈川県藤沢市在住。

人物

神戸市生まれ。戦時中、キリスト教を信仰していた父親が治安維持法違反で投獄された経験を持つ。

1965年神戸女学院大学卒。在学中イスラエルを訪れキブツに暮らす。卒業後は出版社勤務、英語教師、専門学校教師などのかたわら文筆活動を行う。

1966年当時映画監督高橋治と結婚、二児を儲ける。子は文月涼。

著書

  • 『シャローム(こんにちは)イスラエル』(オリオン社) 1965
  • 『まだ見ぬあなた』(オリオン出版社) 1968、のち角川文庫
  • 『カリフォルニアの素敵な学校』(新潮社) 1982、のち文庫
  • 『七転八倒ああ子ども』(弥生書房) 1985
  • 『ひかり輝く季節に』(国土社、青春ノート) 1985
  • 『あの戦争のなかにぼくもいた』(国土社、ベスト・セレクション) 1992
  • 『紅葉の影に ある牧師の戦時下の軌跡』(日本基督教団出版局) 1999
  • 「父から聞いた原爆の話 - 広島刑務所で被曝して」(女子パウロ会編、『原子野からの旅立ち』) 2005
  • 『変わっていくこの国で 戦争期を生きたキリスト者たち』(日本基督教団出版局) 2007

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「再軍備を憤る」武藤富男著は凄まじい形相である。

 

彼は、僕の明治学院の学生だった時の院長。

 

恐るべき歴史的人物、天才である。

と、僕は描くのに精一杯。

今朝の毎日新聞朝刊一面トップ「戦闘機輸出自公が合意」とある。何をか言わんや。五〇十年かけてやはり、日本も元の木阿弥か、何をか言わんや。但し、AIは戦争を選ばず、平和を選択するようにプログラミングされている、に希望を繋いで。「平和」こそ、人間の努力の絶対目標である。

三島由紀夫の小説「宴のあと」は、明治学院のごく近くの般若園という料亭が舞台。僕の院長、武藤富男もそこに行った。三島が切腹したのは、僕が結婚をした頃の出来事。

僕は歴史の証人となったのか、どうかわからないが八十二歳だーーーー。僕らの院長武藤富男も帝大法学部、三島も同じだ。ともかく秀才のやることは桁違いだと、言わざるを得ない。

 

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三島由紀夫「宴のあと」は、僕の妄想の圧巻で、それを読むととても僕などでは、いくら明治学院の文学部で勉強した僕でも、小説を書けるわけがないと思う。宴のあとは、明治学院の前あたりにあった、料亭「般若苑」が舞台である。今は壊されてない。

 

僕は明治学院を卒業すると、映画会社日活に就職した。

この会社も今は亡きに等しく一部再上場を果たせないまま、存在はしているが、昔の面影はない。僕は日活に就職し、行ってくれと言われたところが天城日活ホテル、要するに映画ではない。

 

この辺りが僕の人生のミスで、僕はホテルマンになった。

そこは当時、片田舎のホテルで、名称は「天城日活ホテル」と言った。それもすでになく、それでも周辺のゴルフ場だけは残り、今は別の人が経営している。

 

これを、三島小説と同じく、「宴のあと」と名づければ、これに勝るネーミングはない。昔ついでにいうと、三島の小説「宴のあと」には、古い手紙(恋文)が描いてある。その圧巻は「候」文で、ごく一部を書いてみよう。

「1日も早き、又のお目もじを生甲斐にいたしおり候。かしこ、で、これは女性の手紙、男のようであるから、帰って色気がある。実に素晴らしい、僕はさらに三島の本「鏡子の家」をAmazonで買った。

 

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時間というものは恐ろしいものである、と82の僕はこの頃感じる。

つくづく、というのが実感で、しみじみではない。

 

僕は明治学院の、ある支部の同窓会の誘いを断った。

一度は出席しようと思ったが、中止したのは僕が昔の幻想を語ると「きり」がなくなり、その会合に水をさすと思ったからである。三島由紀夫だの武藤富男だのを出すに決まっている、これが僕の必然で。今の人には、なんのことやらさっぱりわからないであろうと推定がつくようになった。いい爺さんが決して、でかい顔をして顔を出すのではないが、あまりに年上では、そう思われても仕方がない、と悟った。

 

その代わり僕の自己主張には、このブログがある。

 

今や誰も読まないが構うことはない、僕だけの世界をこうやって書いているのである。「勝手にしやがれ文章」を読む人はいないが、僕は書くぞ、自分の金を使い、勝手なことを書く。

ますますなんの役にも立たないが、書く書き続ける。僕は明治学院大学文学部の出身で、明治学院には中学生の時から10年も世話になった。その大学の時の院長が「武藤富男」、この人を描くのは彼が天才だからである。僕はこの天才と一度だけ口を聞いたことがある、ただし僕はその時何にも感じなかった。

 

 

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盗聴告発教授の解雇は「無効」、改めて問われる明学の体質祖父ネット注・明学とは明治学院のこと

『日刊ゲンダイ』(2018年7月4日)

 

盗聴告発教授の解雇は「無効」 改めて問われる明学の体質

 

 明治学院大学が揺れている。大学当局が教授に無断で授業を録音し、それを告発した教授が解雇され、その無効を争った裁判の判決が先月28日に下された。東京地裁は「教授の解雇は無効である」と判断した。
 3日、原告の寄川条路教授と太期宗平弁護士、法学者の小林節慶大名誉教授が司法記者クラブで会見を行った。
 寄川教授の担当は倫理学。盗聴が行われたのは、2015年4月の授業で、300人の学生を相手に行われたものだった。
 寄川教授によると明治学院大学では大学組織を守るために、授業の盗聴が慣例として行われており、今回とは別の教員も授業を盗聴されて解雇されたという。
 大学に批判的な教員を選別して盗聴している可能性が高い。小林氏はこう言う。
「学者は個性的で、それをお互いに許容し合って、歴史のなかで評価が定まってくるもの。個性を尊重しない多数決で押さえ込もうということが日本中で起きている」
 大学側は判決について同日付の文書で、解雇理由は録音を告発したことではなく、原告の「不適切な言動」と説明。具体的な内容については、係争中の事柄につきコメントを控えるとし、控訴を予定している。
 学問の自由がどこまで守られるのか注目が集まる。



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僕のような1941年生まれのものが、一番苦しんだのはいうまでもなく太平洋戦争である。

 

僕は全く戦後の中、高、大が明治学院で、そこはいわば名だたるミッションスクールだから、60年代に文学部にいた僕は、知らず知らず大変な思想的文学的経験をしなければならなかった、のだと最近やっと気づいた。

 

そのきっかけは、前々から研究している、三島由紀夫の「宴のあと」という小説で。

読み切ろうと思い何度も挑戦している作品ではあるが、全く歯が立たなかった苦い経験がある。そのうち、三島の割腹事件があり、それを理解することはまさに至難の業だった。

 

今それを読みなおし、少しわかりかけている。

 

 

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「私と満州国」の著者武藤富男が、最近こんなにも自分に訴えてくるとは驚きである。

 

武藤は、僕が明治学院の学生時の院長で、旧帝大出の秀才だった。

 

戦後政治を担った岸信介が、敗戦時「武藤君、お国のために一緒にやらないか」と、彼を誘った。武藤はキリスト教界に行きたいので、と政治を断った。60年安保が終わった時で、武藤は掃き溜めに鶴のように、そこに降り立った。太宰治の娘治子も明治学院で、僕とほぼ同じ頃の人。治子は多分武藤と院長にわざわざ呼ばれ、とどこかに書いてあったと思う。太田をwikiで、太田 治子(おおた はるこ、1947年11月12日 - )は、日本作家神奈川県小田原市生まれ[1]日本ペンクラブ会員。

経歴

父は太宰治、母は太宰の代表作「斜陽」の主人公「かず子」のモデルとなった太田静子[1][2]。当時妻子のいた太宰は文学を志す静子との関係が生じ、生まれてきた娘に、「治」の一字を与えて認知した[要出典]。翌年、太宰は玉川上水で自殺し、以後は炊事婦や寮母など働きづめで生計を立ててくれた静子や静子の兄弟らの愛情・支援のもと育つ[要出典]。私立青葉女子学園高等学校[3](東京都世田谷区世田谷。1988年頃に廃校)を経て明治学院大学文学部(英米文学)卒業[1]

1967年、紀行文『津軽』で婦人公論読者賞を受賞[4]。その後刊行した『手記』は、吉永小百合主演でラジオ化、映画化された(『斜陽のおもかげ』)。1972年、110枚の小説「私のハムレット」を『新潮』に載せたが、一行の批評も出なかった(『心映えの記』)。

幼い頃から静子の影響で絵画に親しみ、それが元で1976年からNHK『日曜美術館』の初代アシスタントを3年間務める[1]。美術に造詣が深く、多くの美術書やエッセイ、フィクションを著する。 

1982年11月24日、母・静子が死去(享年69)。1986年、母の思い出をつづった『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞受賞[1][5]。同作品で、直木賞の候補にもなった[6]

私生活では長く独身を通していたが、これは太田自身の出生の経緯や母・静子の肝臓癌発覚による看護・死去による[要出典]。30代後半に編集者である知人の紹介で見合い結婚をし、1987年に女児(万里子)を出産したが2004年に離婚[要出典]。これに伴い、現在は文筆業を中心に再び盛んに活動している。

 

 

 

 

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「満州」というかつての大国家が消えたのは、第二次世界大戦終了後である。

 

この消えた国家を盛んに研究してみたが、いまいちわからなかった。

 

1941年の生まれの僕には、とてもわかるような話ではなかったのである。とはいえ、僕はこの話から結局離れられない。その理由は、少しだけ最近になって、その実体が、敗戦で日本の植民地が消えたためで、その日本史の実感が、八十二歳の僕にもわからないからである、とわかりかけてきた。

 

この満州問題は、僕のような歳のものもこんな実態だから、若い人にわかるわけはない、と思っている。満州は単純な歴史ではない。しかし、僕には一人だけ、この不明な実態をつなぐ人物がいる。それが、武藤富男だ。

 

僕はこの人と大学時代言葉を交わしたことがある。

僕らの明治学院大学の院長だったからである。それは60年安保闘争の後で、僕は大した参加者ではないが、一応それに積極的に参加していた。

それが終わり、学園に一種の虚脱感が流れていた。その時に、忽然と現れたのが、武藤である。

僕と同じ小柄で、おとなしい人だというのが、第一印象である。その時の僕の話が、あまりにもつまらないもので、僕は今も恥じているがなんとも幼い思い出である。とはいえ、話したことは確かで、その後僕はやっと卒業し、映画会社日活にホテルマンとして就職した。

この辺りも僕は間が抜けているが、映画はもちろん全盛とはいえ、もはや全盛期は過ぎて衰退していく産業だった。だから、映画会社の日活は持っているホテルで、会社を盛り立てていこうという時代なのだ。ところが僕は、これが理解できなかった。僕は一年で日活を辞めてしまった。少々の義理があるのに、若い僕は平然と退職したのである。

 

当時日活には、植民地国家満州からいわば逃げてきた映画人がいっぱいいた。

映画人の満州からの逃避は必死で、新たな日本の再興のために、闇雲に働いた人たちであったとは、僕は知らなかった。

 

僕は、僕らの院長武藤富男の著書「私と満州国」をもう一度真剣に読むつもりで、古書をAmazonに申し込んだ。今は至って安い本になっている。しかし僕にとってはさらなる大切な本だと心から思って、真剣に今度は読むつもりでいる。

 

 

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今日は、お雛様という節目、季節や人生の分岐点である。

 

色々な変化がある。

 

この現在の時間(6時半ごろ)のマックワープロベースは、白に変化している、という経験も初めて。考えてみると、僕がこのブログ本を書いているときは、夜中の四時から五時にかけてが多い。だから、このマック原稿がいつもなんと「真っ黒」ベース。気分のいいものではないが、考えてみると早朝も早朝から、バカな原稿を書くなどというのは、いかにも老人的で若々しくない。

昔の原稿書きで飯を食った人には、あるいはいるかもしれないが、今の若いものが、こんな早くから起きて原稿を書くなどとは、要は昼間寝ている原稿書きなのであろう。いかにも贅沢だが、異常であるから、いい原稿など書けるわけもない、と僕は思う。がどっこい、僕が寝るのは、おおむね午後七時半だから、早く起きられるという理由だ。夜のテレビ番組など観たこともない、という爺ちゃんである。なんとかNHKのニュースを見るのが習慣で、女房は面倒くさがるのも当然で。昼間、早くからどんどんニュースだけはちゃんとみて、本を読んでいるから呆れた話なのである。女房はいよいやそれに付き合ってくれている。これで、この老人、ちゃんと健康も維持している。

 

昨日読んでいたものは、佐木隆三氏の「小説大逆事件」と水上勉氏の「古川力作の生涯」だから、中身は同じものでも水上氏が書くと、女が色っぽすぎて、スケベー極まりない。その人が、売るために「菅野菅子」を書くので、書き過ぎであると二度読みの僕などは、思う。

二人ともすでに死んでいるが、今生きていたらきっと「杉山くん、これが僕らの時代の女の書き方さ」などと嘯くに違いない。

僕は若い時に読んだのであるが、全然そんなふうに感じなかった。僕が、古川力作が住んだ滝野川に住んでいる頃なので、その辺りを観察して一人悦に入っていたという、若い時の思いでである。

 

今はそれが、二人とも死んで僕が生き残り、それも八十二歳でしばらで死ぬことになるが、あの大事件(明治・大逆事件)で人など一人も殺していないのが犯人たちで、ただ軽率な明治的大言壮語は時代の流れの大言壮語。で、政府(権力)が緊張のあまり、さっさと犯人を、はじめは二十四人死刑、恩赦して十二人を柱にぶら下げてしまったのは、日本史の中の、権力政治の明確な人権侵害事件の法的横暴として、永遠に日本史に残すべき事件であると、思う。

 

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「第一回日青協日中友好青年の船第十三班記録」(1976年・昭和51年11月7日、を僕が書いたのは、70年代後半ということになる。

僕は1971年に結婚したので、まだ新婚気分の抜けない時だと今はわかる。船名は耀華号10000トンの豪華船、船籍は中華人民共和国。当時の読売新聞は(昭和51年9月9日)、読売の8日夕刊8面に出た、僕が帰国後に見たもので1日ずれている。妻が読んだ新聞である。

 

記事は、「訪中友好の船出発・四百五十三人の勤労者青年乗せて」が見出しである。僕もその中にいるが、会社員三十五歳男子となっていて、どうも余計なことも書いてあって、これは書けない。

十三班は19名、大体東京出身者で占められていた。

ざっと予定を書くと次のようになる。箇条書きは長くなるので、適当に書くと、結団式9・7。

8日晴海埠頭出発、9日神戸港、10日神戸港・毛沢東主席他界・台風十七号接近、11日神戸港、12日神戸港、13日神戸港出港、14日洋上、15日洋上、16日大連港着・毛沢東弔問式参列、中国本土滞在、帰国の途につく。9月24日洋上お別れ会、25日解団式、神戸港解散。

 

と、なんとすごい中国旅行になった。

今は中国旅行など書いても仕方がないほど、平凡極まりないが、上の日程はまさにスリリングの連続だった。そんな中、僕は、「秘録・大観園の解剖」を、国会図書館デジタルで少しづつ読む。

すごいとしか、言いようがない。若い時にも読んで入るが、まだまだ未熟だった。

老年で読むと、中国旅行と大観園とが連動し、いかに中国の歴史が悲劇的だったか、とわかるには、おおむね50年の歳月が僕にも必要だったと思っている。

毛沢東がいかに偉大であったかも、わかる。単なるイデオロギーだけの問題ではない。中国問題は、人間問題であると思う。

 

 

 

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この書籍という位置付けの、僕の「妄想街道」の原稿を書いていて不快なのは、このマック自体で。

 

原稿は、黒い紙の上に白い字で書くという、嫌な環境が押し付けられているということである。それでも我慢していると、いつかは白い紙の上に黒い字で書くという自動化が働くが、どうも納得できない。

 

要するに朝が早いので、六時は画面は黒いのか、まだ暗い外を暗示している画面であるか、どうか。余計なおせっかいであるが、我慢して書いている。書いているといつの間に黒い紙(画面のこと)は、白くなって、いわゆる普通の紙に書いているらしい気分になるが、ともかく余計なことであると言っておく。

 

が、しかし。

紙が黒いということは僕の誤解で、早朝の五時は真っ暗な夜なので、マックの紙(画面)も黒い紙になり、ワープロの字などは白で表現されるという、マックの粋な計らいだと、知る今は朝の八時七分。つまり、普通に戻っている現在である、オドロイタ。

 

僕が黒い紙に白い字で書いたのは、林房雄の「大東亜戦争・肯定論」(中公文庫)で、この本は実に難しく、昔の初版の頃一生懸命読んだ、が、全然歯が立たなかった。

再度僕は、僕自身が八十二歳でも、1941年11月2日生まれの僕は、太平洋戦争1ヶ月前に生まれているので、ますます読書ファイトが刺激されるのは、やむを得ない。

 

ガラリと余計を書くと、この下の人が僕の明治学院中学校の音楽の教師です。などと言わざるを得ない。

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小泉 洽
コイズミ ヒロシ

昭和期の音楽学者

生年明治27(1894)年5月24日

没年昭和46(1971)年12月2日

出生地神奈川県横浜市

学歴〔年〕同志社大学神学部〔大正10年〕卒

経歴東京女子音楽学校、帝国女子専門学校、明治学院専門学校各教授を歴任。在学中から神学研究の傍ら音楽美学を中心に広く音楽の研究に没頭、また雑誌「音楽界」「音楽評論」などを編集、後年中世音楽の研究に専心した。著書に「楽典十講」「新音楽文化」「聴覚教育の新研究」「音楽辞典」「現代音楽の主潮」などがある。

 

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島崎藤村

いよいよ「幻想街道」も、僕の意識の中で本格的な出発をしている。

 

僕のそれを、ブログ祖父ネットの中で発酵させていると、左腕に痛みが出た。要するにワープロのやりすぎである。

 

痛みが出るほどやっているとは思えないが、痛いことは痛い。とその根拠を医者に指摘されてみると、なるほどそれに違いない、いわば名誉の負傷だ。そこまでして書いても仕方がないが、と思いつつ老人の「妄想」は膨らむばかり。

 

自分の頭の中に、次々に湧き上がる思い出に過ぎないが、昨日も赤坂離宮の宮殿を見学し、終わって地下別棟のコーヒーを飲みながら、妻の提案で見学した赤坂離宮の建築的豪華に驚くしかなかった。

何度も塀の外からは見ているものの、中に入ったのは初めて。これ以上の妄想はない。

 

僕の父は、戦前の宮内省旧匠寮で働いた人だ。多分、当時の赤坂離宮には関わっている。

 

第二次世界大戦以前の話で、匠寮とはわかりやすくいえば営繕課である。あまり深く僕に話さなかったのは、戦後意識に汚染された息子の僕は、戦後の反皇室派になっていたからで。父もそんな息子の気持ちを批判することは全くなかったが、戦前と戦後はそれほど隔絶していたからで、言っても無駄だと諦めていたのであろう。

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左は高校の時の教師、伊藤虎丸のもの、右は僕ら教会青年が作った「永遠の生命」

と僕は気がついて、唖然として帰宅した。

家に帰ってしばらくして、佐木隆三「小説大逆事件」を読んでみた。

昔から僕は大逆事件を研究している。それこそ、高校の頃の先輩に、その事件の関係者の師弟がいたと言いう時代だ。今更ながら読むと、僕の心は本当に暗くなるが、仕方がない。決して明るい話ではないのである。

 

僕の結婚のお見合いの相手(現在の妻)を紹介してくれたのが、大逆事件の関係者の人で、Fさんは新宮の出身である。僕はおばさんと呼んでいて、頻繁にFさんの軽井沢の隠れ里を訪問したものだ。

 

今の星野温泉のそばで、そこは今ではいたって懐かしい場所である。

 

 

 

「幻想街道」という題名は、文字通りであるが、その実体は僕の「本箱」にある。

なぜかといえば、僕の本箱にある本の大半、九分九厘はすでに死んだ人の著作であるからだ。

 

聖書などは、数千年も昔の古い事で、などというまでもないが。結局そこに帰結していく、が、それこそが僕の「幻想街道」の原点であり終点でもある。

 

それに比べれば、僕の学校の先輩島崎藤村の小説、「夜明け前」など、ごくごく新しいのもので、最近である、と、僕などは思う歳(八十二歳)である。つまり人生時間がなくなると、僕は冥界を彷徨う様ように、自分の本箱の死んだ人の本に囲まれて、未だ四苦八苦である。

 

しかし、その中でも数冊、生きている人の本がある。

その代表が松井浩章氏の本で、最近彼から寄贈された「極北の革命兵士」を読んでいる。

 

万難を排し読んでいるが、これが大逆事件と連合赤軍の問題。

どちらかというと、大逆事件は僕の得意分野。しかし、連合赤軍はどうも僕の手に負えないが、僕が結婚後すぐにあった事件。当時は僕も真面目で真剣な生活者として、夢中で社会で生きていた頃を思い出した。

 

新婚家庭は千葉北小金、新妻は目黒から一歩も出たことのない戦後派(団塊の世代)だった。

 

僕は逆で、ともかく彷徨い人。

僕が生まれてすぐ1ヶ月後、大日本帝国は真珠湾を奇襲した。住むところの定まらない、明日のない戦争時代だ。それからの4、5年、日本の地獄が待っていたというわけである。

 

その僕が、新生日本に生を受けた素晴らしい女性と結婚した。

しかし僕には、その組み合わせと、歴史的出会いの意味が、今まで全くわからなかった。

が、少し最近、その謎が解け始めた。

 

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このブログ・祖父ネットが本(書籍)という想定なので、作者が明確でなければならないと思う。そこで僕は、そういう意識を持って、あるいは持てたので僕の略歴を公開する。

 

僕が生まれたのは大阪・天王寺「聖バルナバ病院」、父は広吉母は絹子である。この結婚は母の父、僕の祖父の影響が強く滲み出ている。祖父はクリスチャン(聖公会)で、住友本店の営繕部(臨時建築部)のサラリーマン、花屋敷から通っていた。今や、住友本社営繕部は伝説の会社だ。今、世界最大の設計事務所「日建設計」が、これである。ここから、今でいう日本の「建築設計業」が発祥していく。

父は東京神田の生まれ、家業は左官業だった。今は名称が変わったが、古くは豊島町である。その次男だった父は、そこから築地の居留地にできた、工手学校建築科に通った。東京帝国大学でいえば造家科だ。下駄で通ったと自慢していた。いわば国家が作った帝国大学の下請け学校といった形、当時多くは、職人の息子が勉強し、先生は造家科の卒業生が多い、と父は言っていた。

 

さて、父がやっと十七歳の頃か、ドッカと来たのが大地震である。築地居留地は完全に灰燼に帰したらしい。

この時、明治学院もそこにあった教会も消えた。この居留地はじめは御多分に洩れず横浜にあった。場所は、今フェイリス女学院のある下のあたり、そこが徳川幕府が許可した外人居留地で、そこから外人が出ることは「罷りならぬ」という次第だった。いよいよ、日本の近代社会の始まりである。

 

 

僕の学歴は、明治学院大学・文学部社会学科卒業で、生まれは1941年11月2日だ。現在、八十二歳。明治学院に10年在学、すなわち中高そして大学と、白金台の明治学院キャンバスで過ごした(過ごせた)。

 

明治学院は紹介するまでもなく、お坊ちゃま学校だと当時から言われていたが、この世間的評価は今も変わらず、呑気なおぼっちゃま扱いは今も変わっていない、らしいが最近は知らない。要するに、学歴社会の上位を目指すものが、ターゲットにする学校ではない。普通の滑り止め学校である。当時は牧師の息子などは授業料が無料、だったのではないか。よくは知らない。

 

僕が中学に入学した頃は、いうのも嫌などさくさ戦後で、区立の出来立て小学校から、金のかかる学校に行ったのは二人だけ。一人は有名秀才校開成で、おぼっちゃま学校の明治学院の僕だけ。近所の医者の娘さえ、区立の出来立て中学校に行く時代だ。

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僕と渥美清。偽の合成画面。

こう書くとつくづく自分が嫌になるが、仕方がない。

 

卒業後の就職先はまだ元気だった映画会社日活で、一部上場企業だった。戦後を代表する日活ビルも出来立てであったが、今はビルも会社も壊されて、別のビルが建っている。

今の映画会社日活は上場会社ではない。映画会社なのに僕の職種はホテルだった。

 

その就職先が定まった頃、みんなで就職先を紹介し合った。僕が、自分の会社を紹介すると、みんなドット笑ってくれた。僕はすごく深く傷ついた、と言っておこう。

 

マー僕の紹介は、こんな程度でいいのではないか、ともかく先がを急ぎたい。

 

 

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池井戸潤さんを読んでいると(空飛ぶタイヤ・講談社文庫・2009)、頭のいい人だと言いたくなる。

 

緩急凄まじく展開する物語で、よくこのような面倒なことを書けるものだ。筋を通しやすい経済小説の成果なのであろう。

 

彼は、1963年生まれで、僕が明治学院の四年ごろ生まれた人。

僕はちょうど卒業年度で、何かと就職のことを考えていた。が、全然自分が何をやりたいのか、どうするのか見当もつかないでいた。

就職部の、企業張り紙を見ながら、パイロットになろうと思ったが、背が低くて受験するらできない。

そこでなんやかやと漁っていると、TBSが目についた。そこで、さらに読んでびっくりした、なんと受験場所が東大である。それでも受けて受からなかった。

実は内心鼻ツからダメだと思い、散々迷い、あるつてで映画会社の日活を受けた。

 

 

 

僕は、「空飛ぶタイヤ」池井戸潤著(講談社文庫)を読みながら、池井戸さんが慶應大学・文学部出身であるということに着目した

 

ともかくすごい、という言葉に尽きるのは、僕も文学部出身で、恐ろしくキリスト教的人間なのだ。

 

彼には売れるような、本当の文学を書くことができない自分を発見させられる。

僕はキリスト教に汚染されているので、裸の人間が描けない。もっといえば、裸の日本人を描けない。

この池井戸さんの本も、同じ慶應大学経済学部出身の、ある秀才にもらったもので。上下きっちりと読み終わってから、コーヒーでも飲もうと思って、今も下巻を読んでいる。

 

下はおまけの情報。

 

沖野岩三郎の童話教育論「日本の児童と芸術教育」を中心に, 岩井保久志, 研究実践紀要, 8, , 1985, ケ00192, 近代文学, 児童文学

 

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82の僕が書くと、恐ろしく難しいことを書くような気がする。

自分でも嫌になるが、八十二なので現代むきの面白いことなど書けない。

書く気もない。ただ、忘れないうちにしっかり書いておきたいこと、この「幻想街道」の基盤は、忘れないように書いておくと、ともかく「両親を奪われた年代」と規定しておく。それに比べ僕の妻の年代(戦後生まれ、団塊の世代)は、その両親を「奪い返した年代」である。

これが今の僕ら夫婦のプラスとマイナスとなって、火花を散らす生きる老年エネルギーになっている。

 

 

誰も読まないこのブログを、ワザワザ書くのも馬鹿げているし、ブログなどネット上で無数にある時代、馬鹿げているが、僕には僕の文章を本にできる技量がない。

 

これでは、ネット屋さんが儲かるだけで、僕の収入にはならない。

それを承知で書くと。

そこでここで僕は結局、キリスト教の救いを描くしかないのだ。これが、「幻想街道」である。

ずいぶんと希望のない救いで、これが僕の出身した学校の、僕の時代の文学部の大先輩「島崎藤村」に連動させてみたいのだ。キリスト教の救いは本来無料の救いである。神は自分が与える救いに、料金を要求しない。

 

料金を要求するのは、その設備を整える「教会」である。

但し、無料ほど高いものもない、というのは人生訓である。結局、大層な教会堂をまず建設し、それで人に経費を要求する。それが、「献金」である。とは、若い時にはわからなかった。実はこれが一番、経費が安い。

 

などと書くとしらけるので、八十二歳の僕は結局過去の幻想しか描けない。

 

 

池井戸潤さんの「空飛ぶタイヤ」(講談社文庫・2017年)と、神学者ブルンナーの「我等の信仰」(1958年・新教出版社)をあわせ読むなど、こんな読み方をするのは83の僕だけで、何の役にも立たない。

 

池井戸さんは1963年生まれ、僕が10年学校明治学院で大体、大学三年生の頃に生まれた人だ。

 

池井戸さんの「空飛ぶタイヤ」は名作、映画にもなった。

この本、僕の古い友人で、慶應大学や青山学院で学生時代を過ごした人が、僕にわざわざくれた。僕は長く手付かずで読めなかったが、女房がさっと読んで面白かったというので、僕も読み始めた。

 

少し読んで、要するに、ある日本の大企業中の大企業の系列自動車会社の、ある時代の事件を描いた実話。

200億円の追加融資を行うか否か、という場面を読んでいる。実際に必要な金は2000億、こんなもんで我等の会社は潰れないよ、という実話である。

 

あの頃の日本経済は、いろいろあるが。

一方で僕と同い年とも言える、あのダイソーの創業者も最近なくなるなど、ともかく僕らの時代は「すごい戦後」だった。ダイソーの創業者もあれで、中央大学の理工学部土木工学部の出身。すごい人だが、僕より二年歳下だと新聞で知った。

 

など、普通の日本人が、「ブルンナー」など勉強していないのに、僕は今も座右の銘として、ブルンナーに人生を任せている。

読む箇所はその本の31章、「未来」。

 

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笑っちゃうのであるが、感傷街道もどうも出発したようである。

 

人生で、一冊ぐらいまともな本を出したいと思うと、何となく腰が引けるけれど、最後だもの明治学院大学文学部出身の八十二歳の僕も、少しは人に嫌がられる学院特有の宗教的くささを克服し、「島崎藤村」の向こうを張るぐらいな、文学的元気は出ないものかね、などと自分を叱咤激励している。

 

今まで、我慢に我慢を重ね、キリスト教の難しさに辟易したが、マーその研究もこれぐらいにして、文学に移れないか思案中である。幸いに僕のハニーは文学好きで、学校も国文学に長けた学校で勉強していた。やっと彼女に追いついたわけではないが、おかげで少し文学に開眼してきたのである。

明治学院文学部はキリスト教からの棄教者が多い。

その数無数、僕は中、高、大と10年通し、挙げ句の果て映画の日活に入社したものの、勤め口たるや何とホテルである。

 

あの頃の日活はまだ一部上場企業、その翳りの日活を小説にしたのが、高井有一さんである。

「高らかな晩歌」(新潮社・1999年)。その小説を今つくづくその本を見ると「純文学書き下ろし特別作品」となっている。

僕が日活に入る時あたりが書かれていて、僕は明治学院を卒業する前に、すでに研修と称し、勤務地と決められた修善寺に、人生の一歩を踏み出した。

 

 

 

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