キリスト教

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2020.08.08

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(422)8月8日 土曜日(千回を目指して)

「理性とキリスト教」は、G.E.レッシングが書いた。レッシングとは、日本人にはおぼろの名の人で。キリスト教的啓蒙時代、を認識できない日本人には。かなり難しい人で、はないか。キリスト教系の学校で意識的、かどうか。この人を避けたのか、とも思えないこともないが。人間世界に「普遍理性」を意識させてくれた人と考えれば、少しはわかってくるのかもしれない。少なくとも私にとって。理性が、世に認識されたのが啓蒙時代と知らない不勉強な僕の。脳天を打った。近代社会的に、西洋的に言えば「理性」とは。認識されて初めて人間の中に生きてきたというのである。そういう認識だと思う。西洋人が理性という概念にこだわるのは、自分は理性を持っている、と今では。存在の普遍のあり方の基本にあるものとして。学校教育的に自分や誰にでもある。当然の人間の自分だと思っていた僕が。で、理性とはなにか、を考えねばならなくなった。古代社会では理性は神、西洋的に言えばイエス(言葉)、と言った、いわば宗教的なものが代替えしていたのであるか(日本は論語か)。あと人間は、主に戦いが生活の全面を覆い。本物の戦いに勝つことが、人間の生存のあり方であったのかとも想像できる。人と人は生存をめぐり常に戦っていたが(現在進行形)、それが生きる大半の目的であったのかもしれない。いわば動物的であるが、生存の枠組みを拡大しながら。一民族、一部族、一家族、親類縁者、地縁血縁として。生存を保障されながら。他民族、他家族、他人、他地域などといった、自他の戦いの中に。古代社会の社会構造が保たれていたのかもしれない。と、思うようになった。それで、説明すると。中国の帝国も、ローマ帝国も、他のアジアの帝国も説明しやすい。そこに、いわば近代理性、つまり今では現代人間一般にあると思われている、普遍の意味の理性主義は存在せず。そういった中にいわばレッシングは、理性爆弾なるものを投げ込んだのかもしれない。聖書的イエス基準が社会基準となって理性化していた(教会的信仰として)、ヨーロッパ教会の絶対権力のもとで。中世社会の理性は、このような構造になっていたのかもしれない。と、考えると。自己のなかにある近代的普遍的人間理性を考えついたレッシングは、一体何者であるか。と、思ったのである。で最後にレッシングをwikiで⚫️ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729年1月22日 - 1781年 2月15日)は、ドイツ詩人劇作家思想家批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテシラーカントヤコービハーマンヘルダーメンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており[1]、この転生思想は現代日本への影響も大きい。また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。⚫️で、ただならぬ人物であるが。暑い夏だね。

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 筒井友美・「帰る場所」。

 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 筒井友美ホームページ https://tsutsui-tomomi.jimdofree.com (HP)

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下は、今石油が出ると騒がれている茨城県五浦の。岡倉天心の墓。近代現代の日本の、自覚的理性者の代表として。実写。

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近くの海岸。実写。

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五浦・天心の墓のそばの草むら。草むらまで日本画の美をあらわす。実写。

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五浦の天心画塾。近代日本画の発祥したところ。実写。

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下はレッシング。

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2020.08.07

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(421)8月7日 金曜日(千回を目指して)

「理性とキリスト教」といういささかおさえた題名の本は、G.E.レッシングが書いた宗教系の論文を集めた珍しいもので。滅多にはないと思う。それが昨日古書で着いた。レッシングとは、おぼろの名の人で啓蒙時代の人であるが、啓蒙時代の幕開けを飾る人であるようだ。中世が終わりを告げる時、近代が明るい未来のはずであった時代。その時代は鬱陶しい宗教を跳ね除けて、人間理性が羽ばたく時代であると期待されていたと。教科書には書かれているような、気がするが。遥か昔の記憶でしかない。で、レッシングをwikiから書かねばならないだろう。⚫️ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729年1月22日 - 1781年 2月15日)は、ドイツ詩人劇作家思想家批評家。ドイツ啓蒙思想の代表的な人物であり、フランス古典主義からの解放を目指し、ドイツ文学のその後のあり方を決めた人物である。その活動は、ゲーテシラーカントヤコービハーマンヘルダーメンデルスゾーンなど当時のドイツ文学・思想に多大な影響を及ぼした。西洋近代の転生説を最初に明記した人物と言われており[1]、この転生思想は現代日本への影響も大きい。また彼の死後、文学・哲学界でいわゆる「スピノザ論争」がおきた。⚫️で、ただならぬ人物であるが。やっと、そのハッシコにとりつくことができた。また昨日は、画家の筒井友美が僕の抽象画を評価してくれて、自分の養った技量で。わざわざ額装を引き受けてくれた幸せは、言葉にならないほど嬉しく。自分の作品に確信が持てたのも、昨日の嬉しい出来事の一つなのである。近代の人間理性は、いよいよ様々な出来事の中に出発していく。信仰という絶対的な意識の前で、いささか逼塞していたヨーロッパは。その圧縮度が高いだけ、爆発度も大きく雌伏していて。人間理性は神の理性と並ぶようになって。技術的高度化に向かうのであるが。その高度化は。結局、人間の新たな悲劇の始まりでもあったが、それを言い表すのは容易ではない。ウイーンに行って勉強になったのは、その悲劇的に美しいハプスブルグ家の芸術であることなど、いうまでもないが。どうしてこうもそれは、この世の美にすぎる美で。人間社会の近現代の悲劇的進行を知る者にとって、いささか戸惑いとなるのは仕方のないことである。美は惜しみなく奪うと言ったのは有島武郎かもしれないが。彼はクリスチャンであったのであるが困ったものである。というのも日本美の、傷つきやすい木の文化は石の文化と激突し。などと書くのは、あまりにも有名であるが故に、やめて。図説ウイーン世紀末散歩、南川三治郎著、ハプスブルグ帝国(第二帝国と称される・第一次帝国はローマ帝国、第三次帝国とはヒトラードイツ帝国意識のことで破壊されたもの)の落日を背景に、多彩で「ようらん」(広辞苑はこの漢字を消し去ったのか・ワープロに出ない)たる文化の輝きを放ったウィーンの世紀末。建築、美術、工芸、ファッション、音楽、文学、哲学、思想、、、、、あらゆる分野で、きたるべき時代を招いた天才たちの足跡。決定版ウイーン・カルチャー・ガイド。なる本を右におきながら。我が人生も終わりに近づいたかと思う朝となって。画家筒井友美に額装を依頼した僕の抽象画が、あまりにも見事にできたので。僕は今朝改めてウイーンの旅を思い出したのである。

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シェーンブルン宮殿の中のマイヨール・実写

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シェーブルン宮殿の雀・実写

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美術史美術館のブリューゲル・バベルの塔・実写

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2020.08.06

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(420)8月6日 木曜日(千回を目指して)

ゴットホルト・エフライム・レッシングと言う人を教えてくれたのは、シュタンゲと言うドイツの神学者である。レッシングはヨーロッパ啓蒙思想の時代の人で。十七八世紀あたりである。十六、十七、十八、十九、20世紀と続く世界史ほど、わかりにくい時代はないと最近は思っている。のは、まさに、ヨーロッパというところはそれまで。一種のギリシャローマ時代として一括し、くくり上げることができるほど。静謐で芸術的な長い時代で(争いがないと言う意味ではない)。近世で激動の人類に生じてくる、あきれるばかりの激闘期が高まってくる時代なのである。と、解釈すると。近代文明は理解しやすいと最近わかるようになった。キリスト教的に言えば古代史は意外にわかりやすい。のは、いろいろ文献もあり。その中心部に「聖書」があるから。宗教的信仰的判断も古代的な単純判断の方が、人間の心の純度が高く。今の僕などにも安心して読めること、なのであり。それなりに得られるものも多くあるが、近現代史となると。人間の理屈もいたって個人的で勝手色彩が蔓延し始め。とてもうるさくなる。と言うのが、思想史の外観である。言うまでもなく、科学なるものが本格的になってきてこれが加わると。一気に人間の争いなども規模が拡大し、その殺戮の様も凄惨を極め。日本史的に言えば、いわば源平合戦のようなロマン的。ヤーヤー我れと思わんものは、前にいでよ、我れが相手になるぞ。などと喚き立てる戦争の様は。もはや歴史の闇に消え去る時となるのである。日本の文学は10世紀ごろの源氏物語が最初であるが、その始原の時に寄り添っているのが「かぐや姫」物語(竹取物語)である。その初めはいまは昔からはじまる。明らかに超絶の美の世界であって、現代風に言えば。その竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける、あやしがりて寄て見るに、「筒」の中光たり。とあると。どうも友人の画家の「筒」井氏の作品「帰る場所」を思い出すのも。いかにも現代的であると思いながら。要するに、日本でも10世紀ごろから出発する日本美の文学的表現が。現れる頃なのである。この辺りをさらに過ぎる世紀千五百年ごろから。世界文明もいよいよあやしげな様子となるが。シュタンゲ神学が明らかに近現代を時系列的に理解しながら。啓蒙主義の神学にも期待を寄せている姿を確認できたのが、ごく最近で。それを殊の外期待する朝となったと書くことは。わかってもらえないことだと思うので、Wikiで啓蒙時代を転載しておきたいと思う。⚫️啓蒙時代(けいもうじだい)は、ヨーロッパ啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のこと。「啓蒙思想とは、聖書神学といった従来の権威を離れ」(このカッコは祖父ネット)、理性悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動である。この時代にはスコットランドフランス思想家たちが、特に重要な役割を果たした。政治と経済の面では、三十年戦争でヨーロッパを二分した政治的宗教的対立がやみ、絶対主義王権と重商主義が確立した時期に当たる。⚫️と、書かれているが。実はこの常識的な日本的啓蒙主義理解は、少し訂正を要すると、思いつつ。終わりたいと思うのである。その今日こそが、科学の粋を集約した広島原爆、被曝75年目の日であると思い出さざるをえない。朝となって。祈りて。

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下はレッシング。Wikiから。

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2020.08.05

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(419)8月5日 水曜日(千回を目指して)

ゴットホルト・エフライム・レッシングと言う人を教えてくれたのは、シュタンゲと言うドイツの神学者である。と昨日書いて。昭和九年のシュタンゲの本を盛んに読んでいる。教えられることが非常に多いのであるが。時系列に驚異は感じ無い。二千年前の聖書をテキストとしてイエスを救い主、とすることが書いてあるに過ぎないからである。78年しか人生を送っていないから、二千年はまさに驚くべき年数であるが、若い時ほどの刺激は感じない。いや、刺激がないばかりか全然時の格差を感じないから不思議だ。要するにこちらが「仙人」の域に達しているのであろう。年金で金の心配をしていないので。コロナ不景気など、どこ吹く風なのである。あまりこれを言うと、いけないよと注意されるボケ老人であるが。あえてコロナだから言っているのである。僕だって現役の頃、いろいろ出っくわしたことを考えてみるととてもよく乗り切った(まだまだだが)と、我ながら感心しているのであるが。若い方を見ていると、金の心配をしているから、いいので。それが、生きがいであると言うことを気づく頃は、仙人化している人生である。それも真面目に国家を大切にして、他国を犯さず。犯されない時代の年金積立人生であったからこそ。こんな暢気を言っているのであるが、僕が生まれた1941は、言うまでもなく。とんでもない時代なのである。僕の親父は軍需工場の設計者で母はキリスト教信者で音楽家になろうなどと野心を抱いていた人なのである。まだまだ若い二入であるが、僕を産んでしまい戦争ともなれば自分の夢も吹っ飛んで。現実の現金生活をいかにするかを散々考えたことであろう。でもしかし、若かった二人はそれを乗り切って、僕らを(そのあとで二人増えていた)育ててくれたから。感謝この上もない。それで僕も親不孝だなと思うのは、その親の苦労はそっちのけで。僕らも戦後のどさくさを生き抜いた子供だったから、友人の戦災孤児などは、上野の浮浪児で。死んでしまった姉さんと敗戦国でもあったイタリアの宣教師に育てられて。なんとか生きてきたが、結局死んでしまい、早々に王子のお寺にお世話になっている彼の浮浪児時代の話は。より深刻なのである。などと書き始めた朝はもう盛夏である。シュタンゲは、二千年前のイエスの異常な神ぶりを書いて爽やかであるが。彼のドイツ神学が書かれた昭和九年ごろこそ。ヒトラーが政権を掌握しつつある時期で。一方で、シュタンゲがイエスの人間平和救済を言えば、一方でヒトラーが神など信じないで。ドイツ強国強盗主義を強行する歴史は。人間の悲しい現実の物語と連動する歴史の深い闇を。僕に教えてくれるものであり。今日ももっぱらシュタンゲを読みながら過ごすつもりになっている。朝であるが。

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2020.08.04

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(418)8月4日 火曜日(千回を目指して)

ゴットホルト・エフライム・レッシングと言う人を教えてくれたのは、シュタンゲと言う神学者である。そのシュタンゲの経歴を書いたのは、昨日。であるが。さらに今日も敬意を評して、くどくシュタンゲを貼り付けておきたい。⚫️[生]1870.3.7. ハンブルク[没]1959.12.5. ゲッティンゲン。ドイツのルター派神学者。ハレ大学ケーニヒスベルク大学,グライフスワルト大学で教鞭をとり,1912年よりゲッティンゲン大学教授。ルター派の教義に基づきつつ,キリスト教的世界観と哲学的世界観の関係について研究。主著は『キリスト教と現代の世界観』 Christentum und moderne Weltanschauung (2巻,1911~14) ,『ルターと福音』 Luther und das Evangelium (53) 。⚫️のは、何度も言う様にシュタンゲは、私の師山永武雄(白金教会牧師・フェイリス女学院院長)の翻訳したものであるからで。レッシング、と言う人を知らなかったが。なんとなく耳に残る人とはいえ、内容は全くわからなかった。が、シュタンゲ本から教えてもらった(今読んでいるシュタンゲは山永先生の翻訳では無い)。ドイツがギリシャに次ぐ哲学の国であることはわかっていたが。その内容となると全く勉強ができていないママ、今日に至った。勉強をしてみると面白い。特に哲学と神学が組み合わせてあって、なるほど。ギリシャとヘブライが組みになっている、初期のキリスト教は哲学と神学の組み合わせにしないと。全貌を理解することができないと、さらにつくづく知った。明治学院で勉強していたから、その萌芽は身に付いている。が、内容が伴わない。高校から大学に行く時、同級生の中から日大の哲学科に行った友人がいた。二三年前。僕の個展の時久しぶりであったが、全く哲学の匂いのしないタイヤ屋のオヤジになっていて、じっくりと話せば。何かを引き出せるのかとも、思うのであるがもはや時間が無い。で、僕も哲学科では進学の時少し、迷ったが、結局そのまま文学部に行って。哲学に触れたのはわずかである。進学しカントの純粋理性批判、を読むことになったが。今思うと。カントたちが頑張って、なんとか近代理性を人間の目の前に引き出した時のドイツは。20世紀。とんでもないことをする国になってしまった、と言う流れとして理解はできなかった。18世紀、19世紀、そして20世紀。人間理性は傷つき傷つきあまりにも馬鹿げた殺戮の世紀を乗り切っていたのであるが。今思うと呆れた話しで。理性など技術の前で逼塞してしまい。技術を生み出した理性そのものに反撃されたまま今日を迎えている。いよいよその技術で。宇宙商業計画が本格化すると言うのだから。大丈夫かね。と思うのもあながち間違ってはいない。要するにこの歳で省みるに。理性というものだけでは、この巨大な技術をコントロールすることなどまず持ってできるものでは無いと。知ることからもう一度、人間を哲学的神学的に見つめ直し。さらに人間に特有な歴史性を見つめ直してもいいのでは無いかと。シュタンゲを読み山永武雄先生を思い出し書きながら、意外に静かな心の落ち着きを取り戻しているコロナ朝になった。

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下は山永武雄師。フェイリス女学院院長宅。

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下は、哲学者にして神学者のレッシング。

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2020.08.03

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(417)8月3日 月曜日(千回を目指して)

「秦剛平」さんの訳した「最古の聖書」である七十人訳ギリシャ語聖書が現在ある様々な聖書の原型として相応しくない、と立証するのかどうかは。もはやどうでもいいことである。結局キリスト教と言うのは、長い歴史の中から、様々な変容をし。それがどのよなものであるか、と言うことはいたって大切なことである。が、一方そのことからわかることは。結局例え原本があっても、畢竟するに、それは言葉の重要性を強調したものに過ぎず。「言葉すなわち人間」と言う問題に行き着く、問題で。古代社会から構築されてきた人間の言葉の重要性を表す問題、と考える方が。内容があると思う。言葉すなわち魂、大和言葉でいうところの「言霊・ことだま」であって。これが人間にとって最重要なもので。言葉一つで、人間が死んだり生きたりする以上。宗教とは、結局その言霊の昇華したもので宗教とは言葉である。と言う結論に達する様な気がしないでもない。すでに一年以上になるが御殿場のYMCAで宿泊した時。広い敷地の奥の隣に昔からの神社があって、この神社が実に幽遠で朝方。散歩がてら濃霧の中を一人でその神社を歩いていると。実にその意味がわかってくるのであるが。日本の神社はことさらその言葉が精錬されていて。いかにも饒舌ではないが。その少ない幽玄な言葉の精錬された祝詞がなんとも言えず。日本人の神聖の意味を表しているのと比較し。聖書の饒舌なテキストは。隅から隅まで。神と人間との言葉のやり取りであり。徹底的にあの様な乾燥地帯で生じる言葉の宗教は、見事に神の幽玄と言葉とを結びつけて。何かと神と会話をし、神と意味の交換をすると言う場面が。次から次と展開するのが聖書であるが。それもこれも宗教の一形態なのであり、日本の山奥の神社の神との言葉のやりとりも。むしろ神の言葉を「聞く」と言う構造は。一見したところ。神との会話ではない様に思えるが、しかし、人間が。頭を下げてひたすら神の言葉を待つ、と言う神と人間の言葉のやりとりも。なかなかいいものであるとつくづく思うのでるが。しかし結局どれもこれも、神と人間との言葉のやり取りで。あり。太古から我々人間は神との言葉のやり取りで生きているのであり。その言葉のやりとりをキリスト教的に表現することがキリスト教なのであると。書かねばならない事態となったのは、僕の幸せとするところであるから。それをシュタンゲと言うドイツの神学者から学んで。僕は昨日来、そのシュタンゲの神学を盛んに読んで。コロナの激しいアタックを避けながら生きる、現代人の生き方を探っているのであるが。果たしてうまく表現できるものか自信はないが。ともあれ、やっと秦剛平さんからは卒業させてもらい。シュタンゲが出版された昭和九年の本を読みながら、自粛生活の日々を今日も過ごそうと思っているのであるが、やっと空は明けた様であるのは誠に嬉しい次第。で、再度カール・シュタンゲの経歴ををネットから転載しておきたい。で、今日は終わりたい。⚫️[生]1870.3.7. ハンブルク[没]1959.12.5. ゲッティンゲン。ドイツのルター派神学者。ハレ大学ケーニヒスベルク大学,グライフスワルト大学で教鞭をとり,1912年よりゲッティンゲン大学教授。ルター派の教義に基づきつつ,キリスト教的世界観と哲学的世界観の関係について研究。主著は『キリスト教と現代の世界観』 Christentum und moderne Weltanschauung (2巻,1911~14) ,『ルターと福音』 Luther und das Evangelium (53) 。⚫️

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下は私の油彩のコラージュ。

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下が、今読んでいる書籍。昭和九年刊行のもで、発行者は長崎書店、訳者は宮本武之助。私の師、山永武雄(白金教会牧師、フェイリス女学院院長)は、このシュタンゲを別の本で宮本と共同訳をしている。

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2020.08.02

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(416)8月2日 日曜日(千回を目指して)

「秦剛平」さん読み、が急激に減退したのは。結局のところ、彼の訳した「最古の聖書」である七十人訳ギリシャ語・聖書は。秦さんの学者的意識によればそれは、「謎」である、という面白さが。結局語句の句句の学者的ディテール探究、なので。僕の様に明治学院で子供の時から、要するにミッションスクールで徹底的に。キリスト教プロテスタント教育を全面的に受けてしまった、日本人が。87歳にもなって、まだまだ達することのできない外国の宗教が。なんで今も僕の、脳天を打つのかという深刻な問題を。秦さんが解決してくれるわけではない、と言って。コロナで世界が苦しむ時に。なに平然と生きている若者さえも。心の底では、結構このコロナを気にしている、様子がありあり見える。から、表面の強がりはともかく。素晴らしい体格を獲得している、今の日本人が。デカイなり、をして。実は内心。恐怖を一生懸命抑えているのが、わかる。あるいは推定する、あるいは忖度する、などという年寄りのクリスチャンとしては。ここ一番、出番であると、内心は思っているのである。が、なにせ浅学の身では、ろくな言葉も贈ることができないでいる。経験としていえば、この事態は。人類始まって以来のもではなく。過去にも。散々人間は感染症に苦しんでおり。ただ、庶民には。世界的情報網が昔はなかったから、恐怖を同時共有するなどということはなかったのであるが。今は、世界が一体的に。いろ色の事情は抱えつつも、結局同じ恐怖の同時的経験をやらされているという現実は。人類が初めて経験するネット時代の恐怖なのであろう、と思うと。基督教という人間救済の出番であるというのは、間違いのない僕の意識なのである。と、確信している。が、なにせどうも。秦剛平さんで、聖書というのは。新約聖書であれ旧約聖書であれ。いろいろ面倒な問題が、今もあって。考古学が一層精緻を加えると加えるだけ、聖書の欠点も深く見え出るので。(ここのところ朝の救急車のサイレンがけたたましいが、今もする)。ここらで、一層のこと。「基督教的世界観と哲学的世界観」という本に、読みを切り替え。昨日、じっくりとアンデンドゥで読書をしてみたが。確かに、小池都知事の緊急性がアナウンスされている影響で。アンデンドゥにも緊張感が漂い。いつもここのところ、椅子席の読書人が多かったのであるが。誰も今日は利用しておらず、ここの区で。商店街チケットの割引切符が発行されたらしく。若い女性が黙々と並んでそれでパンを買っておられ。知り合いの責任者の方も、やはり。どこか緊張していて。もっともであると思いつつ。1934年(昭和九年)に発行された、シュタンゲの本を。読みながら、なるほどドイツ人神学者はここまで当時緊張して。世界を描いていたのか、それもキリスト教を哲学し。世界の人々に、人類存在の。デリカシーを語っていたということを知り。僕らの様な、戦後クリスチャンが。決して納得しなかったその本からの、戦後思想の特殊性を割引いても。彼の書いたキリスト教的世界理解に、高いものを感じ。家に帰る準備をしたのである。が、梅雨の季節は明けた様だが。どうもさっぱりとした、夏らしい華やかさがないのは仕方がない、仕儀であるかと思いつつ。若い時には、毎年行っていた江の島散歩を夢に描いて。新生活には慣れない古い自分の、古い哲学は明日。ご披露したいと思いつつ。現代の画家筒井友美が描いた(下に動画やHPがある)「帰る場所」の。深層心理学的な作品を鑑賞する、朝として。流石に雨は去ったのであるか、と思える朝となったのはまことに慶賀と言うべきであろう。

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下は僕の「アジェのパリの街」油絵。

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2020.08.01

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(415)8月1日 土曜日(千回を目指して)

急に、いつもの僕の読書癖の様に。「秦剛平」さん読み、が急激に減退した。のは、結局のところ、聖書は。長い間に、様々に人間の手が加わり。改変されながら、ほとんど原書らしいものが、ない。と、わかったからである。新約聖書は、そうであるとは。かなり前からわかっていたが、旧約聖書(あのユダヤ教すら)まともな原典など、ないのであると知ったときのがっかり感は。論語読みの論語知らず、という言葉がある様な。事態に陥ってしまった。プロテスタントの信者の僕らは、どうしたことか。旧約聖書にはあまりなじまないが。だからこそ旧約聖書は、原典があって、ヘブライ語を勉強した時も。テキストに使われたヘブライ語は、本当に古いもので。聖書例証されると、それはかなり古い、徹底的な研ぎ澄まされた言語。ぐらいの高い意識でヘブライ語を勉強していたが。だんだん勉強が進んでいくと。さにあらず、ヘブライ語の現代語が出来上がるのは、つい最近で。イエフダーとか記憶する人が、なんとか。戦後の、イスラエル再建の時に現代ヘブライ語を「造語」して。凄まじい努力をし。なんとか今に復活した、というところまでは勉強していたが。戦前ドイツでも、ヘブライ語を話すユダヤ人などいなかった、ということも知ったのであるが。考えてみれば、彼らにヘブライ語を保持する理由が、ほとんどないばかりか。ユダヤ人という血統的人種は存在しても。長い間に、各国に寄留していて、そこにいたユダヤ人はもはや、ユダヤ人としての言語的存在形式など。寄留先の言語に馴染んで生活する彼らの環境から。ヘブライ語の保存などありえない長い間の。寄留ともいうべきでないその国の人間に、なりきっている。その国の人間、なのであると意識されて生活する人々の。ヘブライ語の聖書など。原典として保持しうる環境など。全くない。ということは、おぼろに知ってはいたが、まさか、旧約聖書ぐらいどこかで。それはユダヤ語(ヘブライ語)で長く保存された聖書、ぐらいに勝手に思いこみ。イメージしていたのであるが。旧約聖書も、まさに本当に原典がなく。新約聖書と、同じで。原典がない以上、いろいろ人の手が加わり。まさに、ほとんど、原形を留めないものである、式の書き方をする秦剛平氏を読み続けていると。いつの間にか我に帰り、原典がないのは当たり前で。聖書全般そのものが、実は散々人の手が入り。筆写されながら、改変され続けていた書物に過ぎない。と、認識したとたん。僕の信仰は、一時。音を立てて崩れ始めたが。その滑落崩壊も、精神というバランスシートでなんとか。力学的に止まって、大崩壊や大決壊までには至らず。なんとかかんとか、やっと堤防を緊急修理して。再び以前より豊かな、豊穣の実りの秋を迎えそうである、と思った途端。今度は、日照不足であるか、などと。精神の旅も容易でないと知って。今日も、聖書を。改めて秦剛平訳の旧約聖書で、読んでみるつもりになっている。が、彼の翻訳は本当に面白く、リアリティーが聖書に感じられる。ので、信仰者の僕の、真摯な信仰生活を活性化させてくれると、思っている。東京はコロナがますます増え続け、神に祈りて。何を祈るのであるか、国家財政赤字がリアリティーになってきて、か、自問自答して迷っている朝ではあるが。

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これらの写真は僕の実写。この辺り茨城県五浦付近。ここから石油が出るという、ニュースは。僕の貧しい脳天を打った。僕がここに行った時、本当の日本美に触れたのであるが。1枚目の草むらも美しく、2枚目は岡倉天心等が学び舎を作ったもので、再現されている。三枚目は、そこら辺りから有名な六角堂を撮影したもので。そのあたりの岩石から石油の埋蔵が、予想されると。いう、悲しきニュースが現実化するので、あるか。

 

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2020.07.31

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(414)7月31日 金曜日(千回を目指して)

大学者「秦剛平」勉強は僕にとって、実につらい。昨日、「七十人訳ギリシャ語聖書・モーセ五書」(秦剛平訳・講談社学術文庫・2017年)が着いた。ジュンク堂検索で、全く出ないのでわざわざアマゾンで買って。びっくり仰天。でかい箱に入って送られてきた。想像を絶するとは、このことである。本自体がでかいのではなく、厚いのである。普通の、日本聖書協会(銀座教文館ビル)制では、聖書は何冊ももっているので。実際大きさについて、普通の文庫程度にしか、予想していない。何せ剛平本は、文庫なのだから。今までの慣習的な印象で、ただ待っていたのである。ところが、これがびっくりポンで、怪物的である。それもたったの、旧約の五書が訳されているだけの、ホンの些細なものだとばかり思っていたから。で。この常識外の〈聖書〉を、面白いので。友人の画家にも送ることにした。まず、いつもの古書往来座に、古本を旅行鞄いっぱいに詰めて。まるで、ガラガラと海外旅行ではないかと、思われるほどいっぱいバックに詰めて。雑司ヶ谷駅から、さらにガラガラと、でかい音をたてて、エンコラどっこいと持って行った。ので、その帰り道にジュンク堂により、同じ聖書を画家に送ってもらった。のは、理由がある。多摩美大の秦さんを、本当にこの頃。理解する様になったのであるが、読んでみるとなるほどこの人は。多摩美術大学名誉教授であるべき人である、と心から思う様になった。のは、その聖書の宣伝文句が、的確であるからだ。「現存する最古の『体系的聖書』にして西洋文明の基礎文献、待望の文庫化」というもの。さらに続けると「ギリシャが強大な力を持っていたヘレニズム時代。エルサレムからエジプトに派遣された七十二人のユダヤ人長老が、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳し始めた。この通称「七十人訳」が、新興宗教の一つでしかなかったキリスト教を地中海世界に広め、その後の世界宗教としての展開を決定づけることになる」、である。この様な重要な事項の中に、当然絵画も入り。さらに、ヘブライ語聖書を無視したのは、宗教改革者ルターであると。続ける。ルターが、反ユダヤ主義的福音主義を構築するため、ヘブライ語から。聖書をドイツ語に訳さず、この七十二訳のギリシャ語聖書から聖書を訳して行くのは、問題であるとスッパ抜いたのが。剛平さんなのである(この辺りは実に難しい、デリケートな大問題で、真実がわからないのではないか)。そこで、彼は、コツコツと、自分でヘブライ顔の翻訳に挑戦し、ギリシャ語七十人訳聖書と対比する、という、とんでもないことを始める。ともかく秀才なのであるが、僕の一つ歳下の人で。ほぼ同い年の人なのだ。僕は、着いたばかりの、剛平さんの聖書をざっと観察し。彼が言わんとしたこの「真実の西洋史」が、なんとも深刻であるということ〈だけ〉を知り。これでは、世界のキリスト教は、根本から掘り返されるのではないかと。ふと、危機感を持ったのである。実はここの物語書きも、これでは全く不十分で。基礎認識が全然できていない、のは。僕の聖書読み人生が、日本聖書協会編の聖書一本に偏っている、からであると秦さんに教えられる。ので。それは、ついさっき。僕の本箱から、「日本聖書協会100年史」(1975年刊行)を引っ張り出して、それを見る僕の脳天は。破れんばかりの一種のパニックとなって、今更ながら。宗教世界の恐ろしさを、感じる朝になったのであると、書いて今日は終わりたい。時、東京都の感染者も恐ろしげな数値を再度示し始めている、が。

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 筒井友美・「帰る場所」

 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 筒井友美ホームページ https://tsutsui-tomomi.jimdofree.com (HP)

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2020.07.30

永遠の生命と、人間存在の希望の研究(413)7月30日 木曜日(千回を目指して)

秦剛平さんをもっぱら勉強している。のは、クリスチャンの僕にとって、実につらいことである。確かに、翻訳上のディテールを。あそこまで追求されると「聖書」も、立つ瀬がない。モーセ・レプラ説の追求とか。キリスト教にとって最高に重要な、七十人訳の聖書が。結局、ユダヤ人がローマ帝国領地、アレクサンドリアで生きていくために、ヘブライ語の聖書を。ギリシャ人に受け入れやすい様な用語で、適当に。うまく翻訳している、という実例を秦さんは挙げて。さらに映画「アレクサンドリア」の。素晴らしい知的美人女優、レイチェル・ワイズが演じる。古代の、女性天文学者を追い込んでいく、初期キリスト教の公認宗教の冷酷な描き方、などは。圧巻にして稀有な。恐るべき価値転換の、ニーチェ 的描き方は。僕の脳天を打ち砕く、ので。本当に僕の、クリスチャン生活はがたがたである。それでも僕は、昔。ヘブライ語を教えてくれた加藤久美子先生(南山大学准教授)の、あの時受けたヘブライ語授業の、ノートを保存してあるので。昨日、池袋キンコーズに行って、二冊目の製本とし。つくづく見ると。その、圧巻の、ヘブライ語ノートの中に。ヨブ記の一節を見つけて、今更ながら読んで揺らぐ、自分の気持ちを抑えたのであるが。それは次の様なものである。ヨブ記から、「わたしなら、神に訴え・神にわたしの問題を任せるだろう。」。この箇所こそ、ヘブライ語勉強の最後の文章の一節で。それは、五章の八節の文章で。実に、印象的な予言的な言葉であるからこそ。僕は、さらなる、聖書の研究(内村鑑三的)をおこない。女優ワイズが演じた古代の、素晴らしい女性天文学者を死刑に追い込んでいく。初期キリスト教徒達がいかにも。ローマ帝国のキリスト教公認という、政治的勝利の結果すぐさま腐敗しつつ傲慢になり。今までの抑圧された憤懣を吹き出して、権力と結託し、真理を排撃する様の。政治的歴史的事実を知らされる僕の、クリスチャン仲間の、教会史的無様を。ビデオで何度も繰り返し観ながらホトホト。人間のやることの浅はかな無様を、嘆いて観ても。結局は、自分と同じの人間の所業を見るに過ぎず。それを追求せずに、神に任せて。モーセ・レプラ説という、恐るべきユダヤ民族史を。フロイトの説明ではなく、いかにももっともな常識説として、考える前段を。今日は書いたのであるが、きっと何がなにやら。さっぱりわからない、文章だと。祖父ネットの読者は、思うに違いないと思いながら。今日は、これまでとしたい。早く鬱陶しい梅雨が、本当に。開けてよ。と、天を睨んでお願いしている。ただし、以上の面倒な話を、Wikiで集めておいたので、ここで以下に貼り付けておきたい。どうもアレキではなく、アレク・サンドリアが正確の様だ。⚫️⚫️『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされている[1]が、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る[2]ヘブライ語で書かれている。『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。⚫️⚫️『アレクサンドリア』(原題: Ágora)は、2009年に公開されたスペイン製作の映画。西暦4世紀、キリスト教が定着し異教の排斥が行なわれ始めた時代の、女性天文学ヒュパティアの学問に殉じた半生をアレクサンドリアを舞台に描く。天動説に疑問を感じ、何らかの地動説を肯定できる理由を模索し続けた彼女は、弟子のオレステスや奴隷のダオスに愛慕を受けるが、それを拒み研究に没頭してゆく。その一方でキリスト教徒は、自らの宗教の絶対性を民衆に訴え、古来の神々を愚弄する。ヒュパティアの父テオンらはこれに憤り、剣を抜いて応戦するも退けられ、クリスチャンである皇帝は異教徒の一方的な罪を宣告する。アレクサンドリアの大図書館は異教の魔窟として破壊され、異教徒には改宗か出国しか道は残されなかった。その中で改宗を拒み、青年たちに学問を教え続けるヒュパティアは、都の人々から魔女とみなされる。⚫️⚫️スペインのアメナーバル監督は、極めてキリスト教色の強い人なのだそうだ。その人が、ヒュパティアの物語を撮ることにあたっては、相当の覚悟を必要としたのではないか。アレクサンドリアときけば、科学や天文学が進んでいたことを思うが、歴史の中では、その芽が無残にも摘み取られてしまうことになる。その様子を、興味深く観ることになる。ヒュパティアは、自らの叡智を宿した、純潔の肉体をバラバラにされ、虐殺されるという非業の死を迎えることになるのだ。古代の神々、たとえば古代エジプトのオシリス神もそうであったことを考え合わせると、そのことが復活再生であり、再生を司るがゆえに殺害されたのだという逸話もわかる気がする。1600年を経て、アレハンドロ・アメナーバル監督のこのスペイン映画「アレクサンドリア」を観るとき、広大な宇宙の謎を解くことが目標だったヒロインの、数奇な運命を知ることは、とても興味深い。のちに、18世紀ヨーロッパロマン派詩人の間で、伝説の女性となったのもうなずけることである。それも、彼女が、史上最初の女性天文学者だからだ。科学が、宗教の前に敗れたのだ。そこから、暗黒の中世は幕を開けたのだ。宗教が科学を破る・・・、そんなシーンをいまの時代に見るとも思わなかったが、古代アレクサンドリアの街の再現(復元)は、史実に虚構を交錯させた歴史絵巻をつくりあげた。

ローマ帝国末期のアレクサンドリアを舞台に、大勢の登場人物を配し、スペクタクル史劇として観るかぎり、ドラマが壮大な作品のわりに、終盤のあっけなさは少々寂しい。21世紀のテクノロジーで、1600年の昔を体感する映画だ。⚫️⚫️

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 筒井友美・「帰る場所」

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 筒井友美ホームページ https://tsutsui-tomomi.jimdofree.com (HP)

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下は近代でイメージされた、古代の天文学者。このイメージが映画に利用されている。

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筒井友美の個展会場での撮影。撮影者は僕。

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