2012.01.01

(電子書籍)「日本ブロックゲージ生誕史」     杉山勝己著

プロローグ
 
 事件と言っても、自分の問題に過ぎないのであるが。

いつもの歴史癖が出て、ここ、迷いに迷っている。時間の経過にしたがって、問題は益々深くなるばかり。一向に、解決の糸口が見つからない。「事件」は本当に古い話で、言えば70年ほど前のこと。70歳の老人には、もってこいの旧聞である。が、ことこのことになると、古いだけでもない。国会図書館にも行き、二三の人とも会い、少しは糸口がつかめた。人生問題であると言えば、そうなのである。

 ここのところのことであるから、ある暑い夏の夜のことで。夜は9時に寝、朝は5時に起きると言う、老人習慣も何とか板につき始めた矢先、なまあたたかい風が吹いていた。もう寝ようかと思っていると、友人から電話があった。電話はたいしたこともない、ギックリ腰の話である。マー老人らしいことで、ある人がソレになった、という。もちろんこんな夜に、わざわざ電話で言うような話ではない。で、話はここから。

 どうしてギックリ腰かと言うと、「重い津上のミシンを動かそうと思った」から、だという。で、友人は気にかかって、「津上」、と言うと、長野の、ですか、と念をおした。だいたい普通「津上」のミシンなど、今時聞いたことがない。それなのに、つい長野かと聞いたのだそうだ。これが、事件の発端である。

 言った方も聞いている方も、「今時」ということを、本気に思っている。今時、ミシンメーカーで「ツガミ」など、知っている人はいない。それはもっともで、現在売られているものではない。確かに70年には満たないものの、実はあったものだ。

 友人は絶句してしまった。普通「重いミシンを動かして、、、、」と、表現してもおかしくないことであるが。わざわざ重い「ツガミ」のミシン、とその人は表現したのである。ともかく、友人はその人と会う約束であったが、そんなことで行けなくなった、という話に過ぎないことであった。

 実は二三年前、友人は信州にあるツガミ工場の、桜並木を見学に行ったばかり。桜の余りの美しさに、大いに記憶に止めていたのである。ツガミの桜見物は、私が主導者である。ただ、私の目的は桜ではない、ツガミの工場(小海線北中込/写真)を見るために行ったのである。旅行目的は、他にも盛りだくさんで、それは友人がプランしたもの。ツガミ工場は、旅程の最後の見学地である。そこから新幹線佐久平駅に出、東京に帰ったという経緯であった。

 で、友人は「ツガミ」を知っていたのである。「ツガミ」は、精密機械工業で有名な上場会社である。あるいはだから、ツガミだけなら、知っている人はいるかもしれない。しかし、「ミシン」まで知っている人は、そうはいないはずである。くどいけれど、70年も前の古いはなしであるから。

 ギックリ腰の話が、少し大げさになったようだ。結局、それは私をして「工作機械の歴史」、に思い到らしめた。ミシンとは戦後すぐ、ツガミが平和産業の証として生産したものである。「もの作り日本」の原点は、工作機械にある。それが維新以後、軍需を起点として発展したのである。突き詰めると、西洋文明の二大ショックは、キリスト教と機械文明である。その機械文明の華が戦艦大和であり、あの巨大な大砲の口径を見事にくりぬいたのも、工作機械である、ということに思い到った。

 ツガミを興した津上退助氏は、ブロックゲージの国産化に成功した。しかし私には、ブロックゲージが工作機械にとって、どれほど大切なものかは理解できない。しかし、彼はそのことによって、工作機械メーカーとして、経営を乗り切ったのである。まず長岡に大規模な本社工場を造り、その余勢で中込に新工場を増築していた。そして終戦、軍需品はたちまちミシンに変わり、というお話である。
 そのミシンが、ギックリ腰の原因となった。その持ち主が津上研蔵氏であり、退助氏の弟である。それが子孫に伝わっていて、もちろん持ち上げた人は、その子孫の人である。私たちは早速お会いすることにした。誠に奇縁と言うべきであろう。何しろ私の祖父が工場の設計者、現場監理を父が行っていたのであるから。

 それにしても、そこから思い到ったことは、矢張り歴史である。「工作機械」の歴史を知らなければ、ツガミのミシンを理解できないな。私は早速ジュンク堂に行き、二冊の本を手に入れた(老人神学/その五にある)。素晴しい本が手に入った。今まで手にしたことがない本、「工作機械史」を書いたのは女性、それも北海道大学経済学部出身の学者である。意外だった。その内容は見事に技術的であり、文系と理系を仮構する人としては、この人にまさる人はいない、と敬服した。

 ただし、そこにはブロックゲージもツガミも記載がない。工作機械は、維新後直ちに日本のもの作りに貢献し、歴史を重ねていたのである。それまで、日本民族が木の加工者であり、金属の加工者として登場するとは、世界の誰しもが思っていない時代。そのエキサイティングな物語は、実に読み応えがある。

 私たちは友人の家でお会いした。ギックリ腰が治った彼女の上品な物腰と品格は、私を感動させた。彼女こそが、私たち建築設計の施主、ということが嬉しかった。既に70年の歳月が経過しているが。

 長尾克子著「工作機械の変遷」(日刊工業新聞社/2003第2刷)を読みふけっている。この本は著者長尾氏も言うように、一般受けする本ではない。しかし、よく読んでいくと、そこにはさまざまな歴史の事象がうずたかくそびえ、興味はつきない。むしろ一般受け、するのではないか。激動の幕末史は、多くの人を引きつけるが、それは人の歴史そのもの、であるからだろう。だから、維新以後、剣を機械に持ち替えた人々の歴史も、政治史と同じようにエキサイティングである。まれに見る工学書である。その上、機械は再び、剣(軍事)となって。

 思想的に言えば、儒教をキリスト教に置き換えたような、人の歴史。その代表者が内村鑑三、それを書くミッシェル・ラフェイ美貝氏の「なまら」本の英語部は、読み終わった。これをすらすら読めるようになった、70歳の祖父ネットにも、語学習得上の秘訣がある。ただ、これを言うと話が拡散する。いずれ二冊の本を、一つの流れにして書いてみたいものだ。

 工作機械史本を探し当てたとき、まずツガミの記述を探した。しかし、立ち読み程度では見つからなかった。前回でも書いたように、私の祖父も父も、今日(2011/7/20)肺ガンの手術をする友人の父も、ツガミ軍需工場の設計や建設に深く関わった。これをここで書かなければ、父祖が我々に隠し続けた、「それは軍需工場だった」という意味が、空中分解してしまう。
 
 我々戦後に成長した津上製作所建設の子孫たちは、それを隠蔽され続けた。それは、我々(子供たちに)、なにか言い知れぬ不満を残した。戊辰西南日清日露日中日米英蘭の戦役は、多くの戦争英雄を生んだ。我々はそれを、多少記憶に止めている。戦争英雄談は、子供の心を沸き立たせた。今の子供たちが、サッカーに夢中になるのと変わりがない。

 しかし、それは、戦後の一瞬の輝きに過ぎない。日本の平和は、日本戦争史を、時間をかけて消却してしまった。父祖は沈黙し、その沈黙が、真摯な戦闘意識を闇に追いやり、沈殿させ、秘密として蓋をし、汚物として再び浮き上がらないように、錘をつけられ、深い海の底に沈められた。深い闇の海に追いやられた痛ましい記憶は、しかしうずくこともある。なぜそんなものを探そうとするのか。もちろん自分を、知りたいからである。

 長尾氏は機械本で、戦艦大和建造のディテールを語り始める。それは、「戦艦大和の最後」の著者吉田満氏が経験した、凄惨な戦闘の場面と重なってくる。


その一 

  老人神学を老年神学に改め、特にブロックゲージを書くということになったが、まずはなぜか聖書のことから。旧約聖書の詩編第16編6節から題名を引用した本に、「準縄(hakarinawa)は楽しき地に落ちたり」(写真)がある。教文館が出版したのが昭和36年(1961)、当時は300円だった。

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 楽しき地とは、この地上のことか。神の準縄(hakarinawa)と読ませるのに、日本語訳で「準」を使ったのは、「基準」から来ているのだろう。それは絶対を意味し、それがブロックゲージと結びついた。ある日ブロックゲージの件で、未知の人を尋ねた。友人の知りあいで、ブロックゲージの発明者津上一族の人、私が「ミシンの姫」と命名した人の家である。友人は孫を同伴した。その孫に、彼が突然「JI JI」 と呼ばれた。爺(じい)は漢字では、かくのごとく書く。それをローマ字で書くと、JI 。モダンなローマ字響き、ただし、それは私の頭の中のことで。待ち合わせした自由が丘の駅では、単なる「じじい」にすぎないが。孫のいない私は、多少のショックを密かに覚えて、未知なる人の家にお邪魔した。
 着いてから、丁寧なお茶のご接待を受けたあと、事前にまとめておいたレポート「日本ブロックゲージ生誕史」をご披露した。

 それをもとに、ここ祖父ネットで書いていく。少し長くなるかな。ともかく、古い戦前の話である。ブロックゲージとは、精密工作物の長さを測る原器のことで。これを、何とかしてキリスト教にこじつけるのが目的である。ブロックゲージ原器は、まさに「ものづくり日本にとって、神のごとき存在」。


その二 

 披露したレポート用紙は、手書きで7枚、コッピーが1枚である。
それをもとに書いていけば、工業計量の原器とキリスト教の原理を、結束できるだろうと。

 ところが、ある奇跡が起こり、ボリュウームの見当がつきかねる。用事があって、その日は忙しい思いをした。年金組でも、少しは社会性のある仕事をしている。その責任者になったので、その仕事に時間がとられる。仕事は午後3時頃終わり、ホット、コーヒーなどを飲みに、いつもの喫茶店に行った。コーヒーが210円、気に入っている。ただその日は珍しく満席。で、次に少し高い250円のホットに、行くことにした。ホット椅子に座り、店からはさみを借りて、着いたばかりの封書を開封し、中の冊子をパラパラ。

 冊子は本ではなく、古本のカタログである。

 カタログとは思えない文庫本のような立派な本で、古い聖書なども結構載っている。で、発行者の南雲氏とも、電話で話すようになった。氏の古書店修行は、神保町の友愛書房、キリスト教古書店では老舗の有名店である。そんなこんなで、古い付き合い。いただいた冊子の数も相当になる。ときどき、古書店カタログらしく、春画も入っているから、老人閑居して盗視もしている。と、今回も気楽にコーヒーを飲みながら、頁をくくり始めた。今回は、、、、期待したものは、、、、、ないなーー、などと。

(写真は世界ではじめてブロック ゲージを発明した、カール ヨハンソン氏/Wikipediaから)
 
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その三 

 まさにパラパラと、めくっていた、と、突然。ある写真が目を射った。それは複数枚、その一部を下に貼付けておいた。一番上の写真は株式会社渡辺鉄工所(九州飛行機)の「橘花」(kikka)の胴体設計図表紙。「橘花」とは、戦中に作られた大日本帝国海軍、初の、ジェット戦闘機の名前。二番は、「橘花」の設計図、タイトルがかすかに読める。以上が、今回、長く書くことになったきっかけである。
 

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その四

 精密機械工業の母とも言えるブロックゲージは、日本では津上兄弟によって発明された。今回、主に参考にした本は、「ミシンの姫」が大切に持っていたもので、「精密機械〈津上〉/産業フロンティア物語」ダイヤモンド社刊/昭和46年(1971)である。この本は国会図書館にもない。当時の価格は250円。あれから40年が過ぎた。本は当時、250円か、、、。

 それを元にレポートをまとめ、それを「奇跡」と表現した。「南雲カタログ本」が偶然に重なったのである。本当に、私の目を射ったのだ。びっくりしてコーヒー店を飛び出し、すぐに南雲さんに電話、資料を見たいとお願いした。ところが、すでに売れたという。一式百万円もする古い資料を買う人がいる、とは、凄いものだ。売り先も秘密、が、古書店のルールだと言う。率直に驚いた。資料を発掘した南雲さんも凄いが。そこで仕方なく、祖父ネットに書くから資料を利用したいとお願いし、快諾を得た。それが、前回貼付けておいた二枚の写真である。

 しかし、話はもっと劇的で。南雲本に紹介され、目を射った写真の他に、カタログ本には立派な解説が書いてあった。それが今回ご紹介する本(写真)に通じた。いつものようにジュンク堂にすっ飛んで行って買った。

 南雲本の解説は、カタカナ漢字書きである。多分、博学な南雲氏が自ら書いたのだ。タイトルは「日本海軍ジェット戦闘機『橘花』設計図及渡辺鉄工所関係資料」。で、この「渡辺鉄工所」という会社を、「ミシンの姫」のダイヤモンド本から覚えていた。これが再び、目を射った。

 「渡辺鉄工所」はブロックゲージの発明者で、兄の津上退助氏が、若いとき勤めていた会社である。であるが、「橘花」という漢字が、読めなかった。今ではkikka とよめるが、目を射られたときは読めなかった。渡辺鉄工所だけでもショックで。その上、日本海軍「ジェット戦闘機」、でさらに興奮し。

 解説を書いてみよう。ここでは、ひらがな漢字書きとした。

 「橘花は第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発したジェット戦闘機である。橘花は日本初の純国産ジェット機で、しかしこれが我国で初めてジェット機が空を飛んだとされる瞬間であったとされる。生産数は僅か二機。終戦前には10機程度が量産状態に入っていて、その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた数機は試作の二機のみであったと云う。なお完成していた二機は終戦直後に敗戦に悲観した工場作業員によって操縦席付近が破壊されたものの、研究用に接収しようとしたアメリカ軍により修理が命ぜられた。修理完了後その内の一機はアメリカ軍が接収し、メリーランド州ノバタクセント・リバー海軍基地に置かれたが、現在スミソニアン航空宇宙博物館付属施設に保管されているそうである。橘花の図面は全体からすればほんの一部で僅かである。図面は昭和20年7月25日の朱印。資料はその他福岡九州飛行機の前身渡辺鉄工所の図面目録の図面関係資料に90式二号水上機作業練習機性能計算書など。三菱内燃機株式会社名古屋製作所の図面資料も数点あり。」

 前回の写真二枚目の青図には、ネット上の写真ではよくわからないが、明らかに「橘花」という字が読み取れる。シリーズを書き終わり、今のように編集している段階では、上記の文章もよく分かる。が、びっくりしている当時では、概ね理解できなかった。ただただ、津上退助、渡辺鉄工所、九州飛行機、ジェット戦闘機「橘花」が、何らかの関係がある、と直感し一気に興奮していた。

 

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その五

 この話は勿論古い話で、と思いつつ。問題は「ブロックゲージ」であるが、今でも大事な精密機械の道具である。その発明が、戦争当時、日本のジェット戦闘機の出現に関与した、ということは、驚きである。日本でも、終戦間近、ジェット戦闘機を造ったのか。知らなかった、のである。

 当時のジェット戦闘機が、敗戦必至の戦局を、一気に覆すパワーがあると思ったのか。日本人の人命と国民財産の損傷を避け、早期終戦に、と言うシナリオに踏み切れなかったのも、今までに無い武器に希望を託した、のかもしれず。ドイツは原爆開発とジェット戦闘機では先行。が、言うまでもなく日本より早く降伏している。そのドイツから、潜水艦で設計図面が運ばれたのである。その物語は、前回紹介した「橘花は翔んだ」(屋口正一著/元就出版社/2005)に詳しい。

 以上の物語を辿ると、実に悲しい。ドイツや日本の、戦後「幸福もの作り」を支えたブロックゲージ、ではるが。優秀な技術ほど、悲惨で愚かな「戦争の道具」になる。はじめは、単純で懐かしい、昔の技術者名人伝。に、過ぎなかったものがあの戦争期、精密機械工業が生み出した不幸となった、のか。戦争とは、また、技術の進歩のことである、か。ノーベルのダイナマイトも、福島の原発も。将来の宇宙戦争も。くわばら、くわばら。

 あのとき「橘花」記事発見と、「ミシンの姫」との遭遇。もっと言えば、「ミシンの方」とも称すべき御方(おんかた)とお会いして後のこと、さらなる奇跡。

 何気なく古書ネットを観ていると、フト、津上退助創業の「津上製作所」が目に入った。調べてみると、戦中の津上製作所の決算書と株主名簿(写真)である。東京の古書店にあり、さっそく買いに。手にして感慨に耽った。なにせ、昭和16年のもの。昭和16年、1941年、私の生まれた年。そして日英米蘭が開戦した年、クリストファー ソーン氏言うところの、極東戦争の山場、言うまでもないが。こんなものが、残っていた、とは。

 そればかりではない。さらに愕然とするのは、決算書の中身である。当時の軍需会社津上製作所が、あまりにも多額の利益を出していたということ。そして、さらに驚いたことは、私の祖父石川寛三の名前が、株主名簿に載っていた、ということ。

(下の二枚の写真は、私の手元に今ある実物である。全部で7冊ある。)

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その六
 
 日本のブロックゲージの発明者津上兄弟と、日本初のジェット戦闘機「橘花」を結びつける、確たる証拠があるわけではない。終戦時、多くの国家機密書類が焼かれた。多分この話も、その中に入っていたのであろう。

 しかし、関係資料を慎重に読み解いてみると、明らかに、それは深い関係がある。「〈精密機械〉津上」(写真)によると、氏の自叙伝で、「十万分の一」という前半生を書いたものがある、と書かれている。ダイヤモンド社本は、その本を参考に書く、とある。しかし、私には自叙伝が手に入らない。そこで、ここではダイヤモンド社本から、すべてを考えてみる。他にも国会図書館には、参考になる本がある。

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 「橘花は翔んだ」には、その深い関係をにおわせる箇所が、一カ所だけある。本では軍事関係施設の「呼び名、呼称」が複雑に変転する。当時は機密保持のために、名称を簡略化したり、記号化したりしたのであろう。読んでいて、どこが元の名称なのか見当がつかない。まして、昭和20年は敗戦の年、混乱は一段と深まる。しかしその中に、津上製作所との関連が臭う箇所がある(48頁)。それは「南雲カタログ本ショック」を時に越えるが。

 昭和20年終戦に近い頃、ある場所で「橘花」生産計画が行われた。その結果、生産台数の大筋が決められた。以下、生産場所、生産数である。
三菱造船/500機
九州飛行機/100機
第一軍工(中島飛行機)/24機
第一空厰(海軍航空技術厰)/24機
この二行目にある「九州飛行機」こそ、若き日の津上氏が、勤務し活躍した会社である。臭い立つ、とはここのこと。それも、ただここ一カ所のみ。ここを糸口に追求してみる。

 ダイヤモンド社本では、津上氏と九州飛行機をつなぐ線があるということを、強くに臭わす。ただし、1971年(昭和46年)に書かれた、言わば会社紹介の宣伝本である。戦前を否定し、戦後復興期の平和を強調する時代。そのため、九州飛行機が、渡辺鉄工所から九州兵器へ、そして九州飛行機と発展していく変遷は、詳しく書かれない。三菱重工(三菱造船)などのような大会社が、戦争協力の話をしても、巨大会社が傷つくことはない。しかし、はるかに規模の小さい、戦後経営体である津上製作所は傷つく。原器ブロックゲージ発明が、あくまでも個人とその事業に、深く重なっているからであろう。また、それだけ闇も奥深い。

 本の「かたりべ」としての津上氏の真意は、戦争とブロックゲージの関係こそ、「語りたい物語」であるはず。ダイヤモンド社本は、吐露したい心を押さえた記述(たぶん口述筆記)で、編者としてのダイヤモンド社が、時代に合わせて推敲したものであろう。しかし、それで実態を覆い隠すことはできない。津上氏個人が語ったと思われる記事は、津上氏が世間に知ってもらいたいと言う、欲求や深層の痕跡を残している。

その七
  
 まず目に付くのは、「伍堂卓雄」という人である。氏はWikipediaに出る。が、ここでは重要な人なので、わざわざ簡略化して転載し、読者の便宜としたい。

 1877(明治10年)〜 1956(昭和31年)の人で、79歳で亡くなっている。氏は政治家、実業家、海軍軍人、海軍造兵中将という怪物である。石川県金沢市出身で、旧制二高を経、1901年東京帝国大学工科造兵学科を卒業した。卒業後、海軍造兵中技師となり、海軍大学校教官を経て、1924年(大正13年)呉海軍工廠長となった。また、同年、海軍造兵中将に昇進した。1928年(昭和3年)満州の昭和製鋼所社長に就任し、翌年には満鉄理事となった。さらに、1937年(昭和12年)林内閣で商工大臣兼鉄道大臣となり、また貴族院議員に勅選された。

 1938年(昭和13年)、日本商工会議所およびその会頭に就任し、1939年(昭和14年)阿部内閣の商工大臣兼農林大臣となった。戦後首相となった岸信介氏を、商工次官へ起用したのは伍堂氏だと言われている。その意味で、戦後史にも大きな影響を与えた人物である。1942年(昭和17年)日本能率協会会長となり、翌年には商工組合中央会の会頭になった。1945年(昭和20年)、軍需省顧問に就任している。さらに戦後、A級戦犯容疑で巣鴨刑務所に拘留されたが、1947年(昭和22年)に釈放された。

主な著書は次の通りである。
『工業用金属材料学』博文館、1903年。
『伸びゆく独逸 - ナチス・経済の実相を視る』日本評論社、1938年。
『東の日本・西の独逸』金星堂、1938年。
などである。
『国防資源論』日本評論社、1938年を編纂している。

 また最近では、裴富吉著『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』三恵社,2007年8月、があるらしい。(実は、この本が後でポイントになった本である。)

 このような人物が、津上本に出てくる。この人物は、今ではまったく無名にちかい。が、裴富吉氏という方の本などから、最近でもかなり重要な人物である、ということも分かる。津上氏は、その伍堂氏から話を聞き、「ブロックゲージに捕らえられた」と回想している。以下、津上本から転載してみよう。

「ちょうどそのころ(九州の渡辺鉄工所に勤務していた青年の頃)、ドイツの視察旅行から帰って来た伍堂卓雄さんから、『ドイツが第一次大戦であれだけ兵器の補給ができたのは、部品に互換性を持たせることに成功したからだ。互換性を持たせるには、作った品物の部品をどれと取り替えても同じになるように、部品の寸法をある公差範囲で作らなければならない。そのためにはゲージを使うこと、そしてそのゲージの正しさを調べるための原器/ゲージブロック/と言うものを使わなければならない。』という話を聞いた。」
とある。

 話を聞く前の津上氏は、渡辺鉄工所(現在でも存続している)で、ロシアから注文を受けた軍需品の製造に携わっていた。その時代、ゲージなどはなく、もっぱら職人技に頼る時代であったという。仕事は、実際にはなかなか思うようにいかず、苦しんでいた、と書いてある。その上で、伍堂氏の話が、津上氏にとって衝撃となった、というのである。

 しかし、この話は出来過ぎでいる。虚構とまでは言わないが、その後の資料で、伍堂氏と津上氏の交際は一生に渡っていると思われる。津上兄弟がブロックゲージ研究に携わるきっかけや、その出資者として、伍堂氏の陰が濃厚である。そこで、

裴富吉著『伍堂卓雄海軍造兵中将―日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想-』三恵社,2007年8月を、読まねばならない。

 第二次世界大戦中における大東亜戦争、その中の日米英蘭中戦。その敗戦によって、隠蔽された日本の軍事史は膨大であろう。しかし、今でも「伍堂卓雄」氏を研究する学者がいるのか。それならばさらに、伍堂氏が視察に行ったという、ドイツの精密機械史も知りたくなる。

「ドイツ工作機械工業の20世紀/メイド・イン・ジャーマニーを支えて」幸田亮一 著/多賀出版/2011年、であるが、目次は下の通り。

第1章/危機と再編の1920年代
第2章/ドイツ合理化運動と工作機械工業  
第3章/VDF旋盤の誕生  
第4章/1930年代のドイツ工作機械工業  
第5章/戦間期ドイツ工作機械工業の地域構造  
第6章/第二次大戦中のドイツ工作機械工業  
第7章/第二次大戦後ドイツ工作機械工業の復興過程  
第8章/高成長期の西ドイツ工作機械工業  
第9章/西ドイツのNC工作機械工業

  
(写真は二枚とも、津上製作所信州工場の付近の風景。単線鉄道路線は小海線。)

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その八

  裴 富吉著『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』三恵社,2007年8月を、ジュンク堂にネットで申込をした。津上兄弟の、ブロックゲージ発明と伍堂卓雄氏とが、どのように結束しているのか。興味が湧き出る。

 もっと深く知りたい、とはいえ、著者「裴 富吉」の名前の字が読めないでは、どうにもならない。そこでまず、漢和辞典で調べる、と、はじめは「もと」と読む。「moto tomikichi 」と読むのか、どうか。その上「伍堂卓雄」というひとも、名前に親しみがない。要するに聞いたことがない。70歳の祖父ネットにしてこれだ。今の若い人など、およそ縁のない話だろう。

 しかし、すべての産業の原器たるブロックゲージは、今も原器である。勿論、現在の計測は電子計測である。宇宙飛行士が頼るのも、「計測」である。一分一秒宇宙は変わらないから、人間は大きなことを言って、そこを遊泳できる。それにしても、「ブロックゲージ」は、普通に馴染みのあるものではない。工作機械や精密機械というジャンルも、親しみがないだろう。むしろ退屈なはなしであろう。その上、人物のイメージがわかない。

 しかし、津上本のブロックゲージは、実は文学的である。そしてゲージ原器が、社会に与えた歴史的役割は、誠に大きい。社会ドラマそのもので。津上本は書く。

 「私はこの話(伍堂卓雄氏の)に心魂を激しく揺すぶられた。『日本の機械工業の根本は長さのスタンダードとなるゲージブロックをつくることが先決だ。』」
「精密機械という言葉もまだない時代であったが、」
「この決意は、日本の機械工業にとっても、歴史的な決意であったといってよいであろう。」

 と書き、津上退助氏の個人的な青年期の経歴に及んでいる。それによると、「親類筋の渡辺鉄工所や佐賀財閥の総帥牟田万次郎の事業の経営をまかされ」「渡辺鉄工所は、まったくの町工場から、のちに九州兵器となり、九州飛行機に発展するのであるが、」「その基礎を築いたのは津上青年であった。」となる。

 ここで紹介をした、「裴 富吉著『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』三恵社,2007年」のダイジェスト版がネットにあるので見ると、その中に、ブロックゲージに関する、極めて重大な情報があった。

  
(写真は、津上製作所信州工場の付近で、祖父ネットの故郷となったところ。昭和16、7年頃大阪からここにきて、小学校3年までを過ごした。写真の一番奥が、住まいのあったところ。)

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その九
  
 下記のhttpは、伍堂卓雄氏の件を裴 富吉氏が書いたものである。話が早いので、ぜひ観てもらいたい。

 ここでは書き出しの部分だけをコピーし、さらに、ブロックゲージと伍堂氏、そして津上兄弟との関係を推定させる部分だけを、書いておきたい。後は、全体をゆっくり観て下されば、ここでくどくどと書くよりよいと思う。
http://bbgmgt-institute.org/GODOU-PRESEN.pdf#search='伍堂卓雄'/
その冒頭は、次のようになっている。多少読み易いように編集しておいた。
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日本産業能率史における伍堂卓雄
【インターネット版公開発表資料】裴 富吉
(経営史学会第44回全国大会発表資料)
(2008/10/12/立教大学)
①「経歴の特徴」
保阪正康『大本営発表という権力』(講談社,2008年)は,昭和18年(1943)第81帝国議会での東條首相に質問をした「海軍出身の財界人で,貴族院議員だった伍堂卓雄」というふうに,この伍堂卓雄を表現している(同書,169頁)。
☆ 海軍出身の軍人能率指導者。
☆ 壮年期以降,財界人として活躍。
☆ 貴族院議員となり政界で重きをなした。
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さらに裴 富吉氏がブロックゲージとの関係を明らかにした部分。
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◎ その3「呉海軍工廠砲熕部における科学的管理法」
⑴「リミット,ゲージ」工作法ノ採用
⑵「リミット,ゲージ」工作法ト科学的管理法
⑶ 砲熕部ノ管理組織……大正10〔1921〕年7月以前における呉海軍工廠砲熕部の管理組織は,「砲熕部管理組織(大正10年7月以前)」のとおり,軍隊式管理法であった(同稿,316頁)。しかし,このような組織のもとで,“リミット・ゲージ”工作法を有効に実施できないことがわかったので,種々管理法の改正について研究を重ね,試験的研究時代を経て,ついに大正11〔1922〕年12月以降、大正12〔1923〕年11月まで,「砲熕部管理組織(大正11年12月~12年11月)」に示した新管理法を採用することになった。さらに「砲熕部管理組織(大正12月12月以降)」の組織図も提示されている。

◎ その4「リッミット・ゲージ・システムの能率向上効果」

「リッミット・ゲージ・システム用工具」は,リッミット・ゲージ・システムに使用する工具〔リッミット・ゲージ〕の図解である(左:『工政』昭和3年6月,17頁,右上:『機械学会誌』昭和6年8月,1144頁,右下:『工業と経済』昭和13年2月,59頁。なお,東京鍛工所とは現在のTDF株式会社)。『工政』は,伍堂卓雄の「論文」に続く別稿の「論文」中に掲示されていたもの。
「リッミット・ゲージ・システム」は,その使用による能率向上の実績成果を,図解に示したものである(伍堂卓雄「製産能率より見たる工業品の単純化」『工政』昭和3年6月,17頁,18頁)。

◎ その5「参考文献」

原 輝史編『科学的管理法の導入と展開-その歴史的国際比較-』昭和堂,1990年。
橘 博『科学的管理形成史論』清風堂書店出版部,1990年。
高橋 衞『「科学的管理法」と日本企業-導入過程の軌跡-』御茶の水書房,1994年。第3章「呉
・広両海軍工廠における「科学的管理法」の導入」(205-262頁)。本書は『本報告』に関連する詳論がある。→「科学的管理法」から「産業合理化」を強調。
佐々木 聡『科学的管理法の日本的展開』有斐閣,1998年。
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 かなり長くなったが、いかがだろうか。ここまで詳細であると、どうしても裴氏の本そのものが、必要であるが。津上兄弟のブロックゲージ発明は、軍需産業と国家権力が絡み合っていたことは、もはや疑いがない。広島が原爆のはじめの目標となり、次いで津上製作所長岡工場も、その主な目標の一つであったということが、これで納得できる。

  (写真の人物はブロックゲージの発明者津上兄弟の兄、津上退助氏。
下の写真は津上製作所が、原爆投下対象工場と明記されている書籍。)

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その十

  祖父ネットが、概ね5年ほど前に書いた「ある冷蔵倉庫物語/創元設計小史」に、ブロックゲージを書いたことがある。それは次のようなものである。
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ブロックゲージ gage block
 ブロックゲージはスウェーデンのヨハンソン、 Carl Edvord Johanson(1864〜1943)によって発明された。ヨハンソンは互換性生産方式における、工場の測定体系を機械化するため、小さなゲージを数多く作り、これを多数組み合わせて兵器の生産に必要なすべてのゲージを作りたいと考え、1894年(明治27年)にブロックゲージを発明した。日本では1931年(昭和6年)津上退助によって発明された。
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 当時、パソコンの平凡社百科事典から転載した。文面は、少し訂正したが、書いたときを思い出す。「ある冷蔵倉庫物語」は創元設計(旧、石川建築事務所)の歴史であり、冷蔵倉庫設計の経緯が中心であった。が、戦中の津上製作所の工場設計は記録した。まして、私にとっては祖父と父の仕事であり、自らも現場近くで幼年期を過ごした。そこは懐かしい故郷である。しかし当時の記述は、津上製作所信州工場の建設、程度の話で、ブロックゲージの重要性など深く認識していない。しかし、今はまったく違ってしまった。津上本を読み解く目が変わった。

 津上退助氏が、渡辺鉄工所で活躍した後、上京したのが大正11年(1922)。その動機は、いかにも立身出世記述になっている。それが、怪しく思える。なぜなら、氏の勤務した丸の内の英国企業、「メトロポリタン ピッカーズ」という会社に、氏が勤める必然性はほとんど書かれていない。九州の青年が、なぜいきなり丸の内の一流英国企業に勤められるのか。その上、設計部門で設計図を描いていたと言う、それも午前中だけ。一体何の設計図なのか。さらに、午後は浅草の、「友人の工場の」一隅を「借りて」研究を始めた、と書く。また、後で明確になることであるが、ピッカーズとヴィッカーズの違いである。この発音上の違いのように見える社名は、意識的ではないか。などと、まで、考え過ぎだろうか。

 この「研究」は言うまでもなく、ブロックゲージの研究であろう。さらに、そこには旋盤、研磨盤、ボール盤、フライス盤など、4、5台がある上に、工員が二三人いた「ささやかな」研究所、であった、と表現されている。これが、いったいささやかだろうか。これを文脈として推理すると、午前中はブロックゲージと何らかの関わりのある英国企業で、見習いとして設計図を研究し、午後はその実地を実験的に始めた、と見るべきであろう。
 
 これら一連の行動は、九州からポット出て来た青年のやることではない。これは明らかに、周到な意図と資金が裏にある、と思わざるを得ない。もちろん、考えられる仕掛人は伍堂卓雄氏、金主は渡辺鉄工所(後の九州飛行機)と推定できる。

(注)このシリーズのポイントは、上記に記載され津上本にある「メトロポリタン ピッカーズ」という会社名である。それを「日英兵器産業史」奈倉文二/横井勝彦編著/日本経済評論社/2005によって読み解いている。はじめに「Metropolitan Vickers Export」ではないか、と思った。が、「Metropolitan Vickers」という会社名が明確に存在する。この辺りの経緯は同書313頁から始まる、「ヴィッカーズの第一次大戦後の戦略」を読み解かなければならない。それはそれ以前の、ヴィッカーズ社の膨大な歴史を知らねばならず、ここでそれを解説できない。

(写真は「我が故郷」の風景。)

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その十一

  「ゲージブロックを国産化しようという大志を抱いて上京した津上青年は、最初から他人の援助は受けない覚悟であった。」という内容には、津上本出版時の津上氏の苦衷が滲み出ている。むろん文字通りではない。事実は逆であって、何か大きな意図が働いていると考えなければ、つじつまが合わない。それは意外に早く発見された。

 ある親しい友人が「日本産業能率史における伍堂卓雄」という、例のネット情報をプリントアウトしてくれた。それを詳細に読んでみて、パソコンで読むのとは別な情報が目についた。それで分かったことは、まずネット作者の名前である。三恵社という出版社を調べ、電話して作者の名前を聞き出した。どうしても読めないからである。そして分かったことは、「裴 富吉」とは「ベエ・ブギル」と言う読みであると言う。通常「ベエ先生」と読んでいるのだそうだ。

 その人は、ある大学の先生で、『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』(三恵社/2007)は、教科書で出版数が少なく、在庫がないということも分かった。では、古書ネットで調べてみると、一冊だけ神田にあった。早速電話を入れて買いに行った。ジュンク堂に頼んでおいたが、今のところ連絡がない。

 津上青年が上京し、丸の内の英国企業に勤めた、と言う点が特に怪しい。と、書いたところで神田に行き、本を買った(写真)。その本をつくづく見ている。

  
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その十二

  『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』で、少し分かったことがある。まず作者の名前は「べえ ぶぎる」と読むこと。ローマ字では「BAE Boo-Gil」と表示する、と分かった。名前は怪しげだが、経歴は怪しいものではない。下記に書いておいた。

1947 足立区生まれ
1969 東京理科大学工学部経営工学科卒業
1976 中央大学大学院商学研究科博士課程修了
     札幌学院大学商学部、東京農業大学生物生   
     産学部、大阪産業大学経営学部などに在籍
     現在、中央学院大学商学部教授、経済学博 
     士(九州大学)
     専攻/経営思想史、経営学原理
 
 この情報は、他に市販されている裴 富吉(べえ ぶぎる)氏の本からも調べた。ネット検索では、音(on)でも、漢字でも問題なく出る。また、国会図書館検索も同じである。立派な学者だ。しかし、その内容には、いたって深刻な問題意識があるようだ。と、そんなとき、ネットで次のようなことも知った。

 「総代会の最強硬派として知られた青木一男は、大蔵省を経て、企画院次長から大東亜大臣となり、戦後A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された。青木と共に最後まで拘禁されていたのが岸信介である。巣鴨を出た二人は、揃って工作機械の名門・津上製作所(現ツガミ)の社外重役を務めた。」とある。つまり、戦中の大東亜大臣たる人が極東裁判で裁かれ、後の首相岸信介氏と共に出所した人が、なんと、戦後の津上製作所の社外重役で、生活をした、ということである。ここまで来ると、何おか言わんや。

 が、この記事のキーマンは、もちろん同じA級戦犯の伍堂卓雄氏である。など、裴 富吉(べえ ぶぎる)氏の本を読み解くのは、容易なことではない。神田に行って本を入手した後、ジュンク堂からも連絡があり、本が入荷したという。これで裴 富吉氏の同じ本を二冊手にした。が、本をまず詳細に読まねばならず。そこに流れる奥深い歴史の闇に突き進んで。

 戦争の闇が深くなるにつけ、このような歴史の中にある神の意思を、キリスト教徒として、どのように読み解けばよいのやら。などと、余計なことも考え始めた。人間の営為と、神の意志との間には、どのような関係があるのやら、とまで考える。このような思いに至ると、戦いの相手方アメリカの「プラグマティズム」の研究が必要である。教会のある先輩から、「引くに引けなくなりましたね」という、祖父ネット読後感をいただいた。そこで「プラグマチズム」(岩波文庫、初版1957/2011現在44刷)を少し読んでみた(写真)。本のカバーには次のような解説がある。

「プラグマチズムは、もっともアメリカ的なものの考え方であり、今日のアメリカ資本主義社会とその文化を築き上げて来た基調である。本書は、このような考え方を初めて体系付け、ヨーロッパの伝統的な思考方法を打破した点で不朽の功績をもつ。アメリカ的なものの見方の核心は、この一冊に圧縮されている。」つまり、このシリーズは、結局のところ英米国と戦争をする物語なのだが。そこで米国のヨーロッパ伝統とは違う、新たなキリスト教すら考えることに。ここに厄介な、歴史に内在する神の意志、などという難しい問題を持ち出した訳だ。ただ、後でクリストファー ソーン氏の本で、この戦争の真の相手は「英国」であった、と知らされてショックを受けたが。

  
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その十三
  
 『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』を読み終わった。本の冒頭にある年表の意味が、少し理解できるようになった。年表のトップは明治36年(1903)で。アメリカのテイラー(F.W.Tayor)という人が書かれ、近代機械工業の大きな流れは、どうもこのテイラー思想から始まっているらしい。

 ただ、問題は簡単ではない。見方をいろいろと変え、公平に見なければならないだろう。そのためには、さらなる読書。「生産システムの史的展開と比較研究」前田 淳 著 (慶応義塾大学出版会/2010)で、ジュンク堂のネット紹介では。「生産システム革新の内実に迫る資本主義的生産システムにおける、イノベーションと合理的な発展プロセスを、アダム・スミスの「ピン工場」、「テイラーシステム」、「フォードシステム」、「トヨタシステム」の比較分析により解明する。」と、なっている。

 上記に「テイラーシステム」、とあるから、裴 富吉氏が年表の冒頭に掲げた人であることは間違いない。テイラーは戦争のために、テイラーシステムを考えたわけではないようだ。氏は人類の福祉のために、生産の合理化を科学的に思考した、とある。それが結果的に、精度の高い戦争道具製造機構になる。その近現代技術の残酷な現実を書いたのが、裴氏である。いつの時代でも、人類にまとわりつく問題であろう。たまたま私は、1941年生まれ。由来「第二回目の世界大戦」、人類最大殺戮事件が私をとらえる。

 先日、「小尾俊人(Obi Toshito)」という方が亡くなられた。氏は「みすず書房」の創業者で、その創業は1945年とある。1961年、有名な「夜と霧」(フランクル著)を発行。その本の初版に影響を受けた。明治学院の中高で、たっぷりキリスト教に触れているし、図書館で太平洋戦争の悲惨な写真に見入っていた、ころ。同時に、トーランス著「カルヴァンの人間論」(教文館)なども拾い読みし、「夜と霧」に出会った。それは虚無の人生感を私にもたらし、若い私は悩まされた。

 ただ、そのあたりから、自分の意識的な人生が出発したのだろう。フランクルの腕の入れ墨、ユダヤ人識別番号119104は、今でも私を打つ。その時から、戦争の原因を探る旅に、今もさまよっている。大戦の原因を探すのは、容易ではない。しかし、裴 富吉氏の本から、裴氏の私とは異なる史的見解は別にして、歴史の持つすごみを感じる。津上兄弟が発明したブロックゲージと、裴氏の言うリミットゲージシステムは、通底したと思う。なお、「夜と霧」には、戦争で傷つき、死亡した人々の統計がある。それを下記に転載しておく。

 第二次世界停戦(1935−1945)における戦死その他の犠牲者数。はじめに国名、次の数字は戦死者及び行方不明者、二行目は傷病者数、三行目は一般市民の死者及び行方不明者数。

● オーストリア
220,000人
300,000人
125,000人

● 中国
1,500,000人
2,000,000人
膨大にして計量不可能

● フランス
245,000人
390,000人
152,000人

● ドイツ
3,000,000人
2,000,000人
800,000人

● 日本
2,565,898人
326,000人
600,000人

● ポーランド
550,000人
320,000人
5,000,000人

● イギリス
403、195人
369、267人
60,359人

● アメリカ
520,433人
668,653人
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● ソヴィエト(現、ロシア)
4、500,000人
5,000,000人
6,000,000人

● ユーゴスラビア(当時)
1,706,000人
不明
膨大
加えて、ユダヤ人虐殺総計は600百万に達した。

  
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その十四
 
 人類史に屹立する悲劇の碑、それが「第二次世界大戦」であろう。誰が、どの国が、どの人が、と特定しても特定しきれない、人間問題である。消そうにも消せない、見たくなくても見ざるを得ない、人類が経過した厳然とした罪の過去である。

 津上兄弟の発明した、日本における「ブロックゲージ」は、文字通り、その中の一つ。いや、その精化である。もちろんそこに、伍堂卓雄氏がいる。一方、それらの人々の努力が、今日の日本である。好書を、見つけた。「ドイツ工作機械工業の20世紀/メイドインジャーマニーを支えて」(幸田亮一著/2011/多賀出版)(写真)である。工作機械という「もの」を通し、ドイツが、いかに数奇な運命をたどったか。近現代ドイツの歴史が書かれている。そこに、個人であるヒットラー、ゲッペルスもいない。伍堂卓雄氏もいない、津上兄弟もいない。機械がいるだけ、しかし不思議に人間の総体が、機械を通し生き生きと表現されている。

 「もの」か「ひと」か。このやるせない問題を穿つ本を、さらに探してみよう。

 
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その十五

  「もの」か「ひと」か。裴 富吉(べえ ぶぎる)氏の本から多くの示唆を受けた。ジュンク堂の検索で、さらに下記三冊の本が手に入った。そのすべてを写真に貼付けておきたい。

一、「『科学的管理法』と日本企業/導入過程の軌跡」   
高橋 衞(Takahashi Mamoru)/お茶の水書房/1994

二、「日英兵器産業史/武器移転の経済史研究」奈倉文二、横井勝彦/日本経済評論社/2005

三、「中国に継承された『満州国』の産業/化学工業を中心にみた継承の実態」/峰 毅(Mine Tkeshi)/お茶の水書房/2009

  
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その十六

  以上三冊の本から、正確なことが理解できる。津上本における、津上氏と伍堂氏の出会いを、詳細に追って分かったことである。まず、津上本から、津上退助氏が語る部分を書いてみよう。

 「ちょうどそのころ、ドイツの視察旅行から帰ってきた伍堂卓雄さん(のちの商工大臣)から、『ドイツが第一次世界大戦(注、1914、大3〜1918、大7)であれだけ兵器の補給ができたのは、部品に互換性をもたせることに成功したからだ。互換性をもたせるためには、つくった品物の部品をどれとも取り換えても同じになるように部品の寸法をある公差範囲でつくらなければならない。そのためにはゲージを使うこと、そしてそのゲージの正しさを調べるために原器、ブロックゲージというものを使わなければならない』というみやげ話を聞いた。私はこの話に心魂を激しくゆさぶられた。『日本の機械工業の根本は長さのスタンダードとなるゲージブロックをつくることが先決だ。そしてこれをもとにして精密な機械をつくるようにならなければいけない。仕事の熟練度や職人のカンだけに頼っているようでは、少し精度の高い機械は、いつまでも輸入に頼っていなければならないではないか』と、痛感した。精密機械という言葉もない時代であった。」と、ある。

 以上を、伍堂卓雄氏から聞いたのが、津上氏27、8歳の時、とある。氏の年齢から考えると、ちょうど1920年前後(大正9)であろう。伍堂氏は戦後、A級戦犯となった後、巣鴨刑務所を出所し、戦後を生き抜く。前にも書いたが、繰り返し。明治10年(1877)に生まれ、亡くなられたのは79歳であった。明治34年(1901)、東京帝国大学工科造兵学科を卒業し、海軍から奨学金を受けていたために海軍へ。まず、海軍造兵中技師となり、海軍大学で教官をする。明治38年(1905)〜大正2年(1913)造兵監督官として8年間、英国に滞在した。この滞在が、伝統的兵器会社ヴィッカーズ社との接触であることは、確実である。このヴィッカーズ社については、次回。津上氏が九州から上京し、勤務したのが、このヴィッカーズ社である。

 さらに大正3年(1914)〜大正7年(1918)米国へ。この時期は、第一次世界大戦期と一致している。さらにその後、大正8年(1919)には、戦後の欧州を視察している。この視察の結果を、津上氏に「みやげ話」として話した、のである。

 そのみやげ話が、いつどこで、どのような形で、どうして行われたのか。想像をまじえて考えてみると、一段と面白くなる。

  
その十七
  
 だから、この「ヴィッカーズ社」について書かねばならない。なぜなら、この会社が歴史的存在にも関わらず、Wikipediaには、今のところ出てこないからである。ヴィッカーズ社を検索すると、「スーパーマリン (Supermarine) 」という会社が書かれている。その中にヴィッカーズ社が出る。

「スーパーマリン (Supermarine) は1912年に設立されたイギリスの航空機メーカー。第二次世界大戦時に活躍した戦闘機、スピットファイアを製造したことで知られる。1928年、スーパーマリンはその株の大半を取得した大兵器企業ヴィッカーズ社の傘下に入った。」となっている。

 しかし、Wikipediaにないとなると、「日英兵器産業史/武器移転の経済史的研究」(写真)に戻らねばならないだろう。この本は古書ネット検索で発見した。2005年に5800円+税、で売られたのであるが、古書店では1万円。学術書で発行部数が少ない割には、注目されたのであろう。

 その本を買いに、久しぶりに丸ノ内線本郷三丁目で降りた。古書店の住所は分かっている。ネットで申込をした後、直接受けとりいく旨の電話を入れ、東大前を通り駒込方面に向かって歩いた。「久しぶりに」などと書くと、祖父ネットは東大卒ではないか、と思う方もいるかもしれないが、とんでもない、明治学院の出身である。しかし、東大前は青年期駒込が住まいであったから、よく知る場所で。古めかしい門前町の町並みは、随分と、がんこに往時をとどめたが、それでも、いよいよ古書店の閉鎖も多い。喫茶店、画廊など、いかにもインテリ相手の商売が「成り立ちます」式の古い商家が、寂しそうだ。時代の波に押され、遠からず廃業となる運命と見える。なつかしい東京の郷愁が消える時も、そう遠くはないだろう。

 春日方向に曲がり、しばらく行くと、目的の古書店はあった。「日英兵器産業史」は、高価で貴重な書物である。下に表紙の(写真)を掲載したが、そこに写っている二枚の写真が、ヴィッカーズ社の造船所である。説明書きは次のようになっている。船が写っている大きいほうの写真は、「ヴィッカーズ社パロウ造船所で艤装中の巡洋戦艦『金剛』/1913年(大正2)」、小さい方はパロウ造船所の全景/1928年(昭和3)頃」だと言う。

  
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その十八

  先日、ある若い友人と話をしていた。未来を背負ったかわいいお嬢さんを連れて。その彼が、なんとヴィッカーズ社を知っていたのである。そればかりではない、話のついでに出た、シドチという、江戸期に処刑された宣教師のことも知っていた。シドチは、学生のとき江藤淳氏から習ったと言う。

 江藤氏をWikipediaから、少し加工して転載してみよう。「江藤 淳(Etou Jyun)1932/昭和7年〜1999/平成11年。文学評論家。東京工業大学教授、慶應義塾大学教授等を歴任。小林秀雄氏亡き後の、文芸批評の第一人者。」とある。

 ただ残念なことに66歳で自殺した。私なども読者として頼りにしていた人で、自殺された時はがっかりした。友人は、東京工業大学の学生のとき、ヴィッカーズもシドチも、授業で知ったと言う。その両方ともWikipediaにはない。ここで、シドチを書くと脇道にそれるので、書きたいが書かない。ともあれ、友人は「もの作り」、それもある大手の自動車会社にあって、ある重要な商品「飛行機」の開発に成功した。そこで俊英の彼に、二冊ある一冊、『伍堂卓雄海軍造兵中将/日本産業能率史における軍人能率指導者の経営思想』(三恵社/2007)(写真)を贈呈した。今後とも、日本の将来を担う人である。

 そんなエピソードもあって、さらに「日英兵器産業史」を読んでいる。そこから見えるヴィッカーズ社の巨大な姿は、驚くことばかり。巻末にある社名索引には、関連事項なども入れると50カ所以上もある。「『科学的管理法』と日本企業」(写真)には、そのヴィッカーズ社が、次のように書かれている。

 「その利用法(リミットゲージシステム)の嚆矢は、フランスの小銃生産であったといわれるが、一般化したのは、1916年(大正5年)以降といわれ、とくにイギリスのヴィッカーズ社で、これを用い、『機銃等徹底的互換性を以て工作するに』いたっている。伍堂はその採用にいたるプロセスを図3−1のように解説している。」で、図があり、その表題は、「工作に使用する各種測器類」。

 しかし、ここにブロックゲージはない。ゆえに、こそ、長さ測器の原器たるブロックゲージの開発が急がれたのであろう。伍堂氏と何らかの接触を図った津上氏は、伍堂氏からゲージブロック製作の特別の依頼を受けたに違いない。それは、津上本には伏せられている。ただ津上氏が感動しただけで、取りかかれる仕事ではない。経費がかかりすぎるからである。その経費の大物が、ドイツ製「ツァイス光学器械/光波干渉計」である。津上氏にこれがなくては、ゲージの発明はならなかった。津上氏はそれを所有していた、とある。経費の出所を疑う理由である。

  
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その十九

 ドイツ製「ツァイス光学器械/光波干渉計」が、いよいよ登場した。この機械を購入し、津上氏が本格的に研究に入ったのは、関東大震災以後である。ここで津上本に、「服部金太郎」が出現する。早速Wikipediaで検索すると、「セイコーホールディングス株式会社(英称:Seiko Holdings Corporation)は、東京都港区に本社を置くセイコーグループの中心会社である。」とでる。
 この会社の創業者が、言うまでもなく服部氏である。その服部氏に、津上氏は出資を依頼する。氏の書くところによると、「もちろん一面識もなく、誰の紹介状ももっていない。」となる。が、これも完全におかしい。言うまでもないが、誰かが紹介状を書いたのであろう、名前を出せない人とは伍堂卓雄氏に違いない。このようにして、津上氏は、巨大な出資者を得るのであるが、その資金でツァイスの光学器械である光波干渉計を購入、本格的なブロックゲージの研究開発に入っていく。ちなみに、服部金太郎氏やその長男玄三氏を書いた、私家版の本が存在する。「大口右造の回想と日記」(2008年)であり、その中に「戦時下の苦心」という項目がある。それによると、服部時計店も軍需工場化の嵐に見舞われ、海軍から中将少将クラスの人材が、取締役として在社していた、とある。
 実は、この「ツァイス」光学機器については、面白い話が二つある。一つは銀座の歴史に、もう一つは満州国にある。この二つの歴史を重ねると、精密機械工業史も面白くなる。
 
 まずは第一話。明治44年ごろ、日本における総代理店カールツァイス合資会社が銀座京橋に店開きし、その後本格的に、さまざまな戦役でツァイス製双眼鏡が使われる、ということ。第二は、祖父ネット在学中の明治学院院長、元満州国官吏武藤富男氏と、満州映画協会理事長甘粕正彦氏との会話にある。それをご紹介しよう。これを読む前に、ご両人ともWikipediaにでるので、事前に勉強して下さることをお奨めしたい。なお、「満洲映画協会」もある。
 東洋一といわれた、図体の大きな映画スタジオの施設(満州)を私(武藤富男)に示した甘粕理事長は言った。

 「ごらんなさい、せっかく機械でスピードを出しても、流れ作業が手に移るため、機械工業が手工業に落ちてしまうことになり、映画の生産能率があがりません。まず機械を入れて能力をあげることが必須です」

「機械を日本から(満州へ)取りよせますか」
と私(武藤)が月並みなことを言うと、彼はこれを拒否して言った。「機械のよいのはドイツです。ツァイスのものが最もすぐれています。外貨を得てドイツ製のものを必要なだけ(満州に)輸入することにします」
 銀座の第一話は「東京銀座・築地・明石町・はじめて物語」(清水正雄/亜紀書房/1998)(写真)にあり、第二話は「私と満州国」(武藤富男/文芸春秋/1988)(写真)にある。
 しかし、第二の満州国の話には続きがある。武藤富男氏の本から。
 
 実は満映の幹部も前からそれを判っていたのだが、経済部(満州国)にいくら外貨を出してくれと頼んでも、軍需の忙しい時、映画製作などに外貨が出せるかと叱りつけられるほどであった。
「青木実経済部次長を口説いて、外貨をもらってみせます」
と彼(甘粕)は言ってその時は私と別れた。
二、三週間後、私は青木経済部次長と中銀クラブで碁を囲んだ。勝負が終わってから彼はつぶやくように私に言った。

「甘粕さんにストームされて、とうとう/かぶと/を脱いだよ」

「深夜のストームですか」と私は尋ねた。

「いや、夜明けのストームさ。寝ているところを起こされて、ねむけ眼をこすりつつ対応すると外貨を出してくれ、というんだ。満映のスタジオは仏(ほとけ)作って魂入れずだ。これを生かすため、どうしてもドイツ為替が欲しいと言うんだよ。軍事費のいる時に、映画などに外貨は使えない、とことわったが、彼はきかない。軍事費に比べれば、フィルム製作に使う機械なんぞは九牛の一毛だ、人心を捉えることによっては映画は軍備よりも大切だ・・・」

「考えておきましょうと言って追い払えなかったのですか」

「それが承諾するまでここを動かぬ、聞いてくれなければ、毎朝訪問するという。とうとう負けてドイツ貨を出すことになった。君(武藤)はえらい人物を映画会社にひきこんだものだなあ」
 言うまでもないが、「甘粕正彦」とは、大正12年(1923)に起きた、世に言う「甘粕事件」の、その人である。

 
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その二十
 
ブロックゲージは、10万分の一ミリという超高精度を必要とする。この「超」という言葉を書き並べてみると、それが如何に現代的なキーワードであるかが分かる。超低温、超高温、超高圧、超高真空、超音速、超大型、超小型、超高純度、超精密などである。それらものを計る長さ原器が、如何に大切であるかが、言うまでもない。しかし、これを書いているとき、嫌なネットニュースを発見した。

「日本企業は初の選外=中国最多—米誌「アジア50社」時事通信 9月12日(月)22時9分配信
 【シンガポール時事】米経済誌フォーブス(アジア版)が12日発表した今年の「卓越したアジア企業50社」で、中国企業が23社と半数近くを占めて最多となった一方、日本企業は1社も入らなかった。日本企業が選外となるのは、2005年のリストアップ開始以来初めて。日本企業が選ばれなかった一因として同誌は、東日本大震災の影響を挙げた。昨年は日本から任天堂と楽天の2社が入っていた。」と、なっている。

 これを読むと、日本のもの造りは、もはや海外移転し、日本人の職業を奪い、さらなる空洞化が進行する、という。それに追い打ちをかける大震災と原発事故。ただここは、「日本のもの造り原点」を探る旅である。その全貌もかなり分かり始めた。その中で、日本が満州を「侵略」した、と言う戦後日本思想界を苦しめた問題が浮上する。しかし意外にも、満州の「もの造」こそ、今の中国経済の発展に貢献したということも発見した。日本の、巨大に積もりあがった戦後侵略自虐思想。これをどうしても、克服しなければならない。

 津上氏が自分の発見史を、明確に書けなかった時代、と言うものを考えている。なぜかくも、「伍堂卓雄」氏を隠されなければいけなかったのか。なぜ、今も伍堂氏は、こんなに非難されねばならないのか。ドイツはどのように、思想的再構築を計ったのか。イタリアはどうだったのか、などとも考えるようになった。それにしても、この旅ははからずも「武藤富男」氏にいたった。伍堂卓雄氏から満州の昭和製鋼所へ、そして満州国官僚武藤富男氏へ、そして氏の著書「私と満州国」の再読へと進んだ。実はその中に、日本の自虐思想を跳ね返す、新たな発見をした。

(写真は言うまでもなく、日本の満州工業の成果を研究した学術書である。それはさらに、中国近代映画技術にも繋がることを、あらためて武藤氏も甘粕正彦氏も教えてくれる。「その十五」とダブルが、敢えて掲載する。)


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その二十一
 
武藤本「私と満州国」の「鮎川義介登場(134頁)」には、日本の機械工業が、いよいよ満州に本格的に進出する問題が書かれている。

 武藤富男氏は昭和12年、満州国重工業株式会社法の起草に関わる。それは満州産業開発五カ年計画の一環で、具体的に日産の満州移駐のことらしい。会社設立記念の披露宴は、鮎川儀介氏が主催し、その席に出席した200人中の顔ぶれは、次のような人々である。場所は首都新京。(このシリーズではどの人物にも、平等に極力、名前に「氏」を附すことにしている。)
関東軍参謀議長 東条英機氏
満州国国務院大臣 帳 景恵氏
満州国総務長官 星野直樹氏
満州国産業部次長 岸 信介氏
 
 同席した武藤氏は、満州国国務院総務庁法制参事官という身分である。このとき、現在の世界的自動車メーカー「ニッサン」を創業した鮎川氏は、次のような演説をしている。

 「日本は明治維新以来50年間に近代産業を興した。しかし日本人は手先が器用であるから、アメリカ人が機械を使うところを日本人は手先に頼る。すなわち手先の器用さで工作行程を処理する。そのことが、かえって機械工業の発展を遅らせてきた。」
 
 そこで日本からは勿論、「海外から技術と機械とを導入し、大規模に、しかも、急速にこれからの開発を行う」「それ故、この国(満州国)の機械工業は、かえって日本以上に発展する可能性をもっている。」「資源(満州国の)は、私がアメリカにおいて見聞した資源の豊富さにひけをとらない。」「今後10年にして、満州国の産業は日本を凌駕するに至るものと確信する。」と。
 
 この話しに先立って、では、なぜ鮎川氏は満州国に来る気になったのか。それは昭和11年、陸軍省軍務局が鮎川氏等を満州に派遣して、資源と国情を調査し、意見の提出を求めたのが、きっかけであるという。その中で鮎川氏の献策がすぐれており、陸軍省は氏に満州の開発を命じた、ということらしい。具体的には、武藤氏直属の上司、満州国総務長官たる星野直樹氏が鮎川氏と会見し、話を進めた模様だ。その時の様子が書かれている。

 以前から、「(満州国の)自動車製造業については、星野は頭を悩ましていた。道路は開発され、自動車の数も急速に増大した。自動車の需要は増し、軍事上の要請も急であった。建国後、政府(満州国)は奉天兵工厰の一部を仕切って自動車工場を建て、製造を始めたが、修理工場の域を出なかった。」

 そこで満州国官僚たる星野氏は、日本に鮎川氏を尋ね、陸軍省、参謀本部等の賛成を得た上で、自動車工業発展の協力を頼むことになる、そのくだり。

 「私は勇を鼓して、鮎川氏の牙城日産館に出かけていった。私は満州の自動車工業の現状を説明し、一つ引き受けてくれないかと頼んだ。私は鮎川氏自身が日本の仕事をなげうって、満州に一身を投ずることを期待したわけではなかった。鮎川氏の信頼する人で、日本で事業経営の経験のある人を選んでもらい、これを鮎川氏が全面的に援助し、本格的な自動車工業を満州に建設してもらいたいと頼んだ。
 すると、『そりゃ駄目いのう』と、国なまり丸出しの味もそっけもない答えが返ってきた。私はこれにはまったく困ったが、そのまま引っ込むわけにも行かないので、なぜ駄目なのかとねばった。」
このねばりに対し鮎川氏は、、、、、、、、、

 
(写真は、信州中込権現堂の我が家の前にかかる石橋、戦中はただの小川であった。左方面が津上製作所信州工場建設地。現在の新幹線佐久平駅方面、浅間山も同じ方向に、ここから見える。戦中と思われる頃、凄まじい噴火があった。この写真もだぶっているが、敢えて掲載する。)
 
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その二十二
 
 星野氏に対し、次のように答えた。

 「日本の自動車工業は大量生産に到っておらず、ようやく経営単位に達している程度だから、それより小さな満州市場を相手にして本格的自動車工業は興せない、自動車工業にはたくさんの下請工業が要るが、満州にはそれがない、鮎川自身の力はひとりの力ではない、日産全体の力であり、人をやっても、仮に自らが行っても、それだけの力では満州に自動車工業は興せない」と説明した、とある。これに対し星野氏は将来の自動車の発達の予想を語り、押し返して食いさがった。に対し、さらに鮎川氏は次のように答えた。

 「満州の重工業開発には、自分も夢を抱かないわけではない。自分は日本の重工業発展のために今まで尽くしてきた。だが日本では本格的にこれを発展させるためには、土地が狭く、物がすくない。これでは、米国式の本格的な近代的発展方法を講じようとしても出来ない。ところが満州を見ると、様子は米国に似ている。土地は広い。物も豊富に違いない。そしてへたに手をつけていない。ここなら米国式の本格的な開発ができる。そこへ米国の近代的な機械をもって行き本格的な開発を行えば、必ず今の日本工業より骨格の太い力強い工業を作り上げることができると思う。今満州で五カ年計画をやるなら、それこそこの本格的開発を行う好機会だ。ぜひこれをやらねばいけない。今までのようにかに間に合わせの人間と機械とでやっていくのでは駄目だ。思い切って米国から外貨を入れ大規模な機械を輸入して、本格的な開発を進めていかねばならない。そういう仕事なら自分もやってみたい。自動車工業の程度ならほかにやる人はある」星野は逆にまくしたてられた。」とある。

 ここに書かれた鮎川氏の「思い切って米国から外貨を入れ大規模な機械を輸入して、本格的な開発を進めていかねばならない。」という箇所こそ、歴史的発言であり注目に値する。これが実現していたら、日米戦である太平洋戦争を回避できた。

 
(写真は鮎川義介氏/Aikawa Yoshisuke/。Wikipediaから転載した。)

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その二十三
   
 祖父ネットの読者は、ぜひWikipediaで、鮎川義介氏の略歴を確認しておかれたい。この記事は、武藤富男著「私と満州国」(1988/文藝春秋)から書いているが、武藤氏は自分の上司であった星野直樹氏の、「見果てぬ夢/満州国外史」から書いている。詳しくは国会図書館に、二冊ともある。

 「米国から巨大な資本を入れ、大規模な機械を購入して本格的な産業開発をやろう」という鮎川の提案に(満州国)総務長官星野直樹は魅了され」「その夢をぜひ実現したい」と応じたばかりか、「全力」を尽くしての協力すら、「誓った」。さっそく氏に、青写真の作成を頼み、二三日後に再び、麹町二番町にある鮎川氏の自宅を尋ねた。

 「鮎川氏は語った。
『満州の重工業開発には米国の機械を入れなければいけない。それには大金が要る。そのためには米国資本を思い切って入れる必要がある。満州の開発にはこれを眼目としなければならない。が、それには担保がいる。その担保は、満州国の資源よりほかにない。そのためにはまず満州に現存する重工業会社、資源会社を打って一丸とし、これらの資源を担保とすれば、米国資本を借り入れることができる。これがこの際の私の案だ』」。これが青写真であった。このプランは関東軍も満州国政府も、思いつかなかった計画である、と武藤氏は本で強調した。それを手短にいえば、満州の資源と諸会社とを「アメリカに質入れする」ということ、と書いている。

 これは、驚天動地のプランと言ってよいと思う。その上、満州建国当時、日本の資本を満州に入れない、と国家社会主義者のようなことを言っていた関東軍も、「鮎川の計画を星野から聞いた時、東条英機参謀以下一同賛意を表した」、とある。これには、こんどは戦後の、自虐歴史教育を受けた我々こそ驚くだろう。東条英機氏を、単なる軍国主義者とばかりとは思ってはいないものの、関東軍は日本を破滅に追い込んだ元凶、という戦後教育の中で育った。この、東条英機以下関東軍も賛成という歴史的事実は、それこそこちらの足下がぐらりと揺れる。

 ようするにこの事実は、明治以来の幾多の戦争と歴史の結果や、さらに国際状勢の変化に応じた、日本の満州国建国であったということ。またそれは、グローバルな現在でも通用する、明確で健全な社会的国際的常識が、当時も存在したという証明である。これに対し満州国側の関係者もみな、この案に賛同した、と記されている。

 ともあれ、ブロックゲージ生誕の経緯を探求しているうちに、このような「歴史の真実」を発見したのである。そのように意外な、東条英機氏の常識的な判断であるが、その氏のプライベートな面を書いた本が存在する。東條由布子著「祖父東條英機『一切語るなかれ』」(初版2000/2005年6刷)である。文春文庫に納められている。著者の東條由布子氏は東條英機氏の孫で、父が英隆氏、その長女である。明治学院大学に学んだことのあることは、既に知っていた。が、なぜ明治学院が選ばれたのかは、いささか疑問に思っていた。今回、武藤氏の「私と満州国」鮎川義介エピソードを読み、納得ができた。武藤氏は同書の最後の章、「大団円」で東條氏を次のように書いた。

 「『満州国史』には東京裁判において法廷に出頭した証人28名を記録している。私の名はその最後にあり、こう記されている。『武藤富男証人は、満州国は国民に神廟礼拝を強いたことはない。満州国はユートピアを目ざし、ヒューマニズムに根ざして建国された、と述べた』これは満州国官吏としての私の信条であった。」さらに氏が、
『聖書講義』を自費出版したのは、昭和22年5月のこと、聖書のことばを引きつつキリスト教の概要を述べたものである。「9月に第二刷を出したところ、巣鴨拘置所にいる星野直樹氏から次のような手紙が届いた。」と、思いもかけぬことであったとして、氏は巣鴨に星野氏を尋ねる。

 「『やあ、よく来て下さった。』と彼は私の挨拶に答えた。君が新京中央通りの教会員であることは知っていたが、敗戦になってから、伝道の本を書くとは気がつかなかった。後半生をこの道に捧げる。それはよいことだ。僕の父も牧師だったよ」。四方山話も進んで、

 「満州国時代の旧友の動静などを語り合い、定められた時間が来たので、再会を約して別れを告げ、面会所の混雑をかき分けて入り口に向かっていると、数人の女性たちが、金網ごしに内側の被告人と語り合っているのが眼を引いた。私は足をとめた。」

 「この女性たちは、毎日ここに来て、捕われの人と会っているらしく思われたので、足をめぐらしてそこに近づいてみると、何とその人は東条英機氏であった。私は女性たちをかきわけ、/いけにえ/の人に近づき、頭を垂れて無言の挨拶をした。『先日は証人に出て下さってありがとう』という声を聞いた私は頭を下げたままで、その場を離れた。」

 これが「私と満州国」の最後の文章である。

(東條英機氏の家族の生の声。)
  
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その二十四
 
ここらで、また津上本に戻ってみよう。前にも少し書いたことであるが。その辺りから。

 「津上青年は、そのころ、親類筋の渡辺鉄工所や佐賀財閥の総帥牟田万次郎の事業の経営をまかされ、八面六臂の活躍をしていた。渡辺鉄工所は、まったくの町工場から、のちに九州兵器となり、九州飛行機に発展するのであるが、その基礎を築いたのは津上青年である。独創的な施策と人の三倍もの働きでボロ工場を完全な近代工場に面目を一新させた。また牟田系の事業では、赤字の製紙工場や鉄道を立派に黒字事業に立て直した。したがって、収入も多かった。」と書いてある。

 しかしここにある、「したがって、収入も多かった」という言葉がわざわざ挿入されていることが、怪しいと思う。この伏線めいた文章が、上京後の津上氏の、多額のブロックゲージ研究費、その捻出の下地を疑わせないような書き方になっている。この箇所は津上青年の、潤沢な資金を陰で調達した、「伍堂卓雄」氏を隠すためである、ことは間違いない。綿密に計算された文章構成であり、これこそ、戦後日本の歴史理解となった、自虐的歴史観のなさしめたものであろう。

 先日、近所の図書館で、さらに資料を発見した。実は、武藤本には「鮎川義介」氏の記述後に、旧日本軍の細菌兵器責任者「石井四郎」氏が出る。この件は、ある程度知ってはいた。が、満州国が意識に登ったのを機会に、改めて図書館で調べた。そのとき、偶然手にしたのが、「『ゼロ戦』の秘密/これだけ読めばよくわかる」(太平洋戦争研究会編/世界文化社/2009)(写真)である。津上研究も深まると、ブロックゲージ、精密機械、橘花号、ゼロ戦、という連想になる。そんなイメージで、何かあるかもしれない、と手に取った。

 中を詳しくみると、目的の記事は意外に早く見つかった。それで、津上本にある渡辺鉄工所、九州兵器、九州飛行機という流れが確認できた。一般に、ゼロ戦と九州飛行機は繋がらない。渡辺鉄工所は以前、橘花号を書いた時に資料を見つけた。ただ、それは、日本初のジェット戦闘機「橘花号」、に限定されていた。ゼロ戦は思いつかないし、九州飛行機と関連した認識はない。ゼロ戦といえば、どうしても中島飛行機や、三菱重工業である。しかし、見つけた。鮎川義介氏の「無念」談を書く前に、寄り道してみよう。

 「『ゼロ戦』の秘密」の44頁と284頁である。44頁の表題は「日本海軍の飛行機分類法」である。284頁は「18試戦地戦闘機『震電』/前翼型の特異なスタイルをした迎撃戦闘機/時速750キロを目ざしたが全力飛行をする前に終戦」である。(注、「18試」という記号音は、ichi hachi shiと読むに違いない。)
まず前者の記事から、書いてみよう。「日本海軍は昭和10年ごろからアルファベットと数字を組み合わせて飛行機識別記号を作ってきた。」「最初のアルファベット文字は機種を表し、次のように分類した。」とある。

 少し例を挙げると、Aは艦上戦闘機、Bは艦上攻撃機、Cは艦上/陸上偵察機、Dは艦上爆撃機などである。これはSまであり、その後はMXで終っている。また、2文字目の数字は、その機種で何番目に設計・試作されたかを表した、という。

 さてこれこそ、目ざすもので。3文字目は、設計メーカーのローマ字の頭文字。その中にW(九州飛行機)があった。勿論、言うまでもなく、「九州飛行機」であるならKであるが、Wとなっている。それは九州飛行機の旧名が、渡辺鉄工所であるからである。ちなみに、有名な中島飛行機はN、三菱重工業はMである。

 そして、284頁には、Kyuhi 18-Shi Intercepter
Fighter  SHINDEN とあり、「九飛J7W1」として、完全に一頁が割かれている。言うまでもなく、「W」は渡辺鉄工所の頭文字である。九州飛行機はゼロ戦とも、関係があったということであろう。

(写真は図書館で偶然手にした本。)

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その二十五

 鮎川義介氏の、歴史的で驚天動地のプランと、ブロックゲージが頭の中でリンクしている。

 満州に話を戻したい。

 日本の「帝国ホテル」の場面になる。その前に、武藤氏と鮎川氏との直接の話は、昭和17年。場所は満州のヤマトホテルの食堂である。鮎川氏が満州重工業開発総裁を退いた直後の会話。あの時、とに角、日産の満州国移駐が決定されて発表になると、日本は大騒ぎになったので、と鮎川氏は語り始める。
「渡満前、僕がこの計画を発表するや、えらい人気が出た。『帝国ホテル』(日本の)に事務所を構えて準備にかかると、アメリカのメーカーや商社の代表者がぞくぞくと現れ、機械の売り込みや、取引の開始を申し出てきた。」ところがその一方、日本では組織的に、満州では一部に反対する人が出た。

 それに対し、「しかし日産移駐は日本陸軍が決めたことであり、陸軍の決めたことは、関東軍はこれを実行しなければならぬ。という信条を、時の関東軍参謀長東條英機はもっていたので、」満州の反対者の主な人物、満州炭坑株式会社理事長川本大作(張作霖爆殺事件責任者)を説得して、ことは運んだとある。この反対運動の裏に、松岡洋右満鉄総裁が動いた、とも武藤氏は推定している。ともあれ、アメリカ資本導入の件は壊れていく。それはバネー号というアメリカ軍艦を、日本軍が攻撃した事件が勃発したからである(事件はWikipediaにある)。

 武藤氏は続ける。
「察するに、鮎川はまずアメリカを訪問し、かねて知りあいの実業家や政治家と会談し、アメリカ資本の大規模導入を考えていたに違いない。ところが、バネー号撃沈は、支那事変とちがい直接に行われたアメリカ軍艦への攻撃であったから、アメリカは官民ともこの暴挙に激怒した。そこで訪米(鮎川義介氏の)は無期延期となった。」

 しかし、鮎川氏は語り続ける。
「バネー号事件が起こった後でも、思い切って訪米したならば、あるいはアメリカからの資本導入の道が開けたかも知れなかったが、僕(鮎川)は躊躇した。一縷の希望をドイツにつなぎ、シベリア鉄道を経由して機械を買い入れようとしてベルリンに行き、ヒトラーに会って、或る程度話は進んだが、そのうち欧州戦争が起こり、この計画も頓挫してしまった。」

 ゆえに、「アメリカからの資本導入に成功していれば、様相はことなったであろう。それ(アメリカ資本導入)が不能に終った事態においては、満業(満州重工業開発株式会社)は単なる融資会社であって、これを通して満州開発のための私の抱負経綸を行うことはできなかった。」とし、重大な歴史的展望を語り始める。

 「もし僕がアメリカの資本と技術と機械とを満州国に導入することに成功していたならば、日本は、その鉾先をソ連に向け、アメリカとの提携を成立させ、独伊との枢軸関係を結ばずにいて、アメリカは満州国を外面はともかく実質的に承認し、それによって支那事変も起こらず、世界の情勢は別の進路を辿ったかも知れなかった。」
「こうした述懐が、悲運の巨人鮎川義介が私(武藤富男氏)にあかした退職時(満州重工業開発株式会社)の心境であった」とある。

 尚、Wikipediaには、満州重工業開発株式会社がある。祖父ネットは読者の便宜をはかり、「武藤富男本『私と満州国』に基づき、少し編集して転載しておいた。

 満州重工業開発株式会社は、満州国の特殊法人で、満州国の正式な要請と、日本政府及び日本軍さらに関東軍の了解の下に、満州国内の鉱工業を一元的に統制することを目的とし、日産コンツェルン総帥鮎川義介によって創設された。日本鉱業(現・JXホールディングス)や日立製作所、日産重工業(現・日産自動車)を傘下に持つ。
満州はそれまで、工業は未発達のままであったので、満州全土の鉱業から各種製造までを一貫させ、満州国建国の精神を具体的な産業によって体現しよう、としたものである。このころ、満州国は日本の治外法権を一部残して撤廃し、武藤富男氏は満州国司法官として、その撤廃司法業務を担当していた。

 1937年(昭和12年)にグループの持株会社である日本産業を満州に移転改組。総裁は鮎川氏、傘下に満鉄から譲渡を受けた昭和製鋼所(伍堂卓雄氏が社長となる会社)や、満州炭鉱などの鉱工業会社を置き、これらの会社を統制した。鮎川氏は当初、満州国日系官吏総務長官星野直樹氏より「日産」コンツェルンの移駐要請を受けたとき、アメリカ資本の大規模導入を、逆に提案した。が、バネー号事件が起こり頓挫。この事件は、鮎川氏のアメリカ資本導入を阻止する、一部の軍人によって強行されたと言われる。鮎川氏は1942年(昭和17年)に総裁を辞任し、満業が保有していた日本国内の企業の株式も、新たに設立した満州投資証券に移した。

 この会社は、満州暦康徳4年(昭和12年)12月27日、武藤富男氏が法制制定に関与した、「満州重工業開発株式会社法」に依って設立された。 旧日本産業株式会社を母体に、満州国政府からの出資を加え、満州国内の重工業の総合的開発および確立を目的とした。 資本金総額は4億5000万円。 総株数は900万株。うち満州国政府の持株は半分の2億2500万株、一般持株は残り半分とした。

以上を時系列的に書くと、次のようになる。

● 1937年(昭和12年) 鮎川義介氏、日本産業 
株式会社を満州国首都新京に移駐改組設立。
●1938年(昭和13年) 東辺道開発株式会社と満州飛行機製造株式会社を設立。
●1941年(昭和16年) 統制会制度により、産業計画や原料配給が満州国政府主導となり、統制部門を廃止。
●1942年(昭和17年) 鮎川総裁、高碕達之助氏と交代。
●1945年(昭和20年) 満州国、日本の敗戦を受け政権不全となり、変遷を経、その後中華人民共和国の主権が宣言された。満州国企業たる満業も閉鎖機関指定となる。以後は中国戦後史を参照されたい。

 
(写真は「太平洋戦争とは何だったのか/1941〜1945の国家、社会、そして極東戦争」(クリストファー ソーン著、市川洋一訳/草思社/2005)。ソーン氏は太平洋戦争と名称したが、武藤富男氏は「私と満州国」の第5章「日米開戦と満州国」の中で、次のように語っている。「敗北者のささげた犠牲は、勝利者の糾弾によって埋没される。勝利者により太平洋戦争と改名されたことがそれを示している」と。氏は、あくまでも「大東亜戦争」と、呼称したかったに違いない。

 祖父ネットも、今ではそのように思うようになった。戦後、この呼称は混在し、現時点で日本に定着している、自虐的歴史認識の下で、日本社会に容認されているようである。ソーン氏の本も、実は「大東亜戦争とは何だったのか」として読んだ方が、読み応えがある。が、氏はイギリス人として書いているため、太平洋という枠組みの方が、しっくりとしのだと思う。ただし、氏は既に1992年に他界された。心からご冥福を祈りたい。この件について、おおいに話し合える人であったと思う。

しかし、氏の本をさらに深く読むと、氏は、あの戦争を「極東戦争」と命名する方がよいと提案している。つまりあの大戦は極西戦争(西側)、極東戦争(東側)の一括世界大戦という相互関連を意味している。)

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その二十六
 
 だいぶ「満州国」の旅も長くなった。ブロックゲージから、思わぬ方向に到達した。「ブロックゲージ生誕史」は、その発明者津上兄弟の事跡を越え出て、遥か遠くまで筆者を導いてくれた。このシリーズも津上氏を中心に、時系列的に生誕プロセスを書いて、終ろうと思っているが。

 旅の成果は三つあった。
 一つは、ブロックゲージ情報は意外に多い、ということである。ただ、それを繋げる縦糸が明確でなかった。その縦糸さえ分かれば、その全貌は明快である。また、付属的に、戦後日本の歴史記述には、明らかに偏向がある、ということである。戦争という大不幸が影響し、隠すことが多くなり、正確な歴史理解を妨げている。道半ばなのかもしれない。大東亜共栄圏は、まったくでたらめだったのか。日本の戦争すなわち、大東亜戦争と言われ、太平洋戦争と矮小化された世界史的歴史的戦争は、まったく間違っていたのだろうか。今、アジアが文字通り世界の中心に躍り出ている。この現実を目の当たりにすると、あの戦争が果たした役割は何もなかった、害しか残さなかったという歴史観が、はたして正しいのだろうか。これから、若い人たちが、まだまだやらねばならないことであろう。
 
 第二は、「武藤富男」氏に至ったことである。戦後の武藤氏は、キリスト教徒として、立派にその役割をはたされて他界された。にもかかわらず、前職があまりにも「満州国」と関わったため、「武藤富男」氏理解は、はなはだ難しいと感じる。彼の意識では、あるとき80%ほど、自分は満州国人ではないかと思う、と書いている。しかしそれも、日本戦後史の自虐史観のもとで、過剰な誤解を誘う。今後、氏が学長であった明治学院あたりは、氏の本格的研究をすべき時が来ているのではないか。彼によって設立されたキリスト新聞社も、氏の伝記を出版すべきではないか。
 
 第三に、クリストファー ソーン氏に再度出会ったことである。氏の既刊本、「米英にとっての太平洋戦争」上下二巻とペアーらしい。すでに私がもっていた「太平洋戦争とは何だったのか」の「まえがき」で氏は語っている。

「この主題を追っていく過程で、戦争に巻き込まれたアジアの諸国と社会について私の知るところがいかに少なく、かつ理解が足りないかを思い知らされた」。彼はイギリス人である。この本は、私が入手していたにもかかわらず、今まで読めていない。氏は前書にあってさえ、自分の無知のほどを、あらためて再認識させられた、それが継続書(「太平洋戦争とは何だったのか」)に繋がった、と書く。これで、前書も読まねばならず。さらなる「ソーン」研究をやってみたいと思った。ただ、再建されたとは言え、出版社の草思社は倒産し、再度の出版は危ういと思う。既刊本の再出版に期待しているが。再建された草思社に聞いたところ、その在庫はごくわずかであると言う。ちなみに、草思社既刊本を書いておこう。すべて、クルストファー ソーン氏の書いたものである。
「満州事変とは何だったのか」
「米英にとっての太平洋戦争」
「太平洋戦争における人種問題」
氏は、さらに言うと既に鬼籍の人である。惜しくも50代余を去られた。祖父ネットより少し年上の人であるが。また、氏はアジアに巻き起こった戦争を、世界史的視野に入れて「極東戦争」と命名して、その歴史を総括的に書いている。私たちが既に太平洋戦争という認識に立つこの戦争を、少なくともその名称において、異議を唱えたのは、他ならぬ武藤富男氏である。その箇所を氏の「私と満州国」359頁から書いてみよう。

「敗北者(日本)のささげた犠牲は、勝利者(連合国、具体的には極東裁判)による糾弾によって埋没される。勝利者によって太平洋戦争と改名されたことがそれを示している。」

 以上振り返ってみると今回のシリーズは、ネット情報の質の厚さを認識した旅でもあった。実は最近分かったので会えるが、「九州飛行機」はWikipediaとして存在していた。にもかかわらず、結局その「縦糸」が見つからない当初は、貴重な情報もよく理解できなかった。しかし今は、その情報が貴重な存在である。そこで、九州飛行機Wikipediaを転載し、それをしみじみ味わってみたい。少し読み易く編集しておいた。

九州飛行機(Wikipediaから)
 九州飛行機は、第二次世界大戦中にあった、日本の航空機メーカーである。他社が設計した軍用機の生産が主であったが、エンテ型飛行機の試作戦闘機「震電」を製作した。

 福岡市の渡邊鉄工所(現・渡辺鉄工株式会社、現存)(注、津上退助氏が最初に勤務した会社)が、1935年(昭和10年)より、飛行機の製造を開始。1943年(昭和18年)に、航空機製造部門を分離し、九州飛行機を設立。渡邊鉄工所は九州兵器に改名した。雑餉隈工場は、現在の南福岡駅から、陸上自衛隊福岡駐屯地周辺に約12万坪の敷地を有し、零式水上偵察機約1200機など、16種の機体を製造した。工場では社員以外にも、勤労学徒や女子挺身隊が、昼夜を分たず、生産に従事した。

 終戦直後、工場は米軍に接収され、1945年(昭和20年)12月時点で、約1500名の米兵が駐屯した。

 戦後の1953年(昭和28年)、工場を福岡県筑紫郡春日町(現・春日市)に移転し、渡辺自動車工業と改名、自動車の車体や部品の製造を行った。また航空機技術を、バス車体製造技術に応用し、バス車体メーカーである西日本車体工業の傘下に入り、その親会社である西日本鉄道をはじめとする各社の、バスの製造修理などを手がけた。

 1992年(平成4年)、工場を佐賀県三養基郡基山町に移転し、2001年(平成13年)、会社を清算して解散。その激しかった歴史に終止符を打った。なお、工場敷地は、西鉄グループの共栄車体工業鳥栖工場となった。

 生産した機体リストは下の通り。エンジンは中島飛行機、三菱重工業など、他社のものを使った。
九六式小型水上偵察機(E9W)
十八試局地戦闘機「震電」(J7W)
二式陸上基本練習機「紅葉」(K9W)
二式陸上中間練習機(K10W)
機上作業練習機「白菊」(K11W)
陸上哨戒機「東海」(Q1W)

参考文献は下の通り。
 渡辺洋二著『異端の空/太平洋戦争日本軍用機秘録』(文藝春秋社、文春文庫/2000)
 川口勝彦・首藤卓茂著『福岡の戦争遺跡を歩く』( 海鳥社/2010)、である。

(武藤富男氏は 1988年(昭和63年)回想記『私と満州国』(文藝春秋)を出版。参考図書として、貴志俊彦著『満洲国のビジュアル・メディア/ポスター・絵はがき・切手』(吉川弘文館、2010)は、満州における日米開戦時のポスターなどは、「回想記」にも詳しい。下記の写真は、氏のキリスト教信仰を書いたもの。)

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その二十七

 「日本ブロックゲージ生誕史」も終わりに近づいた。Wikipediaから、改めてブロックゲージも確認しておきたい。その書かれかたは、いたって地味である。そこから、深い歴史は読み取れないが、「産業フロンティア物語/精密機械〈津上〉」(ダイヤモンド社/昭和45年/1970)から書くと、別なものになった、というわけである。このシリーズは、その本のお陰である。ともあれ、ブロックゲージは、今のネット百科事典Wikipediaでは次のように書かれている。そのまま転載する。以前ご紹介したのは、平凡社のデジタル百科事典、いまは既に廃盤だと思う。

 ブロックゲージ(block gauge)は、長さの基準として用いられる直方体形のゲージ。 硬質で時効変化の少ない素材を用いて、直方体の6面のうち1組の向かい合った2面が極めて高い水準で平坦、平行に作られ、また、その2面間の距離が正しく所定寸法となるように仕上げられている。 長さ違いの多数のブロックが1組として供され、個々のブロック単独で、もしくは複数を密着(リンギング)により貼り合わせて使用される。
 
 幾つかの製作精度等級があり、用途に応じて使い分けされる。ゲージブロック(gauge block)とも。
19世紀末にスウェーデンのカール・ヨハンソンが初めて製作した。日本においては昭和初期に津上退助が初めて国産化に成功している。
 
 ブロックゲージのセットには112個組、103個組、76個組などの組み合わせが知られ、多数を貼り合わせることで多様な寸法を作る事ができる。 例えば、12.345mmを10mm・1.34mm・1.005mmの3枚で構築する事が可能である。 貼り合わせによって生じる誤差は0.01µm以下と言われる。 製作精度等級として、JISではK級・0級・1級・2級の4つを規定している[1]。 ブロックゲージは、より等級の高いブロックゲージとの比較により検査されるが、最高級のブロックゲージの検査は光波干渉測定法によって行われる。JISではK級がこれに該当する。

  以上であるが、ダイヤモンド社の「津上」本の「まえがき」によれば次のようになる。

 まえがき
 工作機械や測定器などの精密機械は、あらゆる産業の母体であり、根幹である。航空業、電車、自動車、船舶はいうにおよばず、繊維機械、製紙機械、金属機械、化学機械、コンピューターなどから、われわれの身近にある時計、カメラ、ラジオ、テレビにいたるまで、これらをつくる工場には必ず工作機械や測定器が働いている。
 
 工作機械や測定器などの精密機械が基幹産業といわれるのもこれがためで、その発展なくしては、経済の繁栄も文化の進歩もありえないのである。この精密機械産業のわが国におけるパイオニアであり、こんにち業界の最高峰に立っているのが津上(現在、ツガミ)である。

 津上は、まだ日本に「精密機械」ということばさえなかった時代に、先覚者津上退助、研蔵兄弟(筆者加筆)が、工業用長さの原器であるゲージブロックをつくり出したことによって誕生した。10万分の一ミリという超高精度を必要とするゲージブロック製作の超精密技術をもとに、その後、各種の精密測定器、工具、精密工作機械の製作に進み、さらに精密産業機械、文化機器の分野にも進出し、こんにち世界にも類のない総合精密機械メーカーに発展したのである。その歴史をひもとくとき、そこには先覚者の未開の分野へのあくなき開拓精神の発露をみることができる。
 
 「世界の津上」をめざして、さらに意欲的な発展策を企図している津上の姿勢を、そのあゆみを通してみてきたのが本書である。
昭和46年3月編者(注、ダイヤモンド社のこと)。となっている。

 この「まえがき」を、はじめは単なる企業の宣伝文句だと思っていた祖父ネットも、ここまで来ると、襟を正さざるを得ない。

 それで、さらに津上本から。「二、精密機械のパイオニア/津上半世紀のあゆみ/1、プレシジョンへの道を開く/一青年の大きな夢」を少し書いてみよう。Precision とは、明確、厳密、的確、正確、精密、厳格など、である。この箇所は、最後に「九州飛行機の顛末」を書くために、どうしても書かねばならない。

 津上本は、「現在の津上は昭和12年3月の設立である。しかし、その事業の源流は、いまから半世紀近い前の大正12年3月、津上退助が東京本所大平町で精密機械製造の研究を始めたのに端を発している。」と書く。ただそれに先立ち、まず津上退助氏が、どうして精密機械を志すようになったか、その動機が探られている。
「ここに、津上自身の筆になる『十万分の一』という前半生の自叙伝がある。そのなかから、ひとコマを拾ってみると、『私がまだ福岡の渡辺鉄工所(筆者加筆、後の九州飛行機)にいたころ、ロシアからの注文で、砲弾や海軍の水雷発射管の製造をやったが、当時民間にゲージなどももちろんなく、すべて職人のカンでやっていたので、なかなかうまくでき上がらない。いつも問題になることは寸法の精度ということだった。ちょうどそのころ、ドイツの視察旅行から帰ってきた伍堂卓雄さん(のちの商工大臣)から、『ドイツが第一次大戦であれだけ兵器の補給ができたのは、部品に互換性をもたせることに成功したからだ。互換性をもたせるには、作った品物の部品をどれと取り換えても同じになるように部品の寸法をある公差範囲でつくらなければならない。そのためにはゲージを使うこと、そしてそのゲージの正しさを調べるために原器/ゲージブロックというものをつかわなければならない』というみやげ話を聞いた。私はこの話に心魂を激しくゆすぶられた。』以上である。

 この話の中で、日本の戦前戦後史に深く関わる問題が、かくも多数あったということは、はじめなにも理解できなかった。改めていま読んでみると、あのとき既に渡辺鉄工(現存し、いまも軍需産業を受注している。)では、ロシア(注、ロシア革命は1917年、大正6年)から、砲弾や水雷発射管などの注文があった、という事実である。軍需産業が世界を股にかけて交差している様子が、見事に書かれている。これなどは、いまでも盛んに行われている現実である。人間は平和と戦争のやるせない問題を、今も、いつも永遠に抱えるということであろう。

 
(下の写真は津上退助氏。津上本から転載した。)

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その二十八
  
 このシリーズも終盤にきたが、お陰さまで、少しは面白がる人もおられた。ただ、このブログが、膨大な情報から選択され書かれても、自分には一銭も入ってこない。今回はかなりの経費がかかった。しかし、その経費を越え出て、多くの意義があったと納得している。

 その一つは、やはりキリスト教宣教の意義は疑わないということである。もう一つは、過去のたいした経験でもない個人のそれが、少しは歴史と連綿たるところもあった、という満足感である。よく調べれば、誰しも歴史と関係のない人はいないが。

 それは、単純な「ギックリ腰会話」で始まった。そのギックリ腰は、ある人が「ツガミのミシン」を持ち上げたからに過ぎない。私と変わらない、ご高齢のご婦人方の日常の電話会話だった。ただ、一方のご婦人が、祖父ネットとともに先年、信州の津上製作所信州工場跡地(戦中)の、「桜」見学をしていた。
 
 そこが私の故郷だから、ことのついでにご案内したのである。跡地といっても、いまは立派な戦後の「ツガミ」(第一部上場会社)がある。そんな場所だ。その桜たる、誠に見事。まずあんな見事なものはない。誰も手入れせず、故に切らず、堂々と戦後を生き抜いた桜は、凛としてドッカーと咲き誇っていた。他人が知っている、とは思えなかった一方のご婦人は、さぞ驚いたことであろう。すかさず、「なんでツガミを知っているの」に、なった。自分の旧姓であったからである。

 そして、ここに至った。

 これから、「異端の空/太平洋戦争日本軍用機秘録」(渡辺洋二著/文春文庫/2000)を読み書く、とは。実のことを言うと、私の両親は、「戦中の自分たち」の仕事を、一切私に語っていない。特に母は、徹底していた。その父(祖父)も同じだ。そのため、その祖父から、人生で「秘密にしなければならない理由」が始まっている。

 前にも書き、再び書いたのは、祖父が受注した軍需工場、津上安宅製作所信州工場を設計監理した建築設計事務所からも、ひとりの青年が出征していった。そのことも、書くつもりになった。それは「空母瑞鶴」(神野正美著/光文社/2001)(写真)を古書店で見つけたからである。その青年はかろうじて生還した。日本側死者4000名、米軍死者18名、1944年10月25日、フィリピンエンガノ岬沖海戦から生還した人(写真/空撮は米軍、既に被弾している瑞鶴)。その人の文章がある。それも書いておきたい。
 
 では、まず「異端の空」から書いてみよう。
この本の表紙の写真は、前翼型戦闘機「震電」である。本は数章に別れ、「震電」は最後の章を飾っている。その書き出しは、次のようなものである。「戦局が回復不能なところまで傾いてきた昭和19年(1944年)5月。福岡市近郊にある九州飛行機・雑餉隈(ざっしょのくま)工場の会議室はその日、ひときわ張りつめていた。」

 九州飛行機(渡辺鉄工所)は、津上安宅製作所の創業者津上退助氏が、若かりしとき勤めていた会社である。

  
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その二十九
 
 渡辺洋二氏の「異端の空」によれば、戦局も押し迫った昭和19年(1944年)5月。九州飛行機の渡辺福雄社長を筆頭に、会社の幹部が集まった席で、社長が「新鋭機を九州飛行機で作ることになった」、と挨拶する。ここからドラマは始まる。

 会社(Wikipediaにある)は飛行機製造会社とは言え、それまで実戦用の戦闘機を作った経験がない。戦闘機は、民間では三菱重工、中島飛行機、川西航空機が作ってきたのである。その他の軍機を作っていた九州飛行機は、飛行機会社としては二流の域を出ない、とされていたようだ。その会社で、海軍航空技術厰(しょう)技術大尉が、「新鋭機」として製造を委託される戦闘機の、設計仕様を説明し始める。製造目的は、敵重爆撃機を撃墜する、高速陸上戦闘機。祖父ネットには分からないが、高速「陸上」戦闘機という、陸上というところに引っかかる。発言者は海軍の人、「陸上」とわざわざいうのは、なぜか。ふと、思うのであるが。

 型式は単発、前翼型。で、この「前翼型」という言葉が、九州飛行機の人々には耳新しかったらしい。本に書かれている説明も深すぎて、書けない。ともかく、大きなプロペラが機体後部にあるもの。いわば、扇風機を手前に飛ばすような格好である。機体の前面にプロペラがあるのではなく、飛行機胴体の後部をばっさりカットし、カットした胴体の断面に、プロペラを取り付けたようになっている、もの。この戦闘機で、空襲が激しくなった日本の空を襲う、重爆撃機の攻撃を目的にするという。巨大な爆撃機を狙い、急上昇、急接近、攻撃。プロペラがない分、前方視界が大きくなり機銃命中精度を上げうる、と。ぎりぎりの技術的可能性を模索した、戦争終結戦略に先行する一般戦術的戦闘機なのか。戦略思想に先行するのは、時局技術家の悲しい宿命であろうか。戦時最終盤の戦術、「神風特攻隊」思想の魁だろうか。ゼロ戦を使用した神風肉弾特攻思想、ないしは潜水艦「回天」を使用した体当たり戦法は、現代テロリズムに継承されている。勿論、飛行機技術者に責任のある話ではない。ここに要求された飛行機は、「震電」(Wikipediaにある)と命名された。

 これ以上の、性能は難しすぎて書けないので、発注経緯を本から書いてみたい。戦局の悪化にともない、挽回用の航空機製作を海軍は模索。その段階の昭和17年以降、川西航空機に「陣風」、三菱重工には「閃電」、中島飛行機には「天雷」の試作を指示した、とある。その製作に忙殺された上記航空機メーカーは、「震電」を試作生産するゆとりがなかったようだ。そこで昭和19年6月、やや手のあいた、とみなされた九州飛行機に、お鉢が回ってきた、とある。

 ただ、日本の航空機工業の実績が、ピークに達したという昭和19年、機体生産量は、中島飛行機7900、三菱4200、愛知航空機1500、九州飛行機1120、川西1060、とある。ただ、その性格は単に、機数に現れた数字では計れない、という。質の問題を抱えるというが、複雑すぎてここに書くことは、言うまでもなくできない。

 ともあれ、その凄まじい設計仕様が、九州飛行機の前にどっかとおかれた。いかにもブロックゲージの発明者津上退助氏の活躍した会社に相応しいものであった。はたしてできるものか。技術者の顔に緊張の色が走った、と渡辺本にある。
          
 主要寸度は特に制限を設けないが、なるべく小型にすること。そして性能は、最高速度高度8、700mで時速740キロ以上。上昇力高度8、000mまで10分30秒以内。実用上昇限度は12、000m以上。30ミリ機銃4門を装備。そして最後に付け加えられた言葉は、いかにも意味深長。「これはプロペラ機としては最後のもので、既成の概念に捕われては実現でないしょう。」である。それに対し、会社はWikipediaによると、次のような生産体制をもって臨んだ、とある。生産性の工夫として、 その後の量産化を考慮し、生産性を重視した構造・工法の採用も特徴的で、さまざまな工夫が見られた。いかにも悟道卓雄氏や津上退助氏との関連を窺わせる。

 しかし、既に書いた日本初のジェット戦闘機「橘花」、との関係はどうか考えてみた。が、総合して考えてみると、九州飛行機は「橘花」に関わったとはいえ、それは胴体などを造るだけだったようだ。

 
(写真はWikipediaから転載した。)

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その三十
 
 「ブロックゲージ」の件を、文章にするのは、今回で終わりとなる。その後で、津上兄弟を中心に、時系列経歴を書いて終りたい。津上製作所信州工場の設計監理は、石川建築事務所(現、創元設計)である。それと同じ時期に、空母「瑞鶴」乗り込んだ事務所の所員、「石津栄一」氏の手記がある。それは、この回の最後に書いておいた。

 渡辺本にもどると、九州飛行機では昭和19年11月、「震電」の設計作業を終了し、試作機の製作がスタートした。同業他社で試みた、戦争局面打開の戦闘機は、試作段階で何機も消えていった、という。一方、マリアナ諸島が米軍の手に落ち、B29大型爆撃機が、太平洋側のわが国工業地帯を空襲する。これが最終的に、原爆投下に通じることは言うまでもない。この時、原爆投下計画は、ハードソフト面とも、完成に近づいているはずだ。オッペンハイマー博士の天才と、アメリカの軍事官僚主義の成果は、着々と進行している。

 一方、大日本帝国海軍は、川西航空機の「紫電改」の実用量産目標を達成。が尚、一層の高速戦闘機を期待。その最後のモデルが、三菱のロケット戦闘機「秋水」と、九州飛行機の「震電」であった、と書いてある。日本初のジェット戦闘機「橘花」には、触れていない。

 どちらにしても、もはやその終焉を書きたくない。それは九州飛行機も震電も、Wikipediaにあるからである。そちらを読んでもらいたい。ただ、渡辺本に書かれている「震電」は、飛行実験に成功している。昭和20年8月3日から、最終チェックが行われる予定だった。たが言うまでもなく、15日が「敗戦の日」である。その後の展開は書かない。渡辺本は既に絶版であるが、どこかの図書館か、古書店にひっそりとおかれてあるかもしれない。

 では、最後に石津栄一氏の手記を書きたい。これは10年ほど前、会社のために祖父ネットが書いた、「創元設計小史/ある冷蔵倉庫物語」に掲載したものである。氏はすでに故人、心からご冥福を祈って筆を置く。お読みいただいた方々、情報源の方々に心から感謝して。

「書生奉公」 石津栄一著

 私が高等小学校を卒業したのは昭和14年3月のこと。小学校を卒業して一週間だけ、父の仕事を手伝う。私の上阪を父は強く反対した。なぜなら私に姉が3人いた。父にすれば私を大工の棟梁に育てることが一番の願いである。もう一年も仕込めば一人前の大工になれると見込んでいる。小学校三年ごろから日曜ごと父の仕事を手伝ってきた。父にすれば私は金の卵のような存在であった。母は私を大学へやりたかった。口癖のようにお前は頭がいいんだから、ぜひ大学へ行かねばと、私を褒めて育てた。その母が小学校一年の9月、一夜の患いで病没した。
 
 母が生きていたら、父は大工の棟梁に、母は大学にやってと、あまりにも考え方が開いていた。いずれにしても昭和四年世界恐慌以来仕事がなくなり、家業も振るわなかった。両親の考え方もさることながら、六年生で旧制中学校への進学は棟梁にするため、許されなかった。
私には私の考え方があった。小学校三年の時、ある現場で、父が設計担当の監督から叱責を受けていた。父には父の言い分があっただろうけれど、気性の激しい父にして黙って聴いていた。子供ごころにやっぱり設計者の方が格が上なんだなあと思った。その頃から設計する立場になりたいと思った。長じて寛三先生(注、石川建築事務所所長)の姪にあたる高津契子さんから、先生が田舎で適当な少年を 探していると聴き、小学校を卒業したら石川建築事務所へ書生奉公をしたいと思っていた。小学校で席次を争った同級生は旧制中学へ進み頑張っている。内心負けてはならないと闘志を燃やしていた。父から上阪のゴーサインがなかなか出なかった。なかに父を説得する人がいて、やっと許可がおりる。昭和14年4月16日、寛三先生のご母堂が上阪する事になる。お伴に先生の妹さんら、さらに私もお伴に付け加えて戴く。城山の桜は満開。一同御代島丸(みよしまる)に乗船。翌朝、大阪川口港桟橋に着く。ご母堂の到着とあって一族郎党のお出迎えであった。その日はその足で花屋敷へ向かう。田舎者高級住宅街に目を廻す。先生のご母堂は立派なお人。
 
 二、三日して皆さんとお別れして天王寺の事務所に向かう。事務所の前は植物園、ガラス張りのドームの中はバナナを始め、熱帯植物。横は天王寺公園、遥か彼方に通天閣、ライオン歯磨のネオンは夜はくっきりと。その隣が天王寺動物園、朝はアシカの鳴き声がよく聞こえる。周辺は本当に恵まれた場所。梅田から天王寺駅迄地下鉄で13分、交通の便利さも格別である。事務所の書棚に漱石全集がずらりと並ぶ。小学校の頃から一度は読んでみたいと思った本である。ところがそれもぬか喜びで、読んだのは「三四郎」の一部のみで、漱石全集を読む程、時間の余裕がなかった。読書は小学校の頃が一番時間的に恵まれている。
 
 翌日から朝は6時起床、表の道路の撒水に始まり、事務所の皆さんの出社迄、掃除に結構忙しい。来客にはお茶の接待、このお茶汲みも要領があり難しいものである。電話の応対も難しい。最初は田舎弁丸出しで、いろいろと忠告される。今考えると大阪弁も、四国弁も全く同じと思いがちである。私は上阪して、又、海軍に入隊して各地方の方言がわからなくて困る。市長退職後にして、方言探索に15年の歳月をかけて勉強している。これも上阪当時の書生奉公に端を発している。一年間大阪になれる迄待ち、夜学への通学は許されなかった。
その頃の時間待ちは私に取って惜しい思いであった。
  
 昭和14年上阪当時、百貨店は何でも揃った。お客さんもおいしいケーキ等よく届けて戴いた。戦雲厳しくなるに従い、食料事情も次第に悪くなってゆく。昭和15年井川。昭和16年新田。昭和17年加地等、田舎の若者を育てるべく寛三先生のお考えなれど、食料事情が悪くなり、次々に兵役に取られ、先生の恩返しも出来ず誠に申し訳ない思いである。それでも事務所は結構忙しい。寛三先生の仁徳か、住友関連のバックのお陰か。寛三先生はことに松下幸之助さんとは意気投合されていた。林兼商店(注、大洋漁業、現マルハニチロ)島津製作所等、先生の人柄が高く評価されての営業であったと思われる。住友本社を退職なされた部課長の懇親会を「住友末家」と称し、世間から高く評価されていた。

 先生はクリスチャンとしても敬虔な信者とお聴きしている。聞く所によると社交ダンスがとてもお達者であったとか。私は一度も先生の踊りぶりを拝見した事がない。又尺八も都山流の名手と拝聴するも、この尺八の音色を耳にした事はない。不思議な事に。私は四年半奉公して一度だけ先生からおしかりを受ける。私は朝六時起床、朝日課にとりかかる。それをよくご存知の杉山さん(祖父ネットの父)、事務所のアルバイトの人は11時から終電ぎりぎり迄の仕事。杉山さん(注、杉山広吉)は責任上皆さんの帰る迄つきあう。夜十時がくると、「石津君朝早いんだから先にお休みなさい」と、やさしく声をかけて下さる。私も体力の限界を考えて先に休ませて戴く。寛三先生下関から梅田着はいつも11時。普通はその足で花屋敷へお帰りになる。ところがその日に限り、よほど打ち合わせに緊急を要したのか、11時半頃事務所にお寄りになる。もちろん事務所の皆さんは仕事をしていた。・・・寛三先生から、皆さんの仕事の終わる迄、起きていなさいのご注意を受ける。その事は鮮明に脳裏に残る。
 
 石津栄一失敗の巻。石川建築事務所は宏さん(注、石川宏、寛三所長長男)を中心にして、どちらかと云えば構造系、杉山さんのみが意匠系、として一人頑張っておいでだ。私も時々宏さんの強度計算書のお手伝いをする事があった。工業学校の学力では駄目だと思った。私はどうしても高専(旧制)へ進学したいと思った。
 
 昭和18年12月卒業をひかえて悩む事が沢山あった。国民総動員法の適用で就職は勝手に出来ない。進学の場合、成績は10%以内であること。これは建築事務所勤めのお陰で、卒業成績は抜群の点数を上げ成績は心配なし。学資は入所当時より心して倹約して貯金に勤めた。どのようにして貯めたかと云うと、大阪の生活4年半にして、見た映画は2本だけ、阪妻の「無法松の一生」。藤田進の「姿三四郎」のみ。郵便貯金は550円。今の金にして550万円である。高専は月20円で30ヶ月可能。不足分は設計のアルバイトでいける公算大と踏む。故に進学は可能の答えが出た。
 
 昭和18年11月学徒出陣式が雨の中、明治神宮外苑で、東条総理(東條英機)を迎えて行われた。これは文系学生の徴兵延期停止の故。私たち工業学校生徒には予備訓練の応募があった。私も時局が時局だけに試験のみは受けておいた。大阪人の風潮として志願で出てゆく者を馬鹿者扱い。時の流れ如何ともし難く、昭和19年1月、洲ノ崎海軍航空隊へ入隊する。帝国海軍始まって以来と云われる猛訓練を9ヶ月受けて実施部隊へ配属。昭和20年1月、寛三先生が態々大分航空隊へ面会にお出で戴く。本当に嬉しかった。61年前の話。昭和20年8月6日、広島。9日、長崎へ原爆投下。15日終戦となる。同期五百名中68名戦没する。一命は取り留めたものの、よく助かったものである。 復員して10月頃、戦中学問を中断して従軍した者に学問の道が開かれる事になる。戦中大阪での食料事情を知る私は、大阪の摂南高専(大阪工大)への進学は怖い思いであった。四国内の徳島工専を受験した。「民主主義とは何ぞや」の作文のみであった。見事アウトになる。
 
 それ以後、家業の建築のみに精を出す事になる。縁あってよき妻に巡りあい、四人の子供に恵まれる。子供はそれぞれの能力に応じて大学は卒業させる。私は多忙の仕事をこなしたら社会奉仕にも精を出す。ボーイスカウト隊長。民生委員。中、高PTA会長。公民館長等。あれこれの社会奉仕が評価されて、昭和49年11月川之江市長に選ばれる。無事四期16年勤める。其の間、昭和57年、創元設計に川之江文化センターの設計を依頼完成する。あかぬけした設計であると市民の評価が高い。創元設計杉山社長に深く謝したい処。昭和63年4月藍綬褒章受章。平成6年4月勲四等旭日小授章授章。平成13年11月川之江市名誉市民の称号拝受。今年82歳人生の晩年を迎えて反省する事ばかり。石川寛三建築事務所での修業は人生にとり色々と勉強の機会を与えて戴く。帝国海軍の二年のご奉公は果たして精神的に鍛えられた事はよしとして、学問を中断した事は長い・・・人生の事を考える時、疑義未だ消え去らない。
 
 悩み多き十代の思春期、石川寛三先生の人格に接し薫陶を受く。又杉山さんの人生の甘いも辛いも知り尽くした江戸情緒豊かな人格に触れる機会を与えて戴く。・・・私の書生奉公、ほんとうに人間形成にとって大きな糧となる。心より謝して筆を置く。

 以上が石津氏の手記である。長いもので、まぎれもなく石津氏の書いたものである。しかし、ここに書かれた、人生語りの奥にあるものを補足しておきたい。一番劇的な事を、氏はあまり語りたくないようである。筆者が石津氏の原稿を読んでいて、わかりにくいので質問をしている時感じた。だから、余計なことを書く事は、失礼にあたるかもしれないが、書いておきたい。
 
 昭和20年石川所長が、大分航空隊に石津氏を訪ねている。しかしこの時氏は、遭遇した事柄(戦闘)を、所長に語っていない。それは、現在「レイテ沖海戦」と言われる。石津氏はそれに参加し、九死に一生を得て帰還していた。昭和20年8月15日が終戦の日であるが、石川所長が石津氏を訪ねたのが1月、戦局は終局に向かい、微妙な展開を見せる時期。氏の経験は当時軍事機密であり、話せる時期ではない。氏は石川所長に、事情を一切語らず別れた、と想像できる。

 では、ここで改めて「レイテ沖海戦」を、平凡社デジタル百科事典から多少編集して転載してみよう。

  1944年(昭和19年)10月23日から26日、フィリッピン周辺海域で行われた日米両艦隊による海戦で、参加兵力(日本側水上艦艇17隻、飛行機約700機、アメリカ側152隻、飛行機約1300機)、戦闘距離、死傷者数などにおいて史上最大の海戦である(作戦系は略)。この海戦で日本側は戦闘艦艇29隻と航空機多数および人員約1万人を失った。アメリカ側の損失は7隻に過ぎなかった。この海戦以後、戦闘艦艇としての日本の連合艦隊は消滅したと言う。石津氏は、この戦闘で航空母艦「瑞鶴」に乗船。「瑞鶴」の戦闘は約2時間で終った。沈んだ船からかろうじて脱出し、僚船の駆逐艦に救助され帰還した。その時、戦艦「武蔵」は沈み、「大和」は生きのこった。

 
(写真は上から、浅間山、津上製作所旧ゲート、津上製作所旧ネームプレート、構内の桜、津上製作所近くの筆者の故郷。)

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その三十一最終回
 
 最後は文章を書くつもりがない、と言いながら、おしゃべりの癖がでる。津上兄弟を中心とした時系列経歴を書く前に、お知らせしておきたい。「ブロックゲージ」を書いたお陰で、津上退助氏、裴 富吉(べい ぶぎる)氏の論文、悟道卓雄氏、昭和製鋼所、満州というルートから、武藤富男氏に至った。そこで次回シリーズは、「武藤富男」氏を書き、満州の関連で東海大学創業者「松前重義」氏も書きたいと思うようになったが。

 武藤氏は、満州国の司法構築という官僚体験を経、戦後官界を去った。その後、キリスト教界と深く関わる。その氏が、他の人と共同で、ギリシャ語から訳した「口語訳新約聖書」(キリスト新聞社)がある。昭和27年のもので、それが武藤氏の戦後の出発点となった。一方、松前氏は余り知られていが、無教会派のクリスチャンで、氏も満州に深く関わった。

 では、このぐらいにし、本題に移ろう。各位の敬称は、省略させていただきたい。

●明治10年(1877)悟道卓雄生る。
●明治26年(1893)津上退助生る。
●明治31年(1898)ヨハンソン(スウェーデン)のブロックゲージ世にでる。
●明治33年(1900)津上研蔵生る。
●明治34年(1901)伍堂卓雄(24歳)東京帝国大学工科造兵学科卒業。津上退助、福岡県立中学修猷館卒業、三井工業学校卒業、渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に就職。(津上退助について、筆者に年次資料がない)。
●明治38年(1905)伍堂卓雄(28歳)造兵監督官として英国ヴィカーズ社に出張研修。
●大正8年(1919)帝国海軍呉海軍工厰「科学的管理法」導入。伍堂卓雄(42歳)同所部長。
●大正11年(1922)津上退助(29歳)上京、大井町に住む。
●大正12年(1923)津上退助(30歳)メトロポリタン ヴィッカーズ社東京支店(丸の内)に午前中勤務。午後、本所大平町でブロックゲージ研究に入る。同年9月1日、関東大震災のため創業地全焼、しかし、石川島飛行機、中島飛行機、三菱重工、川西航空機、九州飛行機などから、飛行機部品の受注を受け、それを近隣工場に発注し、研究と経済活動を再開。
●大正14年(1925)津上研蔵(25歳)九州帝国大学工学部機械科卒業。
●大正15年、昭和元年(1926)津上退助(33歳)武蔵小山に津上製作所を創業。ツァイス測定器など設置。
●昭和2年(1927)世界恐慌。津上退助(34歳)、服部時計店(セイコー)創業者服部金太郎の出資を得る。
●昭和3年(1928)伍堂卓雄(51歳)昭和製鋼所(満州国)社長に就任。津上退助(35歳)資本金15万円で株式会社設立。蒲田雑色に工場を建設し、ツァイス光波干渉計、治具(Jig)、ボーリングマシン、工具顕微鏡、万能測定器など、スイス、ドイツ、アメリカ製を揃える。このツァイス光波干渉計がブロックゲージ国産化に繋がる。このころ、研究に津上研蔵(28歳)が加わったと思われる。
●昭和4年(1929)津上退助(37歳)アメリカの工業雑誌「アメリカマシニスト」主筆、コルヒと会う。商工省が工業奨励金制度を創設、その助成を受ける。
●昭和5年(1930)コルヒ、津上製作所を機関誌に掲載、一躍有名になる。海軍艦政本部、同航空本部、陸軍砲兵工厰、商工省、各民間会社の訪問を受ける。
●昭和6年(1931)津上兄弟ブロックゲージを完成。ヨハンソンに遅れること33年。ヨハンソンブロックゲージの経年劣化を批判。満州事変起こる。
●昭和7年(1932)満州国成立。石川寛三(44歳)住友本社営繕部を辞し、石川建築事務所(大阪天王寺、現在の創元設計)を開設。
●昭和9年(1934)津上製作所、三井財閥の資本参加を得る。
●昭和11年(1936)津上製作所と三井財閥の間に対立が生じ分離。三井財閥は三井精機株式会社となり、津上製作所は大阪機械製作所と共同出資し、東京代々木深町に移る。このとき新潟県長岡市に土地を選定し、工場を計画。石川建築事務所に設計依頼。後の津上安宅製作所信州工場建設責任者となる木本守治(43歳)、早大卒、内務省を経、東京高等工学校(現在の芝浦工業大学)教授となる。
●昭和13年(1938)9月10日、津上製作所新潟工場(長岡)第一期工事完成。軍需工場動員法、国家総動員法、重要産業統制法、工作機械製造事業法などできる。津上製作所、工作機械製造事業法第一回指定工場(全国で4社)となる。同時に大阪機械製作所が事業から撤退。安宅商会が資本参加し、社名が津上安宅製作所となり、本社を東京市京橋区銀座西二丁目三番地に置く。
●昭和14年(1939)津上安宅製作所新潟工場(長岡)第二期工事起工。第二次欧州大戦勃発。津上研蔵(39歳)名古屋大学工学部教授となる。
●昭和15年(1940)(紀元2600年)津上安宅製作所新潟工場(長岡)第三期工事起工。株式を大阪証券取引所に公開。
●昭和16年(1941)日本は英米オランダと開戦。大東亜戦争がアジア極東大戦の様相となる。津上安宅製作所新潟工場(長岡)第三期工事終る。通算4年の建設計画が終了し、日本軍管理工場となり、陸軍航空本部より航空機生産用精密機械増産命令を受ける。当時の株主は739名。その主な関係者は、津上退助22,500株(津上安宅製作所代表取締役社長)、津上明100株、津上退助360株(津上向上会会長)、茶谷保三郎148,950株(安宅商会専務取締役)、安宅重雄6,250株、石川寛三100株(石川建築事務所所長)など。
●昭和17年(1942)海軍航空本部、艦政本部の要請により、安田財閥及び戦時金融公庫の融資を受け、長野県北佐久郡中込町に津上精密光学工業株式会社(本社東京)(以上当時の正式名称で、ここでは今まで津上安宅製作所と書いている)を設立、工場設計を石川建築事務所に依頼し、杉山広吉(34歳)が設計者として現地に常駐。木本守治(49歳)、東京高等工学校(現在の芝浦工業大学)教授を辞し、津上精密光学工業信州工場建設責任者として現地赴任。
●昭和18年(1943)戦況の逼迫を受け、政府は工作機械を極端に簡素化した、戦時型標準工作機械を制定。
●昭和19年(1944)津上が軍需会社法により軍需会社に指定される。
●昭和20年(1955)津上安宅製作所は津上精密光学工業を吸収合併、社名を津上製作所とする。7月20日津上製作所長岡工場に原爆模擬爆弾(通称パンプキン)が投下される。パンプキンは全国49カ所を目標としたが、その第一日目の3カ所投下の目標の一つであった。原爆投下計画によれば、津上製作所は原爆投下目標の調査対象工場であった。津上研蔵(55歳)取締役に就任。8月15日終戦。津上製作所信州工場は建設途中で中止、その後津上製作所は逡巡の後、戦後平和製品として「ミシン」などを製作した。

 
(写真は、原爆投下経緯が書かれた、米軍資料の翻訳本。ここに、津上製作所調査記録が書かれている。だぶっているが、敢えて載せた。)

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エピローグ
 
 ブログ(祖父ネット)を始めてから、何年経つのか。NHKニュースで観て、すぐ始めた。言うまでもなく試行錯誤。やっとこれで、長文を一回の張付けで実現した訳だ。それでも写真の扱いは充分ではない。確かに、契約している容量は膨大で、自分が使用している量などは、これでも5%に観たないと思う。つまり使いもしない容量の料金を、ココログ主催者側に毎月払っている勘定である。なぜこのような無駄を強いるのか、残念ながら何もわからない。

 その上、これは「本」なのか、どうか。国会図書館は、このような長文を今までの本と同様、「文化」として扱い、保存するのだろうか。その点も不明である。しかし、そうかと言って、今までの文化としての本は、明らかに片手落ちだ。国会図書館が「本」として扱い保存するものは、出版する部数が、少なくとも100冊以上で、きっちりと本としての体裁がなければ、真面目に扱わない。当然のことである。「本」とはなにか、と言う問いは、実は切ない。たくさんの経費を掛けること自体、個人には無理で、そんな本は無数に存在するに違いない。しかし、それは保存されない。単なるつぶやきとして、消えているだけである。いわば泡沫メモであり、シャボン玉メモである。

 しからば、このようにブログを使用し、ただ単に長い文章をもって「本」とするのもどうだろうか。長ければブログでも、国会図書館は保存するというのだろうか。紙本は多大の経費を必要とするから、その点で選別がされる。慎重に本は作られ、経費を掛けるからこそ、真剣に書く。それが、ブログ本は、やたらに「あ」という字を、何百万も書き加えれば、それが本であるというのなら、それは「本」だろうか。「あ」という言葉であり、人間の無数の嘆きの表音だと言えば、それこそ「文学」なのであるが。

 ということで、これからの問題となろう。ただ、今回の経験から言えることは、実に貴重な経験であったということに尽きる。もし、このような機会に恵まれなかったとすれば、この「本」日本ブロックゲージ生誕史は、生まれなかったと思う。曲がりなりにも、こんな形で世に出せたのは、まさにココログブログのお陰というしかない。今、世の中は本当に急速な変化をしている。その急速な変化が人にたいし、どのように資するのか、誰も分からない。単に有害であるかもしれず、まったく人類崩壊の現象の一つだと、言うことも可能なばかりである。しかし、人は言語を使用して「文化文明」を生きている以上、ともあれこれで好いのである。「ブロックゲージ」と言う地味な機械用具が、これほど世界史に影響を与えた、ということを知ることを知らせられることは、何とした幸せであることか。それも、とるに足らないブログ本で。

おわり


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「昭和を閉じる」/執筆中

 
写真は呉天華ギャラリーの看板

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(すべての敬称を略します)

 ある日のことである。

近所の「呉天華ギャラリー」に、「安土忠久ガラス展」を観に行った。

そのギャラリーに行くのははじめて。閑静な住宅街の一角にギャラリーはある。ときどき、散歩の時に見かけていた。しかし、いままで開いていたことが無く、何となく気になっていたのである。内部に入ると、ガラス器のほかに、絵が何枚もかかっていた。

自分も絵を描く。

三十歳まで絵に放蕩した。サラリーマンをしながら、示現会という絵画の団体が主宰する夜学に通っていた。現在の示現会絵画研究所は当時、駒込美術学園といってJR駒込駅前にあった(今は北口に移っている)。小さいが曲がりなりにも学校であった。学生証なども出る学校で、芸大や、ほかの美大の受験生が多く勉強していた。

私はすでに24、5歳で、結婚なども真面目に考えなければいけなかったのであろう、が。絵の勉強を始めてしまった。もともと計画性などとは、およそ縁のない人間で。そんな事をしながら、結局30歳まで、せっかく稼いだお金を、絵と遊びに使い果たした。マー、絵が好きなのである。その後、人の世話になって今の家内と結婚し、生活と必死に戦いながらも、絵だけは、一人孤独に細々と続けた。65歳、サラリーマンを卒業する頃、示現会展に出品し続けた、学校時代の友人の勧めで、再び示現会に出すようになった。今は会友という、示現会では一番低い地位にいる。だから、自然と絵に眼がいく。

絵を見ていると、係の人がギャラリーのいわれを話してくれた。それは自分の父で、芸大を出ていて、台湾の出身で、すでに亡くなった、などである。聞いていても、始めはよくわからない。しかし、絵だけはよくわかる、すばらしい具象絵画だ。

その人の言うには、今でも作品が700点強、保存されているという。あるいは、1000点とも。その上、画家は一点の絵も売らなかった、と。サプライズ、ぐーっと興味が湧いた。で、パンフレットを頂いて、読んだ。それによると、略歴は次のようなものである。自画像も印刷されている。その自画像は1978年に描かれた、とある。ご紹介しよう。

1911  台湾省彰化市に生まれる。
1927  台北市台湾商工学校入学。
1928  3月、無断で基隆港より勉学の為、来日。
      東京市私立城西学園中学校3年編入。
1931  同校卒業。美校入試の為、川端図学校入学。
1933  美校入試失敗と生活困難の為、帰国。
1934  再び来日、川端画学校に学ぶ。
1936  東京美術学校本科油絵科入学(現・東京芸術大学)。
1941  同校卒業。
1946  東京芸術大学研究科入学、安井曾太郎に師事。
      同年結婚の為、学業を離れる。生活不安の為、
      5年間実業に就き、長女の死に会い画道にもどる。
1969  東京医大で血圧検査中に倒れ、半身不随で半年間入院。
      その後、練馬病院に緊急入院するなど、1973年まで空白の4年間を過す。
1974  再起し、画筆を取り今日に至る。
      願わくば、地平線上にかかる深紅の夕陽である様に−—−−−。(原文のまま)

 
 
パンフレットの作成日は記載されていない。

そのパンフレットでは、台湾から無断で来日、芸大に入学、大学院まで進んだ、という事までは分かる。しかし、絵は一枚も売らず、とは書いていない。繰り返すが、サプライズ、だ。

あのサプライズから、すでに二三年が、たちまち過ぎた。

その後、そのギャラリーによく寄るようになった。絵もよく観せてもらっている。大量の絵も整理された。その結果、パンフレットの行間に潜む、画家の深い人生が少し見えるようになった。書かれ(描かれた)たものから溢れ出る、パンフレットには書かれなかった微妙な問題。それを書き始めることによって、「昭和を閉じる」などという、大げさな題名に相応しいものが、書ける、か、どうか。いや、書いてみたい。何かと資料を溜め込んだので、「昭和を閉じる」を本格的に書いてみたい、のだ。

少し、脇道にそれる事を、書く。

最近の「祖父ネット」の書き方は、以前と違っている。文章は何度も推敲しているが、その度に、公開している。以前だと、書く度に新たに頁を更新し、その更新が、右側のカレンダーに表示された。しかし、一種の「電子書籍」として完成させたいので、項目を祖父ネット上でも絞り込み、その中で、徹底的に推敲し、その項目を完成させる、という方法に替えた。そのために、カレンダーには「更新」のマークが出ない。また、推敲を重ねるから、日々文章が変化する。

その理由は、いわばブログの一項目の中の「電子容量(原稿用紙に相当する)」が、意外に大量で、未だその限界すら分からないほどである。しかし、あるとき、何やら書きなぐり的に毎日更新するより、じっくりやってみようという意識が出て、実験してみた。それが、私なりに成功した。読む側からすれば、まことに厄介で、日々変化、または都度変化するので、何が何やら、分からないかも知れない。

この書き方は、またはブログの利用方法は、まったく新しいものである。だからといって「昭和を閉じる」に、全体構想がないという事はない。むしろ、今までかなりの資料を蒐集し、その読みを、今でも継続中である。私は、読み応えのあるものが「電子書籍」として完成すると、確信している。

では、本題に戻りたい。

二三年の間に、画家の作品も「呉天華ギャラリー」の責任者によって、だいぶ整理された。画家は1911年生まれであるから、有名な辛亥革命の年に生まれている。今の近現代中国を創るきっかけになった革命が辛亥革命で、100年が経過している。最近、芸大時代のノートを見せてもらった。それは戦前における、東京芸術大学(当時は東京美術学校)の授業の高さが分かるもので、実に見事だ。さらに、立派な同窓会名簿もあった。そこには当然、世間に知られる有名画家が並んでいる。そんな事で興味が高じる。いったい、「画家呉天華」とは何ものであるのか。

この鍵を握る初めのものは、城西学園であるに違いない。その学校を尋ねて見る事にした。幸い、家からは歩いていける距離にある。
 

写真は画家呉天華の自画像
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 学校は何度か偶然、前にその脇を通っていたので記憶があった。しかし、まさか自分が、その学校を尋ねるとは、思っても見なかった。幸運にも事情を話したところ、こころよく一人の理事とお会いできるという。そのさい理事は、二冊の参考図書と、最新の同窓会名簿を見せてくれた。これが、意外な展開にいたる。昭和を閉じる、つまり自分なりに昭和を整理するという営為を完成させてくれた。

その一冊は「資料城西学園六十年史」で、もう一冊は「政界財界五十年」という本である。著者は「中島久万吉」という見知らぬ人で。今まで、聞いた事のない人、であった、が。学校そのものも、失礼ながら存じ上げなかったぐらいだから、二冊とも馴染みのないことで。とりあえず、本の題名をメモし、学校の最新名簿をまずみせていただいた。いうまでもなく、目的である「呉天華」を調べるためである。

名簿を調べながら、理事が学校の歴史を話して下さる。しかしまずは、「呉天華」を探してくれる、が、「ない」。「呉天華」という名前が、出ているだろうと推定される年代には、朝鮮、台湾、満州から、多くの人が来ている。しかし、肝心の「呉天華」が「ない」。そんなわけはない、と、フト、理事が、「ご」ではなく「くれ」ではないか、と言い出された。

なるほど、もちろん「くれ」と、よめる。

理事は一生懸命さがしておられる。しばらくして、たしかに、あった。そこに「くれ」と読まれた「呉」という名前が、ずらー、と並んでいる。そこに、「呉天華」もあった。

見つけにくかったのは、初めに見た卒業年度別記載に、やや似た名前があって、「呉天華」は見当たらなかったからである。多分、それが「呉天華」である。つまり、誤植が二カ所あったわけである。卒年時の氏名の記載ミス、さらに読みのミスである。なぜ、「くれ」と読んだのか、理事の説明はなかったが、深いものがあるのか、単純ミスなのか、分かるものではない。先ず単純ミスであろうが、いったい「くれ」と読むのだろうか。余り深く追求する事は、はばかられる。それだけ、時間が遠くに過ぎ去ったのか。私には「ご」としか読めない、が。そんな過去が、計らうづも堀起こされた。もっとも私とて、70歳、新しいとは言えない、ことであるが。

それでやっと、確認ができた。

確かに「呉天華」は、この学校を卒業している。あの時代、何と多くの人が、アジア全域から東京を目ざしたことか。魯迅などは、有名である。仙台の医学校で日清戦争の幻灯を見て驚愕し、文学に進路を変えた人だ。それはこれらの後で、少しずつ頭の中で整理されていったことであるが。清国からは「留学」であり、満州、朝鮮、台湾からは「上京」である、という、ややこしい話が私の頭の中で展開した。
 
理事のお話が、深くなっていく。

すなわち城西学園の歴史である。当時、城西学園に学びに来た、ここからが表現が難しい、「外地」の方々は、多かった、と。だんだん私も引き込まれた。そして、分かってきたことは、台湾も、朝鮮も、満州も、当時は、、、どの地域も日本であった、ということ。つまり、画家呉天華は当時、「日本人であった」のか、という、かすかな響きが、わずかに頭のどこかに生まれ始めた。

呉天華の経歴には、明らかに「来日」「帰国」と書かれている。その上、最後の謎めいた文章、「願は(わ)くば、地平線上にかかる真紅の夕陽である様に――」。西の空は、ヨーロッパか、台湾は南の空、か、とか、いろいろ考える。いや、これは望郷の深い思い、ではないか。画家だから、やはりヨーロッパへの憧れをあらわすのか、など。

切ないものが、こみ上げて来る。このパンフが作られたのは、1974年以降である。その時の画家の立ち位置はすでに戦後の日本である。だから、呉天華はもはや日本人、ではない。台湾人呉天華である。だから、来日当時は「上京」であり、現在で考えれば、、、、。どうもむつかしい歴史、なのではないか。実際の歴史の流れに「画家呉天華」を置くとなれば。当時、それは明らかに「上京」である。どこからか「外地」から、であろう。だから、帰国は帰郷ではないか、など、どうもうまく表現できない。

帰宅して早速、参考に見せていただいた二冊の本を、古書ネットで購入した。しかし一方、ギャラリーには、同窓会名簿が保存されていたことが分かった。昭和40年度のもので、私が理事にお会いして後、ギャラリーから提示された。その昭和40年、すなわち1965年の名簿によれば、呉は昭和6年、城西学園中学第三回卒業生である。そしてそこには、卒業生各自の、さらに進学した学校名が記載されていた。

列挙してみよう。

(ダブりは一校表示とする。)
立教大、法政大、巣鴨高商、明治大、東京農大、
秋田鉱専、中央大、青山学院、早稲田大、東京薬専、
専修大、東京商大、物理学校、東京工大、岩手医専、
水産講習所(水産大)、専大、日大、川端画学校、
戦死3名、
など52名。

残念ながら、私の卒業した明治学院大は、この時点では出ない。が、後でかなり出現する。この中で呉は、川端画学校である。そして後で芸大に入学している。勿論、戦後の学校制度の変更で、学校表現には統一性がない。断っておくが、呉の卒年した昭和6年は、「戦前」である。

ただ驚いたのは城西学園という、今まで知らなかった学校が、当時これらの高度難関校への大量入学を可能にした学校であった、ということである。卒業生はたったの52名、ではないか。この高い進学率を可能にしたのは、何か。学校は当時、5年制である。そして、この学校の創業者は「中島久万吉」という人。いったい、なにものであるか。それは彼の著書「政界財界五十年」を読まなければ、分からない事である。こんな立派な学校を創立した人物とは、一体何ものであるか。興味は尽きないのであるが、その前にやる事が一つある。

ともあれ、まず「台湾史」が必読であると思うようになった。ジュンク堂へ、いつもの様にすっ飛んでいった。読んだことのない台湾史、触れたことのない国、南国の小島の歴史。そして発見した本(写真)。そこには驚くべきことが書いてあった。その未知の歴史は、大陸中国史がぎっしり並んだ隅の、ごく一部に、ひっそりと私を待っていた。
 

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 私は戦後派である。多少は、蒋介石総統を覚えている。あるとき、いつだったかは忘れたが、彼の像が、今や破壊される時代を迎えた、と報道された。深い意味は一切分からずに、中国語を勉強していたときではないか。読むと、台湾史は悲しすぎ、複雑すぎて書けるものではない。どう書けば、いいのやら。本を読んでもらうより仕方がない。が、この本がもはや、売り切れ絶版。平凡社に聞いたところ、再版の予定はあるようだ。要するに蒋介石は、大陸で毛沢東に敗れ、後退して台湾を拠点としようと考える。その際、台湾に共産党のアジトがあったら大変と、台湾を粛清する。これが白色テロである。

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 まず50年間にもわたり統治された結果の、日本化台湾人を標的にし、戒厳令が敷かれた。それは、以後50年間も続いたという。縛りの合計は日本統治も含めると、100年。手始めに、かつての日本化された台湾人を圧迫する。それだけでも複雑怪奇ではないか。その上、共産主義思想の撲滅も行わねばならない、とか。蒋介石は共産党に敗北し、共産思想を極度に恐れたのであろう。だが一体、かつての日本人で、今は台湾人である共産主義者を、あぶり出すことができるのか。

 あのとき、呉天華氏は戦後の日本から、独立した台湾に帰ろうと思ったかもしれない。しかし台湾の情勢は、このようにいたって複雑であった。もちろん、氏は知っていたのであろう。台湾に白色テロが横行し、密告がはびこったことを、しかしこれ以上は書けない。当時、共産中国はまだまだ、台湾など問題にする余裕はなかったはずだ。にもかかわらず、蒋介石は明確に、敵を中国共産党(中華人民共和国)であるとし、台湾の戒厳令は一段と厳しさを増したようだ。本には白色テロに加え、さらなる事件が書かれている。「二・二八事件」である。そこに呉天華氏の先輩が書かれている。陳澄波氏、明治28年(1895)に生まれ、昭和22年(1947)年に、二・二八事件によって処刑された。事件については書けない。

 陳氏は日本統治下の台湾人で生まれ、日本人となり、処刑された時は、中華民国の台湾人である。氏は東京美術学校(東京芸大)を卒業後、研究科に進んだ。呉氏と同じ経歴を持つ、呉氏の先輩である。第7回帝国美術展覧会で入選。帝国とは、言うまでもなく、「大日本帝国」のこと。さらに帝展、その他の展覧会に入選している。呉天華氏が大切に持っていた、「東京芸大同窓会名簿」に、その名前がある。当時の住所、「台湾嘉義市西門町2−125」と記載されている。本にある、氏の嬉々とした若々しい写真。それは第7回帝国美術展覧会入選インタビューの時に撮影された、とある。なんと、悲しい写真であるか。なんと、悲しい若者で、あるか。

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(2012/1/8 日曜日、加筆)
 
 悲しい台湾史に触れてしまった。

 台湾が特に激しく動いた近現代史の中でも、深く日本と関わる部分を書くことになった。しかし、これ以上は書けない。読者が自習していただきたい。実はこの辺りから、城西学園理事が教えてくれた、もう一冊の本に移りたいと思っていた。それが私の学んだ「明治学院」と深く関わったので、実際、びっくりした。なぜ「明治学院」であるか。で、もちろんすぐにでも書きたいが。持っている資料だけで、実は書ける。予定では、その、はずであった。しかし、それが少し事情が変わった。

 それは、台湾から満州というプロセスを、意識し、よく知らなかった台湾史が、世界近現代史の縮図と思うようになった。そこで、昭和を閉じるための本、がある事に気付いた。それも「明治学院」と関わる。そのほうが、「中島久万吉」を、いきなり紹介するより効果的ではないか。

 本は、「満州国の断面/甘粕正彦の生涯」武藤富男著 昭和31年 近代社、である。

 著者の武藤富男氏は、明治学院院長を歴任した人で、祖父ネットも直接知っている。武藤氏はWikipediaにも出るが、余り詳しく書かれていない。氏は、祖父ネットが明治学院の学生の頃の院長で、就任は1962年(昭和37年)である。しかし、院長就任以前にもたびたび、授業礼拝で説教をしていたと思うので、十年間在学したものにとっては、おなじみの人である。なお、その本の「序」を書いたのは社会事業家として有名な賀川豊彦氏であり、この人はWikipediaではかなり書かれている。本は250頁以上ある。「序」を転載してみよう。
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 古代ロマのタシタスは、その時代の八十数年間に渡る現代史を書いた。そして、史学に新生面を開いた。「満州史」は、生きた国家の興亡史である。満洲史は小説以上のロマンスでもある。個人心理と民族心理、経済機構と侵略主義、智謀と野心、情慾と聖浄が織りまじり、日本の滅亡の大事な中幕と成った。私は、この生きた歴史の側面をよく知っている友人武藤富男氏に促して、彼の記憶のまだ生々しい間に、善いいことも悪いこと悉く気の附くままに書き残しておいて欲しいと要求した。そして彼は多忙な、時間の無いその中を、彼の劇的な観察眼で、満洲史の断面を描き出してくれた。彼は正直に、世界史的視野に立ち、日本の敗北史の一断面を描き出す意味に於て、満洲史の一側面を描いてくれた。
 
 この生きた歴史を喜ぶ人もあろうが彼と共に悲しむ人もあろう。だが、既に下った神の審判の前に、私は襟を正してこの書を再読静思するものである。私は旧約聖書の歴代史略の続編と、新約聖書黙示録の現代版を一緒に読む気持ちで、この書を恭しくおし頂くものである。

1956.7.28
賀川豊彦
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つづく

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2011.11.05

「老人信仰」/執筆中

(2012.H23.5.25早朝)

今朝のネットニュースは、久しぶりに現役時代を思い起こさせた。
記事は次のようなものである。全文を要約しておきました。


「 30〜50代の男性のうち、会社役員や部課長ら「管理職」と医師や教員ら「専門・技術職」の死亡率が2000年ごろを境に急激に高まり、事務職など「その他の職種」の平均を上回っていることが分かった。働き盛り世代の身辺にどんな危機が迫っているのか。【大槻英二】

 ◇健康格差逆転?

 北里大の和田耕治講師(公衆衛生学)らが国勢調査を基に、職種を(1)専門・技術職(2)管理職(3)その他の職種(事務、販売、労務職など)に分類し、それぞれの死亡率(10万人当たりの死亡者数)を分析した。その結果、3グループとも1980年以降、死亡率は低下傾向だったのに対し、00年には管理職の死亡率が95年の1.6倍、専門・技術職は1.4倍に跳ね上がり、その他の職種の平均を上回った。

 死因のうち増加が目立ったのは肺・大腸のがん、さらに自殺だ。00年の肺・大腸がんによる死亡率は、その他の職種では95年より低かったが、管理職と専門・技術職では1.3〜1.7倍に。自殺による死亡率も、その他の職種の1.4倍に対し管理職は2.7倍、専門・技術職は2.3倍に上昇した。欧米では、生活管理への意識が高い管理職や専門・技術職の方が、生産現場などで働く「ブルーカラー」より死亡率が低いというのが「定説」とされてきた。今回のデータから「日本特有の健康格差の逆転が起きている可能性がある」と和田さんは言う。死亡率に「異変」のあった95年から00年にかけて、日本の労働環境は激変した。97年に山一証券が破綻するなど企業の倒産が相次いだ。大規模なリストラが現実のものとなり、年功序列や終身雇用制度も崩れ、成果主義が導入された。管理職には、職場の仲間を切らねばならないというストレスや、次に職を失うのは己では、との不安が重くのしかかった。自殺者数が急増し初めて3万人を突破したのは98年だ。高橋さんによると、米国では、企業トップが専属の臨床心理士や精神科医を持つケースも多い。「まずは言葉にして誰かに聞いてもらうこと」と助言する。和田さんは「管理職や専門職が疲弊すれば組織は回らなくなる。健康は自分が守るとの意識を持つことが大切」と説き、今回の調査結果を「日本人の働き方を考えるきっかけにしてほしい」と言う。本当に病院にも行けないほど忙しいのか。「管理職受難」の時代を乗り切るには、意識改革が求められているのかもしれない。」


実は、祖父ネットも同じ時期、小さな会社のオーナーであった。同じように激変の嵐に襲われ、仲間の何人かが死んだ。小さな会社は二つに分裂したが、自分を支持してくれたものに、死ぬものが多かった。「保守」とい言うものは、革新側よりもストレスが多いと思いました。

今朝も読んだ内村鑑三著(「一日一生・続」教文館)の言葉は、新約聖書ヘブル書13章14節を使っている。すなわち、、、、

この地上には、
永遠の都はない。
きたらんとする都こそ、
わたしたちの求めているものである。

この聖書のことばをもとに、内村は冒頭「われらは後ろを見ない。」と書き始める。その続きは、「一日一生」をお買い求めになり、お読み下さい。ただし、すでに教文館は続編を廃版にし、オンデマンド注文でしか手に入りません。誠に惜しいと思うのですが。この続編こそ、老人にとって、真に慰められる「一日一生」だと思うこのごろです。

ついでに気になったネットニュースも書いてみます。今度の原発事故の発散放射能はチェルノブイリ事故の20%程度だと知りました。それでも、少しは、救われます。下の絵は、わたしが働いていたころの池袋西口です。仕事の合間に、風景に夢なども含めてスケッチしたものです。

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(2012.H23.5.24早朝)
いつものように内村を読む。今朝は下記の通り。
やっと少し、暖かき朝になった。
近所をほんの一回りして、
主にビニール系のゴミを拾い集めて後、
これを書いた。

恩恵に富みたもう神は、
われらの信仰を確実にせんがために、
ときどき信仰表白の機会をわれらに供したもう。

しかしてわれらこの機会を利用し、
人の面をおそるることなく、
大胆にわれらの信仰を世の人の前に表白して、
われらはわれらの眠らんとする信仰を醒し、
われらの死なんとする霊魂を生かすのである。

されどもこの機会を供せらるるや、
大難のわが身に臨みしがごとく感じ、
おそれおののき、
なにかつまらなき理屈に訴え、
口をつむいで語らざらんか、
その結果はただちにわららの品性におよび、
熱心は冷え、
霊魂は萎(な)え、
ついに、
ありしわずかばかりの信仰まで失うに至る。

じつに信仰の危機とはかかる場合である。
この時にあたって、「キリストを知る」というのと、
「知らず」というのとによって、
われらの永遠の運命は定まるのである。

以上


この言葉を紡ぐのに、
内村は日本聖書協会篇、
新約聖書マタイ伝10章32節から33節を引用した。


(2012.H23.5.23早朝)
内村鑑三「一日一生(続)」(教文館)から

人生は短くある。
しかも完全である。
そのもの自体としては完全ではない。
されども完全なる生涯に達する準備としては最も完全である。
大学校としては完全ではない。
されどこれに入るための予備校としては完全である。

その歓喜と悲哀、
成功と失敗、
会合と離別、
和親と敵対、
熱き涙と耐えがたき苦痛、
これみなわれらを完成するために必要である。

現世のための現世にあらず、
来世のための現世なることを示されて、
われらは現世に生まれ来たりしことを悔いず、
また生涯の短きことを悲しまない。

われらは詩人ゲーテにならいて、
「この歓喜と悲哀とは何のためなるか」と言いて嘆かない。

われらに臨みし歓喜と悲哀とはことごとくその目的を達した。
われらはこれによりて幾分なりとも神を知り得た。
幾分なりともキリストの満ち足れる程度にまで達した。(エペソ書4章13節)

われらは過去を顧みて悔恨(かいこん)はない。
ただ感謝あるのみである。
すべての事は働きて益をなした。

この短き人生は、
限りなきキリストの国にわれらを導き入れるためになくてはならぬものである。

以上であるが、この箇所を語るのに内村は、
旧約聖書創世記5章21節から24節を使っている。

ーーーーーーー
(2012.H23.5.16早朝)
内村鑑三「一日一生(続)」(教文館)から

上の天に対して下の地がある。
光明の来世に対して暗黒の現世がある。
しかして信者は下の地に対しは塩であり、
暗黒の現世に対しては光りあるとのことである。
塩としてはすでに地にある善きものを保存し、
光としては、
まだ世にあらざる天の光を加う。

旧を保存するをもって満足せず、
さらに進んで新を増進す。

信者は保守家であると同時に進歩家である。
保守にかたよらない。
さればとて進歩にもかたよらない。

ユダヤ人のごとくに、
ひとえに旧にすがらない。
さればとてギリシャ人のごとくにただ新をのみこれ追わない。
守るべきを守り、
進むべきに進む。
地の塩であると同時に世の光である。
保守進歩の両主義を一身に体するものである。

(上記祖父ネットの解説)
マタイ伝5章の有名な箇所、あなたがたは、地の塩である、を使ったこの内村の解説には、内村の天才的なひらめきがある。私が気に入ったのは、この世を「暗黒の現世」と断定するところであり、光明の来世と堂々と対比してみせるところである。ここに現世認識を厳しく捉えると同時に、来世を希望として捉える、何とも言えない高い人格的人間像を見る。徳永直(すなお)の名作「太陽のない街」を研究中の今、それを率直に直視するスタミナを得ることができる。

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「私の住む町」ペン画/すぎやまかつみ

ーーーーーーーーーーーーー

(2012.H23.5.15早朝)
内村鑑三「一日一生(続)」(教文館)から
内村はこの箇所を書き出すために、
旧約聖書アモス書4章を引用している。
祖父ネットは、ある友人に宛てて書いているが。


平静数月にわたりて奇跡はやみ歌は絶ゆ。
われは思う、
われは神なくしてよく存在するを得るなりと。
しかるに青天霹靂として雷ていのわが心思を打つありて、
わが眼は覚め、
わが祈祷は揚がる。
しかしてわが声に応じて奇跡のわがためにおこなわれ、
援助の思わざるあたりよりわれに臨むや、
歌は再びわがくちびるに浮かび、
詩は再びわが筆より走る。
平和の神はまた擾乱の神なり。

彼は新たに自己(おのれ)をわれらに示さんがため、
しばしば雷ていをもってわれらに臨みたもう。

ペテスタ(注、聖書にある)の池に水の動くは、
天使のその中にくだりてなり。

われらの平和の乱さるるは、われらに恩恵の臨みしによる。
(ヨハネ伝5章)

(2012.H23.5.10)
老人になるという事は、人生の清算が始まるという事である。内村鑑三「一日一生」(教文館)続編の5月10日の項には、その事が書いてある。

「キリスト教の十字架にキリスト教はある。十字架の道、これがキリスト教である。キリスト教に他に何があっても、もしキリストの十字架がないならば、キリスト教はないのである。キリスト教は道徳の道にあらずして贖罪の道である。そして贖罪は十字架の上におこなわれたのである。キリストは人に人道または天道を教えんために世に来たりたまいしにあらず。人類の罪を負いてこれを除かんために来たりたもうたのである。キリストの十字架に、この深い普遍的な意味がある。この意味において十字架を解して、聖書と人生とを解し得るのである。」

この内村の解説は、ガラテヤ書6章の聖書の箇所を引用している。以上を読んでつくづく、自分の人生と行き交った、多くの人々を思い出し「しかり」と思わざるを得ない。自分も含め多くの人が、いわゆる罪に倒れていく日々を、経験しているからである。今までの人生について、キリストの十字架を通し、罪を許していただくしか他に方法がない、という事を深く感じないわけにはいかない。


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(2012/4/30)
言うまでもないが、ばかばかしい話である。教会の牧師というものがいかに、有害であるか。

 
またコーラン焼却=フロリダのお騒がせ牧師—米
時事通信 4月29日(日)23時3分配信
 【マイアミ(米フロリダ州)AFP=時事】米紙ゲインズビル・サンは29日、反イスラムのキリスト教聖職者として知られる南部フロリダ州のテリー・ジョーンズ牧師が28日、イランでの牧師拘束に抗議するため、イスラム教の聖典コーランを焼却したと報じた。ジョーンズ牧師は昨年3月にもコーランを燃やし、アフガニスタンで大規模な暴動を誘発している。
 同紙によると、ジョーンズ牧師は同州ゲインズビルの教会前で、約20人が見守る中、仲間の牧師とともにコーランを焼き捨てた。 

(2012年/平成24年4月29日)
国立新美術館で行われていた示現会展も無事終了した。その間、「祖父ネット」は書かなかった。

そんなとき、ある教会で起こった深刻な訴訟事件を傍聴した。牧師二人が、その教会の信者三人を提訴したのである。その教会に友人がいて、裁判を知って出かけた。その教会の名前は書かない。

この種の話には、当然ながら、キリスト教信者として嫌悪の情がわく。老人信者としては、ニコニコして、感謝し、春咲く花などを観て、喜んでいたいのである、が。

首を突っ込む方がいけないとは、分かっている。が。これでも、若い時は、裁判の一つや二つは経験済みだ。その時の法廷と変わらず、裁判の進行も経験通り。そんなことで裁判そのものは、目新しくもないが、その内容は新鮮にして、嫌悪すべきものである。裁判官もあきれて、次回は和解ではどうかと意見し、そのようになった。

こんな事を書いていても、ぜんぜん面白くない。長が生きなどするものではない、という格言があるが、分かる(最近は、あまりきかないね)。

訴訟理由は損害賠償で、セクハラ、パワハラ、教会資金流用などである。中傷された牧師が、はなはだしく名誉や生活に、損害が発生したという、もの。信者側が牧師を解任しようとして、文書を配布した事が発端らしい。その教会では、牧師を正規の手続きで、うまく解任できなかったのである。そこで、文書作戦、となった。
私もプロテスタント牧師の解任は、教会総会で出来るはず、と思っていた。そんなに複雑な手続きではない、はずである。それが、興味を持った重要なポイントである。

裁判の内容を、ほんの少し書いてみたい。

証言台の牧師は、セクハラなどしていない、といい、一方、信者は、セクハラはこんな状態だった、という。だがどちらも、アダルト(大人)な内容にはほど遠い、と、小生には思えた。万事がこの調子で、話として一言で言えば、「幼稚な」話である。

ばかばかしい思いをして、帰ってきた。が、お陰で腹が決まり、もう一度、「無教会」に戻る事にした。今、私が会員となっている教会に、しばし休むと連絡し、この事件は、私としては幕を閉じた。

これで、私の基督教信仰はいっそう深くなる、とおもっている。勉強のやり直しでもある。人の罪は聖書にあるように、どこまでも底がない。

老人信仰としては、こんな程度で揺れるものでは、ない。信仰と教会に行く、という事とはあまり直接的な関係にはない。この点に興味のある方は、西洋史を勉強されたい。

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2007.12.18

聖書/詩篇第90篇

詩篇第90篇

90:1  O Lord, you have always been our home.

90:2  Before you created the hills /or brought the world into being, /you were eternally God, /and will be God forever.

90:3  You tell us to return to what we were; /you change us back to dust.

90:4  A thousand years to you are like one day; /they are like yesterday, already gone, /like a short hour in the night.

90:1 【祈り。神の人モーセの詩。】主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ。

90:2 山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。

90:3 あなたは人を塵に返し/「人の子よ、帰れ」と仰せになります。

90:4 千年といえども御目には/昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

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