小説

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2019.03.28

永遠の生命と僕のエロス(小説14)杉山かつみ

 

 

 ある日、ウィーンで。

 僕ら夫婦は、ベートーベンの家を目指した。

 ホテルインペリアルから、市電の駅近くにあるマックで、まずコーヒーを飲んだ。マックはウィーンにはそぐわないが、そこがまた面白い。

 昨夜から、ホテルの一室で地図を見、首っ引きで目的地への行き方を学習した。ものの、もちろん内心は不安でいっぱいだった。ともかく循環式らしき市電(路面電車)に乗って、なんとか最寄り駅で降り。地図に従っていけば、そこにいけるはずである。その駅は終点で、日本の可愛い女の子の一団が、ガヤガヤと。名曲「田園」が発想されたとする、その場所を、目的地に向かっているようだった。その引率された、音楽学校らしき女学生の後ろに、ちゃっかりついて行った。

 ベートーベンの家は天井の低い小さい家で、それは、暖房費を節約するための構造になっていたようだ。

 で、そんな僕ら夫婦は、母の介護に疲れて。母を妹に任せ、ウィーンで息抜きをしよと旅に出た。妻との出会いは、Fのおばさんがきっかけだ。Fはその頃アメリカにいるが消息は皆無。おばさんもなんとなく暇だったのだろう。よく遊びにいく僕に、嫁さんを世話をしたいという。僕も、親父の会社で生意気を張って、すでに七、八年経ってすでに三十になっていた。その前の五年ほど、絵の学校にダラダラと在学し、四、五年も過ぎていた。ボツボツ、周りで仲間も結婚し始めていたが、僕には恋人らしい人は一人もいなかった。相変わらず仮面の貴公子で。絵の学校は。そんな僕の仮面の性を解放し始めてはいたが、とても他の画学生たちの高い性には及ばなかった。

 

 僕が、全裸の女に接したのは、実は高校の頃である。

 親父の知り合いの彫刻家で、津上昌平と言う人がいて。その人の鋳造した観音像は、僕が結婚の時に持ってきて、僕の家にあった。僕が、津上昌平のアトリエに、親父に薦められて、初めてクロッキーを習いに行った時。僕は。初めて女のモデルの、全裸を見ることになった。10人ほどの、そのグループは、津上昌平のアトリエでせっせと女体を描いていた。僕は、なんの予備知識もなく、いきなりクロッキー室に連れて行かれ、その後ろの方でそれを見たのである。

 実際、初めて見る眩しい女の裸は、僕のエロスを強烈に刺激した。のは、言うまでもない。

 僕は、それ以後少々おかくなったと、思う。親父が、そんなことを、昌平さんが僕に、いきなり教えるなどとは、思っていなかったと思う。親父は、硬い建築設計の技術者で、昔の工手学校(夜学)を卒業した人。戦前、宮内省匠寮に、いた人だ。そんな人が、彫刻とは言え、洋画界の人となぜ接触があったのか、その時の僕には、さっぱりわからなかった。ともあれ、明治学院で成績の振るわない僕を、親父が心配し。絵の好きな僕のために、津上昌平に何も考えずに頼んだに違いない。

 

 だが、僕のショックは、僕一人で耐えねばならず。

 誰にも、その夜の裸のモデルの、強烈な裸体の印象を語れないまま。その後も、僕は、誰にも、それこそ銀座のWにも、話さなかったのは。なぜかそれが。決して、ふざけた話ではないと、思えたからである。僕の苦悩に、絵画の高さと、自分の仮面とが重なって、ますます誰にも内心など話せなくなった。僕は、高校生のくせに、僕の強烈な青春の性の密室を持って。僕の官能は、明治学院の宗教教育と、教会とが一束にまとまって。僕の仮面を、一層強く僕の顔に縛り付けた、のだ。

 僕は、二、三回行ったきりで、その後津上教室には行かなかった。理由もなく僕は、そこに行かなかった。理由は、親父にも、津上昌平にも何も言わず、そこをエスケープした。

 そんな僕も、結局仕事の後で、近くの絵の夜学に通ってみると。そこにはまた、当然クロッキーの時間はあった。僕は、その時。もはや仮面の奥で、密かに性の経験も積み、表面はただ。当然のように、絵の基本技たる裸体の構成という、困難な当然の道を歩んでいた。

 

 性と、モチーフとしての裸体が、全く僕の中で分離した、のは。

 僕が、性的にも大人になった証拠でもあった。僕は、その日、東大近くの、夜学の友人の家で麻雀をしていた。東大闘争の叫喚が聞こえる中で、その家の友人が、僕らに。俺は結婚する、などと突然言った。ので、僕らは一気に白けきった。そこで気分直しに、東大の叫喚に加わるべく、正門から堂々と入って行った。正面ゲイトは、機動隊で固められ、沢山のポリスが山のように待機していた。

 が、僕らは、平然と。安田講堂に向かって、高く積み上げられた椅子や机の間を縫って。何か、ワクワクしながら進んでいった。その後すぐ、機動隊が動いたぞー、という声をどこからか聞き。僕ら関係のない、社会人の夜学の画学生は、一気に塀を乗り越えて都電通りに飛び降り、家に帰った。

 ともかく、なんとなく。あの時、白けた自分が情けなかったが。ともあれ、友達が結婚によって独身から飛び立つ姿は、なんとなく僕を考えさせた。

 そこに、おばさんがある日、見合いの写真を僕に見せた。そのかわいい、少し幼い感じのする清楚な人に。僕は、早速見合いを承知し。おばさんは、先方の家にすっ飛んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.03.27

永遠の生命と僕のエロス(小説13)杉山かつみ

 


 牧師Yの突然の死は、


 僕の、大切な何者かを失わせた。


 その時先輩のFは、すでにアメリカにいた。特に、連絡をしていたわけではない。そのアメリカには当時、「神の死の神学」とか「世俗都市の宗教」とかいう神学があり、結局彼はそれに惹かれていったのではないか。


 Fがわざわざ現場(アメリカ)まで行って、そういった思想の冒険に乗り出したのは。結局彼の体の中を流れる血の中に、大石誠之助のような壮絶な死を経験した人がいる、ということの証なのだ。それも、結局彼の消息は途絶え。欧米社会の激しい神学論争の犠牲者として、どうなったのか。今何をしているのやら。僕には、全くわからないことで、Fの母親のおばさんも、その後何も説明してくれなかった。それは、当然おばさんの方が、体内の血は大石には、息子のFより濃いわけである。


 今から思うと。それらを。あの時の僕に説明しても、まずいと思ったに違いない。


 で、結局僕が青年会で。逝去した牧師の記念号を出す責任者になった。その時、すでに映画会社の日活を辞めて、親父の経営する設計会社にいた。それは実家と一緒の棟にあって、戦後親父が信州から引き上げた時に建築した自宅兼事務所なのだ。


 で僕は。自宅の完成と同時に、赤坂小学校から駒込小学校に移り、絵の先生であるNに出会う。Nが、僕の担任になり、その結果僕は。近所の画材屋から、油絵の具などを買う生意気な小学生になった、ということである。戦後の社会があらかた貧しい時代、それは異常なことでもあったと、思う。その上、駒込教会という。キリスト教の教会学校にも通う、のは。ともかく、キリスト教全盛の、連合軍駐留時代の空気、の残ることで。まして赤坂にいた頃から、銀座線で、渋谷の教会に通うなどという僕にとって。信州の田舎の小学校を、三年の中途で抜けてきた僕は。どうにもこうにも始末の悪い、訳のわからない状態になっていた。今はTBSになっている、あの場所には赤坂連隊の演習場跡があり、そこには薬莢などもまだ転がっていた時代だ。


 つまるところ、周辺の未知な世界が僕に開けてきたのである。


 が、その上母親が僕を、明治学院に連れて行き、ここに入学するのだと。ある日突然なんの前触れもなく、そこに行って校舎を見上げながら、まるで決まったようなことを言うから、僕の混乱はさらに深まる。で、それが、いつの間にか駒込教会から、目黒教会に通っていて。そこの牧師がYで。カルヴァンの研究者だった、ということである。


 その牧師が、突然心臓麻痺で倒れたその日の講壇の説教が、「永遠の生命」で。僕が週報を使って、メモっていた説教を原稿にして。僕ら若い編集委員で、Y牧師記念冊子を発行したのである。


 なんとも、凄まじい僕のキリスト教時代であるが、明治学院大学に行くと。読書は前に進み。


 しまいには、なんと。スピノザという汎神論の大物にも出会うのだ。マルクスやエンゲルス、毛沢東はわかりやすい無神論者であるが。スピノザまで行くと、つまりイエスキリストは僕の頭から、消え去りながら復活しつつ。突然また再構成されるという。とんでもない、汎神論の間歇は。ますます僕を混乱の極み、にまで持っていく、のだ。まさに、日本人らしい汎神論的な穏やかさに至るのは僕(私)の、七十七歳の今に過ぎないことなのである。


 77歳の今(僕)はブログ小説家としての、悟りきれないクリスチャンの小説家を、して小説を書かせるのだ。まさに思想の格闘といえるのであるが。島崎藤村とて新生事件を起こした時、既にキリスト教を離れている。が、藤村は、その時も。まだ、日本人本来の、確たる汎神論には至ってはいないが。大磯の墓は神道の墓なのである。


 で、僕は混乱しながらも教会に通い、さらに絵を勉強し始めた。そこに出現したのが、大げさに言えばピカソである。僕は、そこから無限のエネルギーを引っ張り出して、上野で行われた自由美術展に出品した。それが、明治学院大学の何年頃かは記憶にない。


 僕は、高いところに飾られた僕の絵を観て、全くがっかりした。そこに観えるものは、なんとも奇妙な僕の絵、とも思えない。ものにしか過ぎなかった。僕はそれ一回切りで出品をやめ。数年後、改めて示現会が経営する夜学に、勉強に行った。自由美術展の僕の作品に、僕は自分で腹を立て、悔し紛れに数年後、思い出したように夜学校に行った。


 ピカソは、僕が教会で作る青年会誌のカットとして、ガリを切る僕の。独自のカットとして、教会員の顰蹙を買った。それは、Fが道を開いた青年会誌「透明」の、後継の青年会誌に過ぎなかった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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2019.03.24

永遠の生命と僕のエロス(小説12)杉山かつみ


 大石が、インドに行ったのは明治32年である。


 そんな大石が。紀州から、明治24年アメリカに渡り、オレゴン州立大学医学部に入学する。さらにその前の明治17年、同志社に入学したが。さっさと退学し、大阪で洗礼を受けた後で東京に出、神田の英学校に通ったりする。


 が、その遊びぶりは派手で、吉原通いもせっせとしていた。僕の先輩Fの、好色な一面が、すでに先祖の血の中に露呈している。そして、勢い余ってアメリカに行くのが明治23年。ワシントン州の中学校で、多言語を学んだ後、医学部に行くと言うルートである。要するに、彼には。それを支える金があり、新宮の資産家の財産はその程度ではなくならなかった。


 そんな大石は明治28年、医師の称号をもらい正式に医者になった。しばらくして新宮に戻ったものの、旅の経験が、若い大石を激しく揺さぶり。新宮の田舎医者でじっとしていることはできなかった。そこで、インドにも行く。大石が、密かに探求した仏教の宗教観と言う、知的欲求のせいである。表向きは伝染病の研究で、ボンベイの大学教授たちと交際し。インド哲学に接した上で、チベットまで足を伸ばして密かに。鳥葬を見学し、その無常感を十分に味わった。


 だから医者としては、「死」に対し。かなり哲学的にも強靭になっていた。西洋医学の医者は人間の死と対峙する時、死に対し強固な陣を敷かねばならない。と、キリスト教のアメリカ医学は教えたのである。


 僕は、この大石が、先輩Fの祖父に当たる人で。大石の兄弟である、と言うことを知ったのは、チイロバの古本を読んだからである。当時の僕は、エロスとアガペーの二元的愛の性質が。がっしりと、心の中に居座り。そこから一歩も前に行けなかった。大石が、そんなキリスト教であったかどうか、僕にはまだ分からなかった。むしろ大石は、日本人的な一元的性格が、まだまだ強かったのではないかと、思っている。


 そんな僕が、日本人を観察してみると。日本人は自分自身が、実によく一元的に完成するようにできている。僕にはあまり、明治学院以外の友人はできなかったが、多少知るその人たちも。皆。なぜか真面目で、自分の思いを心に秘め、それを実にうまく制御しているように見えた。が、僕は僕のエロスが、奔馬のように激しく動揺する中で、結局。金でことを処理すると言う、最も卑怯なやり方に堕していった。


 だが、日本人の方法も、どうも個人差があるようで、実は皆適当にやり過ごしていたのであろう。ただ、二元的な僕と、一元的な他人との間には、天と地ほどの差があったと思う。で、意識的に僕は、仮面を被った。まるで、礼儀正しい西洋人のようにうまく、仮面を被ったのである。それが、教会生活だった。

 しかし、仮面を被った僕は、僕の性の、当面の解決法は卑怯なものだった。そんな僕を。突然襲ってきたのが、牧師Yの突然死である。


 それは、礼拝の後に起こった。


 当時フェイリス女学院は、戦後の拡大期に入り、大学設置と言う大問題を抱えていた。院長である牧師はその推進者で。日夜奮闘せざるを得ず、日曜ごとの牧師職も苦の種だった。しかし、Yはむしろ院長職より、牧師職を重視するほどの人で。16世紀の宗教改革者、スイスのカルヴィンの研究者でもあった。歳を重ねてもその白面の美男子ぶりは有名で、いつも顔色はさえず、顔色が青白いにも関わらず、いつも笑顔を絶やさないようなひとだった。講壇ではいつも、彼の手に、しっかりと抱えられた擦り切れた聖書を持ち語る。その姿が聴衆を惹きつけた。


 その日も、説教の内容は高く、「永遠の生命」を語った。


 ただYは。前の週の、講壇を休んだ。珍しいことに、家族五人で伊豆に出かけたのである。あまりにも忙しいのと、多分今思うと。体調も悪いので温泉にでも入り、英気を養おうとしたのであろう。それは異例なことで。僕も中学生の頃から、Yの説教を聞いていたが。その間に。牧師が休みを取っていた記憶がない。まして僕が、明治学院大学に進み、大人の礼拝に出るようになると。度々、仲間と一緒に礼拝の後で、横浜のフェイリスの院長宅に遊びに行っていたりしていたので。なんとなく、深く敬慕していたのである。


 その時僕は、密かに恋もしていて。年上の、Yの次女が好きになっていた。が、それは、礼拝の後で。青年会の連中と一緒に、仮面を被りながら、原宿に繰り出すことで満足していた。一度、横浜のレストランに彼女が誘ってくれたのに、ただただ僕は緊張してしまい。何も起こらずに、僕は仮面を被ったまま。彼女はその年に結婚をした。


 ともあれ、そんな日曜日が続いていたし。僕は、ほとんど日曜の教会を休まなかった。

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2019.03.22

永遠の生命と僕のエロス(小説11)杉山かつみ

 大石誠之助を、そのまま忘れていた、ある日。


 僕は好きな古本を探して、神田をうろついていた。


 キリスト教の古本屋は当時、僕の知る限り友愛書房とチイロバの二件だった。有名な画材の老舗文房堂(ぶんぽうどう)により、ついでにチイロバを覗いたのである。そこは、いたって狭いもので。だいたい当時の神田の、一般的な古書店の規模を下回った。無愛想なご主人がいて、特に何言うでもなくブッスとしている。そんな書店だ。


 で、お構い無しに見て、。フト、「大逆事件の犠牲者大石誠之助」を、見つけた。


 かなりくたばった本で、ほこりをかぶり中ほどの棚にあった。それを、見つけた時、本当にびっくりした。意識して大石を探したわけではない。軽井沢の記憶の中に、そのままあって。それが目の前に現れたのである。もともと、あるとも思ってもいない。のは、今のようにインターネットなどない時代、だからである。大石との出会いは、全くの偶然で。


 何度も言うが、探したわけではない。おばさんから聞いた時に衝撃を受けたまま、時間が過ぎて大方忘れていたのである。


 キリスト教古書店に、それは確かにあったので、あるが。これが、キリスト教の本であると断定するには、少し無理がある。にも関わらず、キリスト教書店にあったので、今から思うと。チイロバのご主人の読書力は、すごいものがあったと今更ながら敬服している。


 現在は、もう店を閉めてしまい、文房堂に行くたびに昔のことを思い出す。さて、だが。僕は。それからが大変なことになった。その本を読んだからである。


 それで始まってしまった大逆事件の旅は、同時に内村鑑三も知る旅なのである。この事件と、様々な人物と、宗教と思想とは。僕の脳髄を刺激し、概ねこのテーマに、自分をかけるほどのスケールとなった。


 おばさんの一言から始まった、死刑囚大石の話は。これで軽井沢以来、僕を本当に困らせる核になったのだ。おばさんが何か、得体の知れない人物のようにも思え。アメリカに行ってしまった先輩Fのことも、気になり始める。幸徳と内村は同じ新聞社で、机を並べ執務していたなどとも知リ。日露戦争に反対し、非戦論を掲げた仲とも知った。


 ただ幸徳は死刑囚として、執行を待っている間に「基督抹殺論」を書き上げる。それを、自分が死刑になった後で、出版するように友人に要請していた。その本を、僕は今も持っている。だから、僕は、ますます。アガペーとエロスが、僕と言う人間の中で分離する、と言う事態が生じた。


 大石誠之助を知った後の、僕は。それを調べるために、まるで学者のようになり。


 僕が実務とした、建築設計事務所の総務の仕事の忙しさと合わせて。もはや、僕のエロスは、安定した家庭を持った、と言うこで収束したが。安定したエロスは、一層アガペーの僕を、悩ませることになった。それは、会社という怪物が舞台に加わって。経済活動と合理性の中で、僕のアガペー(宗教)は、ますます鮮明になっていった。それは、僕の信仰として、ほとんど会社と信仰との闘争となって。で、今まであんなに活発だったエロス的人生は、僕個人の枠の中に鎮座して動かなくなった。


 それでも、ややエロス的救いがあるとすれば。その間、僕が絵画に関わったことで。少しは、人間らしいエロス的生き方もできたかな、という事態である。ともかく、社会生活は、僕のアガペーを昇華させる一方で。僕の絵は、激しいエロスに悩まされた若い時代では、明治学院的アガペーの中にあって。両者が戦い。あるときはエロスが、ある時はアガペーが勝つと言う事態は。子供の時から始まっている。それは、僕が。油絵を小学生の時に教えてもらっていたからであろう。


 生意気に小学生で。油絵というものにいち早く触れた僕は。あきれたことに。一人で駒込駅前の松本額縁店で。さっさと絵の具を買うような生意気な小学生になっていた。それは、僕の担任の、駒込小学校の中山先生が、油絵を早々に僕に教えたからである。赤坂小学校から来たばかりの僕は、絵の先生である中山先生が担当だった。


 これなども運命で、駒込の生活は。なんともおかしなことに駒込教会にも、僕を連れていった。のは、六年生になった頃なのかもしれない。


 それで、今に至るまで僕は、こんな小説で、エロスとアガペーといった二元論の小説を書く、僕になった、のではないか。


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2019.03.21

永遠の生命と僕のエロス(小説10)杉山かつみ

 僕が。Fの、大逆事件との関係を知ったのは、かなりあとだった。


 結局、Fはさっさと。


 アメリカの教会へ牧師の紹介状を書いてもらい。まるで風のように、去ってしまった。残されたおばさんは、目黒の権之助坂にある歯科医院をたたみ、もともとあった軽井沢の別荘で老後を暮らす決心をした。


 その別荘は、有名な星野温泉のすぐそばにあった。僕は、度々そこを訪れては、おばさんとそのお母さんと話し、自分なりに軽井沢ライフを楽しんでいた。Fがアメリカに去った後、僕は。おばさんの世話で結婚もしていたから、妻と二人でよくそこに行った。当時の軽井沢はとても魅力的で、おばさんの家は鄙びた山小屋風で、新婚の僕らの別荘のようになった。


 そんな時僕は、教会に少し疑問を感じ始めていた。


 で、無教会の内村鑑三などを読み、それなりに影響を受けていた。


 これなどは、偶然で。おばさんの近くの星野温泉が、内村と縁が深いこと。星野は内村記念館を持っていることを、遠からず知った。というのは、あの頃の内村たちの時代は、軽井沢が外国宣教師の避暑地として、かなり盛時で。軽井沢は結局、宣教師らに開発された、と言って良いものだった。


 内村たちは、夏になると。避暑に訪れ。


 関東大震災の時も。彼は、星野温泉から東京方面の空が真っ赤になり、凄まじい形相になったことを見ている。で、急遽列車に乗って上野にまで行かない列車で、災害時は終点の赤羽で降り。徒歩で柏木(新宿)の自宅に戻っている。そんな話も、詳しくなっていくのであるが。それは全て、Fの母親であるおばさんが、軽井沢に移ってからわかったことで。


 アメリカに行ったFを、その後見たこともない。が、ドイツに行き、ついにはスイスに今はいる、ような情報だけはおばさんから聞いていた。僕はその頃、Fにははあまり興味もなくなり、内村鑑三にのめり込んで。結局、無教会派となってしまい、教会を離れる信仰生活に入っていた。しかし、僕は相変わらず妻と一緒に、軽井沢の教会派のおばさんの家で、夏のバカンスを楽しんでいた。


 そんなある日。帰宅するタクシーの中で。中軽に向かっている時、見送りに来たおばさんがポツンと、なんとなく不思議なことを言った。それが。自分の親戚に大石誠之助がいる、ということであった。


 実は、この時のショックは、少し間をおいて僕を打った。


 息子のFは、明治学院中学高校からICUに進学した秀才であるが、教会活動も活発で。「透明」などと言った、青年会誌なども作り。病が高じて本屋にまで並べてもらう算段をした人だ。


 おい、お前も何か書け、というから。それに僕も小説を書いたが、小説は初めての経験でもなかった。高校の時、初めて書いた小説は「えじこ」というもので。えじこ、とは農村で農繁期に、赤ん坊を籠の中に入れて作業をする。その籠の名称をエジコといい、それを小説の題名にした。窮屈な自分の青春の、鬱屈した感情を書こうとした。が、失敗で続かなかった。それで、雑誌透明に書いた小説が、二作目であった。


 二作目は、隠れキリシタンを書いて、仏像がからりと回転すると。キリスト像になる、という構想までは良かったが、その意味するものを深く掘り下げられないまま。結局、中途半端に終わった。それでも健気に、なんとか、神田で高価な古本を買い、書いたことは書いた。が、それで。今ここで書いている小説は、三作目なのである。


 そんなえらく、飛んだところのあるFで、あるから。時々僕に、明治の大事件である大逆事件のことを、なぜかチラリチラリと、語っていたのである。それは彼が、左翼的傾向の人だからそれを言うのだろう、ぐらいに思っていた。し、六十年安保の後でもあり、僕も少しだけ大石誠之助は知っていた。


 幸徳秋水と大石誠之助は、あの時死刑になった12人のうちで、インテリで。和歌山県の新宮の医者だった。し、おばさんたちも新宮の出身で、あることは知っていた。が、まさか。彼らがその縁辺であった、とは全く知らないことであった。で、びっくりしたのである。


 ただ、それからも、大石誠之助を詳しく知ったわけではない。多少知っていたのは、有名な幸徳秋水の方で、この人は思想史に興味のある僕は、当然ある程度は知っていたのである。


 そのタクシーも、その後。中軽の駅について、僕たち夫婦は東京に戻り、そのことはそれ以上に進まないまま時間が過ぎた。


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永遠の生命と僕のエロス(小説9)杉山かつみ


 で、僕は。神学生のYが神学校を卒業してすぐ、今の教会の副牧師に選ばれたのを機会に。


 結婚をするという、事件にぶつかった。


 神学生は、僕より、四、五歳上であるから。


 今思うと、おかしくはないのかもしれないが。その早々の結婚は、もう一つのおまけまでついてしまった。新婚家庭用に建売住宅を買う、という話が伝わっていきた。Yという牧師が、住宅購入は早すぎる、牧師というものは、全国のどこに招聘されるかわからないから。結婚はともかく、住宅まではどうか。と、意見を言ったらしい。


 当時牧師は。さる有名な女学校の院長で、すでに五十歳を過ぎていたし、戦中はアメリカで苦労を重ねた人で。まして、その学歴は旧制の帝国大学と五校(熊本)で、その人が。住宅はどうかね、という。のに、副牧師のYは、それを無視して。結婚してすぐに、住宅まで用意してしまったのだ。


 その結果は悲惨で。


 牧師の給料で、住宅ローンなど払えるわけもなく。多分、奥さんになる人が、有名な官公庁に勤務していて、その保証があって、銀行から金を借りた、という噂が教会に広がった。ともあれ、僕には考えられない。が、ともかく新婚家庭に、我々青年会も招かれて遊びに行った。


 だが、牧師の予言は当たってしまい。子供ができてすぐ、たちまち金に行き詰まり、離婚話が持ち上がり。とうとう当人は、副牧師を辞めて不動産屋になってしまった。Yは、だらしのないことに。独身の僕からも、三万円程度の金すら借りて、借金証文まで僕にくれて。当人は既に、死んでしまったがいまだ、それは返済されていない。ということに、なった。


 で、もう一人のICUの先輩Fも、変わっていて。


 学校の成績がいいのだから、そこの有名教授武田清子のもとで修行すれば、出世できたものを。何を焦ったのか、アメリカに行くと言いだした。


 慌てたのは彼の母親で、私がおばさんと言ってよく遊びに言っていた家で、歯科医院を経営していた。つまりFの父が歯科医であったが、早くになくなり。困ったおばさんは、歯科医を雇い、Fを養っていたのである。


 にも関わらず、Fは。母一人子一人の母親を置いてまでアメリカに行く、などと言いだしたのには。その時、教会青年を混乱させた、アメリカの。困った過激神学「神は死んだ」が、あったからだ、と今ならわかる。彼のような、僕より四、五歳上の人は(僕はまだ明治学院の高校生だった)、どうもおかしな経験をする。僕は、昭和十六年生まれだが、彼らはその前の、戦前の生まれで。それもまずいことに、戦争中に少しだけ物心がついている、年齢なのだ。戦争は、世界中を刺激していたから、彼らの受けたものは、強大な不安というエネルギーだったのだ。


 その物心とは、「撃ちてし止まん」式の、軍人精神教育が最も盛んな時期で。日本が大敗北に追い込まれる時の、純真な幼児心理に、深い傷を与えた、と僕は解釈している。


 それにしても、Fは。


 そればかりでなく、深く濃い血の中に。さらなる宿命を負っているということは、その時僕は理解していなかった。彼の、優秀な脳髄の中に流れている血は、そう簡単には傍目には理解できなかった。


 その血とは。明治の大事件「大逆事件」、なのである。

    

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2019.03.18

永遠の生命と僕のエロス(小説8)杉山かつみ

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2019.03.17

永遠の生命と僕のエロス(小説7)杉山かつみ

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2019.03.15

永遠の生命と僕のエロス(小説5)杉山かつみ

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2019.03.14

永遠の生命と僕のエロス(小説4)杉山かつみ

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